よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひとと はなしをする そしてきっといちばん すきなものをみつける みつけたらたいせつにして しぬまでいきる (谷川俊太郎) 初めて一緒にいたいなとか、もっと話したいなと思った人だった。 だけど、その人にはもう好きな人がいる・・・らしい。 らしいというのは、ちゃんと確認したわけじゃないからであって、でもそういうことはいくら周囲に疎くても分かるものだ。 だって視線の先にはいつも同じ人がいるから。 生まれて初めて、誰かの視線の先にいる人になりたいと思った。 あの人の視線の先にいられたらいいのになぁと思った。 それは一生叶わない願いだと、分かっているのだけれど。 ちょっと目を離すとすぐに雑草が生えてしまう。 1週間前に綺麗にしたというのにな、と思わずがっくりと肩が落ちた。 ある意味元気がいいと言えばそうなんだけど、綺麗にするこっちの身にもなってくれよ、と思わず愚痴ってしまいそうになる。雑草相手に。 託生は用具入れの中から大橋先生が用意してくれていた軍手を取り出した。 素手で草抜きをすると手を切ったりして大変なのだ。 「バイオリニストの手は大切にしないとね」と、にこにこ笑いながら「これ、葉山くん専用だから」と大橋先生が買ってくれたものだ。 大切にしないと、なんて言いながらちゃっかり草むしりは手伝わせるのだから、なかなか容赦のない一面もあるのだと、託生はこの時思ったのである。 「先に草抜きしてから水遣りがいいかな」 しゃがみこんでせっせと草を抜いていると、じわりと汗ばんでくる。 温室の中は温度調整がほどよくされているから、じっとしていても汗をかくこともあるのだ。 章三からは「すっかり温室の住人だな」と笑われるのだけれど、大橋先生に「ちょっとだけ手伝ってもらえないかな」と言われると、どうも断りにくい。 あれもある意味、人徳って言うんだろうなぁと思う。 緑の世話は大変だけれど、温室をバイオリンの練習場所に貸してもらっているお礼のつもりもあるので、時間のある時は手伝うようにしている。 それに青々としている緑たちを見ていると、気持ちが安らぐのも本当だ。 「えーっと、ゴミ袋って予備あったっけ?」 ずっとしゃがみっぱなしで痺れてきた足を伸ばして、託生はもう一度用具入れへと向おうとした。 すると、温室の入口に人影を見つけてどきりと足を止めた。 こんな祠堂のサハリンだといわれているような場所へやってくる人はほとんどいないのだ。 温室の中を窺っている様子に首を傾げる。 一瞬、ギイかなと思ったのだけれど、ギイなら中を窺うことなく中に入ってくるだろう。 だとしたらギイじゃない誰かということになる。 もしかして大橋先生を探しているのだろうか。 大橋先生は今日は職員会議ということで、ここにはいない。 託生は軍手を外して、入口へと向かった。 そっと扉を開けてみると、そこにいたのは少し前に図書室で言葉を交わした1年生だった。 顔は覚えていたけど、名前は知らない。 彼は託生を見ると、慌てて一度くるりと逃げる素振り見せて、すぐに思い留まってまたくるりとこっちを向いた。 何だか落ち着きなく視線があちこちに動いている。 明らかに挙動不審だったが、その様子が小動物を彷彿とさせて、託生はちょっとおかしくなってしまった。 「大橋先生は今日はここにはいらっしゃらないよ?」 「いえ、あの・・・」 「この前図書室で話した人、だよね?」 彼がどこか不安そうな目で見るものだから、ちゃんと覚えているよという意味も込めて言ってみると、ほっとしたように柔らかな笑顔を見せた。 「よかった。覚えてくださってたんですね」 「はは、さすがにこの前話したばかりだし。どうしたの?まさか迷子になってここに来ちゃったってことはないよね?」 祠堂は無駄に広いので、毎年1年生たちは目的の場所へ行くのに必ず一度は迷うのだ。 けれどさすがに温室まで来てしまったとなると、それはちょっと方向音痴がひどすぎる。 「いえ、そうじゃなくて・・・」 何だか言いにくそうにしているので、何かトラブルでもあったのかなと思った。 図書室で何だか元気のなかった彼は、周囲とのテンポが合わず、先生からも注意をされ、このまま祠堂でやっていけるのかと悩んでいた。 何となくの流れで相談に乗る形になったのだけれど、今頑張ってるんだったら、そのままでいいんじゃないかなと託生は彼に告げた。 入学して、寮に入り、それまでの生活とは180度も違った毎日を送っているのだ。 それだけでも頑張っているのだから、それ以上頑張る必要はないんじゃないかなと思ったのだけれど、あとになって、余計なアドバイスをしてしまったかなぁと、思うようになった。 気にかけてはいたものの、寮内で見かけることもなかったし、名前も知らなかったので、そのあと会いにいくこともできなかったのだ。 「ねぇ、もし時間があるんだったら温室に寄っていく?」 託生はちょっと考えたあと、思い切って言ってみた。 すると彼は見るからに嬉しそうな顔をした。 「いいんですか?」 「もちろん。温室はいつでも誰でも入っていい場所だし。ぼくも一休みしたいから」 さぁどうぞと中へ招くと、彼は素直にあとをついてきた。 「葉山さん、温室で何されてたんですか?」 「草むしり。大橋先生に頼まれたんだよ」 「えっと、園芸部なんですか?」 「そうじゃないけど、まぁ諸事情により、かな」 話すと長くなるのでそう言うと、彼はそれ以上は突っ込んではこなかったけれど、「入部したら一緒にいられるかと思ったのに」というつぶやきが聞こえてきた。 園芸に興味があるなら大橋先生が喜ぶだろうなぁと、あとでちょっと勧誘でもしてみようかと思った。 温室を横切るようにして歩いていると、きょろきょろと中を眺めていた彼が何だか嬉しそうに笑った。 「わぁ、暖かいんですね」 「温室だからね。でも夏は大変だよ。あ、何か飲む?」 勝手知ったる何とやらで、託生は温室に備え付けの小さな冷蔵庫の扉を開けた。 大橋先生が手伝いをしてくれる生徒のためにと、いつもちょっとした飲み物を入れてくれてるのだ。 自由に飲んでいいからねとお許しをもらっているので、託生は中からペットボトルを取り出した。 「コップはどこだったかな」 「あ、ここにあります」 彼はビニール袋に入った紙コップを見つけてくれた。 2人して紙コップ片手にベンチに腰を下ろした。 「あ、そうだ。ぼく、きみの名前を聞いてなくて」 「桔梗屋東吾です」 「・・・・桔梗屋くん?」 その名前には聞き覚えがあった。 確か、章三からもらったチェックリストに名前があった。 変わった名前だったから覚えていた。 まさか彼がチェック組の一人だったなんて。 託生は大人しくジュースを飲んでいる東吾をそっと盗み見た。 東吾はギイとお近づきになろうとしている1年生だということだろうか。 もしかしてそのためにわざわざ託生に会いに来たとか? あの図書室での出来事も? そこまで考えて、そんなことはないと託生は思った。 図書室で声をかけたのは託生からだった。あの時、東吾は託生のことなどまったく知らない様子で自分の悩みを打ち明けてくれた。 (神経質になりすぎだよ) 共犯者になると決めて、ギイの邪魔にはなるまいと気をつけているけれど、だからって誰でもかれでも警戒してたらやってはいけない。 「あの、葉山さん」 「ん?なに?」 「この前、ありがとうございました。ちゃんとお礼が言えてなかったから気になってて」 ゆっくりとした口調。育ちの良さが滲み出ているような気がして、何となく癒される。 「葉山さんにこれまでと同じようにしていればいいって言われて、少し気が楽になったんです」 「そう?ぼくも何だか余計なアドバイスしちゃったんじゃないかって気になってて。だけど、気が楽になったんなら良かった」 はい、と東吾ははにかんだようにうなづく。 「正直、こんな風に集団で生活するのって初めてだし、戸惑うことばかりで、知ってる人も誰もいないし。毎日先生には怒られるし、だけど何を直せばいいのかもよく分からなくて。でも、葉山さんと話をして無理することないんだなって思えるようになったんです」 「そっか。入学してすぐはみんなそうだよ。寮生活なんて初めてな人ばかりだし、知ってる人なんている方が少ないし。桔梗屋くんだけじゃなくて、みんな不安でいっぱいなんじゃないかな。だから相談役に階段長がいるわけだし」 「階段長・・ですか」 自分で言っておきながら、託生は墓穴を掘ってしまったことに内心ぎゃーっとなっていた。 1年生が住む寮の階はほとんどが4階と3階だ。だとしたら階段長は吉沢とギイになる。 別にどこの階段長のところへ相談にいってもいいのだけれど、チェック組はギイと親しくなりたいと思っているのだから、そりゃ迷わずギイのところへ行くはずだ。 「階段長って・・・崎先輩とか、ですよね」 「え、ああ、うんそうだね。ギイも階段長だね」 東吾は何故か少し浮かない顔をした。 あれ、ギイと接点が持てるのは嬉しくないのだろうか。 「相談って、同じ階の階段長にしかしちゃだめなんでしょうか?」 「そんなことはないよ。自分が信頼できると思った人に相談すればいいんだし、もちろん先生方も相談に乗ってくれるよ?桔梗屋くん、まだ何か困ったことあるのかい?」 いえ、と東吾はゆるゆると首を横に振る。 だけど、どう見ても何か悩んでいるように見える。 話を聞いてあげるくらいならできるけど、ギイたちみたいな優秀な頭脳は持ち合わせていないので、解決策を教えてあげることはできないかもしれない。 かといって、元気のない下級生を放っておくのも・・・ 「葉山さん」 「え、なに?」 「あの、もし何か困ったことがあった時は、葉山さんに相談してもいいですか?」 「ぼ、ぼくに?」 「はい」 「桔梗屋くんって3階?ギイ・・に相談したくはないの?」 本当に悩み事があるのなら、お近づきになれるチャンスではないのだろうか。 ギイだって本当に困っている後輩を無下に拒否したりはしない。 チェック組はみんなたいした相談もないのにギイのゼロ番に押しかけてるって章三から聞いているのだけれど、本当に悩んでいる彼はゼロ番に行きたくはないのだろうか。 「崎先輩はぜんぜん知らないし、何だかちょっと近寄りがたいっていうか・・・。ゼロ番はいつも誰かいるみたいだし」 「あー、うんそうだね。だけど、ギイは・・・」 「崎先輩は・・・別にどうでもいいんです」 ふんわりとどこまでも人のいい笑顔を、東吾は浮かべた。 託生は驚いてしまってまじまじと彼を見つめてしまった。 ギイのことをどうでもいいというチェック組がいたなんて! これって本心なのだろうか。それとも、もしかして油断させようとしてるのかな、なんて疑心暗鬼なことが一瞬浮かんだけれど、どう見ても東吾は嘘を言っているようには見えない。 そして今さらながらに気づいてしまった。 東吾はついこの前までまだ中学生だったわけで、知ってる人のいない寮生活を送っていて、誰かに頼りたいと思っても少しもおかしくはないのだ。 今のギイは氷の女王みたいにどこか冷たい雰囲気を醸し出していて、確かに少し近寄りがたい。 図書室で話をした託生の方が話しやすいと思ってもおかしくはない。 年下から頼りにされるようなタイプじゃないとは思うものの、1年の時は周囲になじめなかったと打ち明けた託生に親近感を持っているのかもしれない。 「あのさ、ぼくでいいならいつでも話は聞くよ。階段長のみんなみたいな的確なアドバイスはできないかもしれないけど、それでもよければ」 「ありがとうございます」 ぱっと輝かせた顔を見て、ふいに真行寺を思い出してしまった。 どういうわけか真行寺も託生に懐いていて、いつも温室にきては何てことのない話をしていくのだ。 ギイや章三みたいに頼れる先輩には見えないと思うんだけど、何だか不思議な感じだなぁと思う。 「あの、葉山さんのこと教えてもらってもいいですか?」 「ぼくのこと?」 「はい」 おかしなこと聞くんだなぁと笑ってしまう。 「だけど特別自慢できるようなこともないしなぁ・・・これからいろいろ話をする中で、お互いを知っていければいいんじゃないかな」 「・・・はい」 しゅんとした東吾は何だかすごく可愛く見えて仕方ない。 「ねぇ、じゃあ桔梗屋くんのこと教えてよ。どうして祠堂に入学しようと思ったの?」 「それは・・・両親に勧められて・・・」 ああ、やっぱりチェック組だから、自分の意思というよりは親に言われてってところなのかな。 東吾は少し考えたあとに言った。 「今まで、親の言う通りにしてきて、そういうの別に何とも思わなかったんです。しょうがないっていうか、そういうものかって思ってたし。でも祠堂に入学する時に、崎先輩と仲良くなりなさいって何だかよく分からないこと言われて困ってたんです。だってどんな人かも知らないし、別に仲良くなりたいわけでもないし・・・」 託生は思わず吹き出してしまった。 すると東吾はきょとんとぼくを見返した。 「あ、ごめん。桔梗屋くんって面白いね」 「え、そんなこと言われたの初めてです」 今度は東吾がびっくりしたように目を見開いた。 何だか面白い子だなと、託生は改めて東吾を眺めてしまった。 温室にいるのはバイオリンを弾くためだという。 バイオリンを弾く人なのだと知って、その意外性にびっくりした。 びっくりしたけど、その姿を想像するとすごく似合っているようにも思えてきた。 バイオリンを弾いているのを聞きたいですと言ってみたら、下手だから恥ずかしいよ、とその人は笑った。 笑った顔に胸が痛くなった。 どうして胸がが痛くなるのか不思議だった。 初めて知る感情を持て余して、何だかすごく居心地が悪くて仕方なかった。 「最近、桔梗屋と仲良くしてるって?」 ある日、託生が食堂で食事をしていると、空いていた前の席にトレイをおいた章三が開口一番そう言った。 「いきなり何?」 「最近噂になってる。桔梗屋が葉山の部屋にいるって」 「ああ、うん。たまに遊びにくるんだよ」 東吾が温室へとやってきて以来、校内で見かければ挨拶をしたりちょっと話をしたり。寮は階が違うから滅多に会うことはなかったけれど、たまに部屋にやってきては何てことのない話をしていく。 相変わらず東吾は周囲からは浮いているようで、先生方からはご指導を受けることもあるらしい。 だけど託生からしてみれば、誰に迷惑をかけているわけでもないし、ちょっとマイペースなところはあるけれど、何かを治す必要なんてないんじゃないかと思っていた。 少し前から東吾からバイオリンが聞きたいと言われていて、ずっと断っていたけれど、とうとう根負けして今度温室に聞きにくることになっている。 「大丈夫なのか?」 「何が?」 「何がって、葉山、例のリストちゃんと見たんだろうな」 進級してすぐにギイがすっかりそれまでと違う人になってしまった時に、章三がくれた1年生たちのリスト。 そこにはギイが警戒するチェック組の名前に印がついていた。 東吾もその中に入っていた。 「リストは見たよ。桔梗屋くんの名前もあった」 「だったらどうして」 「うん・・・ちょっとしたことで話をするようになって、話してみたらすごく普通で、ギイに近づこうって思ってるわけでもないんだよね。桔梗屋くん、入学したばかりでいろいろ戸惑うことも多いみたいで不安なんだと思う。いろいろ相談に乗って欲しいって言われたら・・・断れないだろ、そういうの」 「・・・葉山、お前なぁ・・・」 あーあ、というように溜息をつかれて、託生は何だよーと章三を睨んだ。 「そういう作戦かもしれないって思わないのか?」 「作戦?」 「葉山を油断させてギイに取り入る」 見も蓋もない言い方に、託生は眉を顰めた。 チェック組っていうだけで、そういう風に思うのも仕方ないとは思うけど、一緒に話をしていても東吾は一度もギイの名前を口にしたことはない。ギイのことを知りたがる様子もないし、どちらかと言えば、あまりギイのことを好きではないようにも思える。 「赤池くんが心配するのも当然だとは思うけど、桔梗屋くんは大丈夫だよ。そんな子じゃないよ」 「ずいぶん仲良くなったもんだ」 呆れたような物言いに、託生はちょっとむっとした。 まるで託生が簡単に1年生に騙されるとでも言いたげである。 そもそも、章三は東吾とは一度も話したことはないのだから、彼がどんな人間なのかなんて分からないだろうに。 チェック組だからといって、全員同じとまとめてしまうのはどうなんだろうか。 「とにかく、あんまり油断するなよ」 「でも・・・」 「だいたい、そんなことをしてたら・・・」 言いかけて、章三はやばいというような表情をして、すでに空になっていたトレイを手にして立ち上がった。 「赤池くん?」 「先に行く。言っておくが、自業自得だからな」 「え、何が?」 そそくさとその場を立ち去った章三の代わりに、空いた席に着いたのはギイだった。 びっくりした。 だって3年になってからは、ただ友設定のせいで一緒に食堂で食事をする機会は減っていたのだ。 「ギイ・・・」 「久しぶりだな」 メガネの奥の薄茶の瞳が優しく微笑む。 ダメだ。たったそれだけなのに、託生は心臓が痛いほどにドキドキしてまともにギイの顔を見ることができなくなる。去年毎日に一緒にいて、すっかり免疫はできているはずなのに。 ギイはちらりと託生の皿を見てしょうがないなというように苦笑した。 「託生、にんじん残ってる」 「・・・今から食べるんだよ」 「嘘ばっかり」 ギイはひょいっとにんじんを摘み上げて、託生の皿から自分の皿へと移してしまった。 誰にも見つからないような素早さだった。 章三が一緒だと絶対に怒るに決まってるけれど、ギイは時々こんな風に託生を甘やかす。 「託生、このあと何か予定ある?」 「別にないよ。宿題ももう終わったし」 「じゃあゼロ番に来ないか?」 「それは・・・別にいいんだけど・・・」 託生はそっと周囲を見渡した。ギイがいるだけで注目を浴びることはよくあることだけど、3年になってからはチェック組と言われる1年生たちのあからさまな視線が突き刺さる。 ギイはまったく気にした風でもない。 別に悪いことをしてるわけじゃないのだから気にする必要はないのだと分かっているのだけれど、ギイみたいにまったく無視することもできない。 「泊まってってもいいからさ」 「え?」 ぽつりと言ったギイの言葉に、託生は一瞬何を言われているのか分からなくてきょとんとしてしまった。 ギイは黙々と夕食を食べていて、何となくそれ以上その意味を聞くことができなかった。 いや、聞かなくてもその意味くらい分かるんだけど。 「ちゃんと三洲にアリバイ頼んでおけよ」 「・・・うん」 だめだ、顔が勝手に熱くなる。これじゃあまるでそういうことを期待しているみたいじゃないか。 ギイはふと顔を上げると、困ったような表情を見せた。 「お前、そんな顔するなよ」 「そんな顔ってどんな顔だよ」 ギイは身を乗り出すと、内緒話でもするかのように託生の耳元に顔を近づけた。 小さな声で言われた言葉に、託生はさらに顔が赤くなった気がして、慌てて立ち上がった。 「ギイの馬鹿っ」 「はいはい。んじゃあとでな」 ひらひらと小さく手を振るギイを一睨みして、託生はトレイを手にしてカウンターへと返した。そのまま寮へと戻る途中、玄関を入ったところで声をかけられた。 「葉山さん」 「桔梗屋くん」 こんばんわと礼儀正しく挨拶をして、東吾は託生と並んで階段を上がった。 「葉山さん、このあと時間ありますか?」 「あ、ごめん。このあとはちょっと・・・」 「この前話してた浴衣、届いたんです」 「あ、そうなんだ」 東吾の実家は呉服屋で、当然というべきか、彼も小さい時から和服には親しんでいるので、自分で和風は着ることができるという話をしていたのだ。 浴衣の帯すら結べない託生からすればすごいことだと感心していたら、帯の結び方を教えてあげると言われたのだ。 実家から浴衣を取り寄せるから、届いたら練習しようと約束をしていた。 「ごめんね。それ、来週でもいいかな」 「・・・崎先輩と・・・約束してるんですか?」 東吾はどこか傷ついたような顔をして視線を外した。 「さっき食堂で、話をされてたの・・・見てたから・・・」 ああ、そっか。やっぱり目立ってたんだなぁ。ほんと、どこで誰に見られてるか分からないから、気をつけないといけない。もしこのままギイのゼロ番に行ったら、チェック組にそのことが知れてしまうのだろうか。 いや、そもそも東吾がそんなことを言いふらしたりはしないとしても、どこで誰が見ているかも分からない。 やっぱりゼロ番に行くのはまずいような気がしてきた。 どうしよう。でもギイに会いたい気持ちが強くなってしまっていて、今さらやめるなんてできそうもない。 「今日は・・・ちょっと・・・」 「だけど葉山さん、ぼくとの約束の方が先です」 珍しくはっきりと東吾が言った。 どちらかと言うとのんびりタイプのマイペースな子で、自分の意見を主張するのは苦手だと思っていたのに。 共同生活をしてる中で少しづつ強くなってきたというところだろうか。 それはそれで心強いことだと思う。祠堂はお坊ちゃん学校だと言われ、比較的おっとりとした生徒が多いとはいえ、集団生活をするにはある程度の自己主張も必要だからだ。 「すごく、楽しみにしてたんです」 見るからにがっかりといった様子の東吾に、さすがにちょっと申し訳ない気がしてきた。 別に今日という約束をしていたわけじゃないのだけれど、届いたらと言っていたのは事実だ。 ギイと2人きりで会うのは久しぶりだし、会いたいなぁとは思うのだけれど・・・ そうだ、先に東吾との着付け教室をして、それからギイのゼロ番に行けばいいんだ。 うん、そうしよう。 託生は我ながらいい案だと内心ガッツポーズをした。 「分かったよ、じゃあ10分後に」 「いいんですか!」 東吾がぱっと嬉しそうに笑った。 「うん、約束してたしね」 「じゃあ、葉山さんの部屋に行ってもいいですか?」 「いいよ。たぶん三洲くんは遅いと思うから」 三洲は生徒会長をしているので当然1年生の間でも有名人で、東吾も三洲のことは知っているのだけれど、どうも苦手意識を持っているようで、三洲がいる時には遊びにこようとはしないのだ。 「よかった。本当に楽しみにしてたから」 「そうなんだ。でも、ぼく不器用だからちゃんと帯なんて結べるようになるのかなぁ」 「大丈夫ですよ、一番簡単なのから教えます」 じゃあまたあとで、と東吾はうきうきとした様子で手を振った。 やれやれ、何だかずいぶん懐かれちゃったなぁ。 でも何だか弟ができたみたいでちょっと楽しかったりもする。 真行寺も似たような感じだけれど、ちょっとタイプが違う。真行寺の場合は、どちらかというと押せ押せムードで終始振り回されてる感があるのだけれど、東吾の場合は面倒見てあげたくなるというか・・・。 別に頼りない感じではないのだけれど、どこかぽやんとした感じがするのでそんな風に思ってしまうのかもしれない。 託生は部屋に戻ると、形ばかりそのあたりの片づけをした。三洲はいつもきちんと身辺を綺麗にしているし、託生自身も指摘されるほどには散らかしたりはしない。それでも他人がやってくるとなると少しは片付けておくのが礼儀というものだろう。 「えーっと、何かお菓子とかあったかなぁ。でもご飯食べたばっかりだし、飲み物くらいあればいいかな」 自販機まで行ってこようかな、なんて思っているうちに東吾がやってきた。 手には大きな紙袋を持っていて、本当に三洲がいないかきょろっと部屋を見渡した。 その様子に託生は笑ってしまった。 「大丈夫、三洲くんはいないよ。でも、どうしてそんなに苦手なの?三洲くん、怖い人じゃないんだけどな」 部屋に招き入れると、東吾はすみませんと恐縮した。 「三洲先輩っていつも堂々としていて、はきはきしてるし、何ていうか・・・オーラがあるっていうか。ちゃんと話をしようって思うんですけど、考えてる間に先を越されちゃうっていうか・・・」 「ああ、何かちょっと分かる気がする」 思わず笑うと、東吾も同じように笑った。 「やっぱり頭のいい人って、人が考えてることもすぐに分かっちゃうんでしょうか」 「うーん、どうなのかなぁ、ぼくも何かにつけて時間がかかる方だから、三洲くんはイライラしてるのかもしれないけど」 「ぼくも普通にしてるつもりなんですけど、周りからはテンポが遅いって言われるんです。頑張ってるんですけど、頑張ったところでそういうのって早くなるわけでもないし」 「別にテンポが速い方がいいってことでもないんだから、気にすることはないよ」 「葉山さんは、去年崎先輩と同室だったんですよね」 いきなりギイの名前が出てどきりとした。 「うん。そうだよ」 「崎先輩も三洲先輩と同じ匂いがします」 「同じ匂い?」 「えっと・・・頭がよくて、周りからの評価が高くて、何でもできて。でもちょっと近寄りがたいっていうか・・・ こっちの考えていることは全部分かってて、様子見てるような・・・」 東吾はぽつぽつと言葉を選ぶように言った。 確かにギイも三洲も頭がいいし、特にギイは3年になってからはわざと少し近寄りがたい雰囲気を出しているから、そんな風に見えてしまうのかもしれない。 「だけど、ギイも三洲くんも、怖い人でもないし冷たい人でもないよ?」 託生は2人分のコーヒーを入れて東吾に差し出した。 人づきあいが苦手で、クラスの中で親しい友人がまだできないという話を東吾から聞いているので、託生は少し考えたあとに言った。 「人って見た目だけじゃ分からないことがいっぱいあるよ。自分とは合わないかもって思っても、実際に話をみてみたら案外いい人だったり。ぼくも昔は人付き合いが苦手で、せっかく親切にしてくれる人のことでさえ拒絶してたんだけど・・・」 「葉山さんが?」 「うん。1年の頃は誰とも話なんてしなかったし、友達なんていらないって思ってた」 東吾は信じられないというように目を丸くして、託生を見つめた。 確かに今の託生にはたくさんの友達がいる。鼻つまみ者だったあの頃からは考えられないくらいに、毎日を楽しく過ごしているのは、何でも話せる友達のおかげだ。 たぶん、東吾は今の託生からはそんな姿は想像できないに違いない。 「桔梗屋くんも無理することはないけれど、だけど相手がどんな人なのかはやっぱり話してみないと分からないし、話す前から扉を閉めることはないと思うんだ」 「・・・・」 「説教じみたこと言ってごめんね。だけど、せっかく祠堂で3年間を過ごすんだから、自分にとって一生の友達になれる人と出会って欲しいって思うんだよ」 「一生の・・友達?」 「うん。桔梗屋くんのことを理解してくれて、大切にしてくれる友達だよ」 「葉山さんにとっては、それが崎先輩だったんですか?」 ストレートに尋ねられて、一瞬言葉に詰まる。 別に恋人なのかと問われたわけじゃない。そもそも東吾が託生とギイの仲をどう思ってるのかさえ分からない。 下手に答えるのはまずいのだろうかと思いながらも、託生はうんと小さくうなづいた。 「そうだね。ぼくを変えてくれたのはギイだよ、彼が閉ざしていたぼくの心を開いてくれた。だからとても感謝している。できればこれからもずっと付き合っていきたいなって思ってるよ。あ、付き合うっていうのは別に変な意味じゃなくて、友達として、ってことで・・・」 「・・・・」 「ぼくとギイとじゃあまりにも住む世界が違うと思うけど、そういうの、全部飛び越えて、ずっと一緒にいられたらいいなって思ってるよ。そんな自分にとって大切だなって思える友達が、桔梗屋くんにもできるといいなって思うよ」 「そんな友達・・・本当にできるんでしょうか」 周囲とテンポがあわず、話をしてもきょとんとされることが多くて、どうも敬遠されているという自覚もある。 無視されているわけではないけれど、かといって特別親しくしている人もいない。 そんな状況だということは、託生も薄々は知っていて、かといって本人がさほど気にしていないということもあって、これまであまり差し出がましいことは口にしなかったのだ。 「葉山さんは、一生の友達にはなってくれないんですか?」 「そりゃこれからだって桔梗屋くんとは仲良くしたいと思ってるよ?だけど、んー、どう言えばいいのかなぁ」 上手く言葉にできないのがもどかしい。 東吾のことは好きだし、可愛い後輩だとも思っている。もちろん年が違っても親友になれることだってあるから、これから先どうなるのかは分からないけれど。 「今はクラスに親しい人もいないし、ぼくに頼りたいって思う気持ちも分かるけど・・・。でも大丈夫だよ。桔梗屋くんのことを大切に思ってくれる人は現れるよ。こんなぼくにだって、親友ができたんだし。とにかく、自分から周りを拒絶したりしないで、ちゃんといろんなもの見て欲しいなってこと」 「・・・はい」 「ほんとに分かってる?」 「はい。葉山さんの言うことだから、信用できるし」 にこっと笑う東吾はどこかまだ幼く見える。東吾はちょっと人よりものんびりしているところはあるけれど、素直で優しい性格をしているし、一緒にいて疲れない。きっと今はまだ東吾のことをよく知らない級友たちも、そのうち東吾の居心地の良さに気づくだろう。 すぐに仲のいい友達だってできるに違いない。 早くそうなるといいのになぁと思う。 そのあと、東吾が持ってきてくれた浴衣で帯の結び方を教えてもらった。 簡単だと言っていたけれど、託生にはなかなか難解で、何度やっても上手く結べなかった。 見本を見せてくれた東吾は本当にぱぱっと簡単に、そして綺麗に帯を結ぶ。やっぱり小さい頃から慣れ親しんでいるからなのだろう。 それからも2人してああでもないこうでもないとけっこう楽しく帯の結び方を練習した。 気づいたらあっという間に一時間以上がたっていて託生は慌てた。 「ごめん、そろそろ行かないと」 言うと、東吾はああというようにうなづいて、手にしていた浴衣を丁寧に畳んだ。 「これ、葉山さんにプレゼントします」 「え?」 思いもしなかったことを言われて、託生はまじまじと浴衣を眺めた。 たった今まで練習していた浴衣は、すっきりとした色合いの肌にさらりと気持ちのいいもので、着物のことには詳しくない託生にだって、高級な品だということは分かった。 「ダメだよ。こんな高価なものもらえないよ」 「いいんです。いつも良くしてもらってるし、それに葉山さんのこと好きだから」 「・・・・」 真面目な顔の東吾に、託生は言葉に詰まった。 えーっと、その好きっていうのは先輩として、ってことでいいんだよね。 いや、いいに決まってる。そんな簡単に同性に恋をしたりはしないものだ。身に覚えがあるからって、勝手におかしな想像をしちゃだめだ。 託生がぐるぐると考え込んでいると、東吾の方がそわそわし始めた。 「葉山さん、崎先輩が待ってるんですよね。早く行かないと怒られませんか?」 「あ、そうだった。ごめんね、ばたばたしてて。今度ちゃんと時間作るから」 「はい」 素直にうなづいて、東吾が託生に浴衣の入った袋を手渡す。 「もらってください」 「・・・・うん、ありがとう」 頑なに断るのも申し訳ない気がして、託生はそれを受け取ることにした。 東吾は嬉しそうに笑って、じゃあまたと部屋を出て行った。 懐いてくれるのは嬉しいのだけれど、先輩とばかり一緒にいてもいいことはないような気がする。 早くクラスの中で仲良くできる友達ができるといいんだけどなぁと考える。 友達なんていなくても平気だと、昔は託生も思っていたけれど、だけどやっぱり味方になってくれる誰かがいると心強い。 それは3年になって、ギイが突然変わってしまって戸惑った託生のことを支えてくれたのが友達の存在だったということでも実証済みだ。 「あああ、まずい。時間が」 たぶんギイはゼロ番で待ちくたびれているだろう。 託生はばたばたと部屋を飛び出して階段を駆け上った。 ゼロ番で託生を出迎えたギイは、やっぱりというべきかどこか不機嫌そうだった。 「ごめんね、遅くなって」 「・・・三洲にちゃんと言ってきたか?」 「あー、会えないままだったから、メモを残してきた。大丈夫かな」 「平気だろ」 託生がソファに座ると、ギイは2人分のカップを持って、託生の隣に腰を下ろした。 「託生、ずいぶん遅かったじゃないか」 「あー、うん。ちょっと急にお客様が・・・」 「客?誰?」 ギイはずいっと託生の方へと身を乗り出してくる。思わず身を引いた託生は、正直に言うべきかどうかちょっと迷ったが、嘘をつく必要もないと思いなおして、ついさっきまで東吾といたことをギイに話した。 「桔梗屋くん、すごく簡単に帯が結べるんだ。びっくりしたよ。で、ぼくも一番簡単な結び方を教えてもらったんだよ。今度ギイにも教えてあげる」 「桔梗屋か・・・」 「すごくいい子だよ。のんびりした感じが癒されるっていうか」 「ずいぶん仲良くしてるんだな」 「そうだね、最近よく話しはしてるかな」 「・・・・」 あれ、何だろ。ギイってば何でそっぽ向いちゃうんだよ。 託生はずるずるとソファの上を移動して、ギイの近くへと体を移動させた。 するとギイはやっぱりちょっと逃げるように託生に背を向けようとする。 「ギイ」 「・・・」 「ギイってば」 くいくいとギイの袖口を引っ張ると、ギイは大きく溜息をつき、くるりと振り返ると託生の頭を抱え込むようにして胸の中に引寄せた。 「ちょ、何だよ、どうしたんだよ」 「オレが託生と一緒にいられないから?」 「何が?」 「浮気」 「はいっ!?」 思いもしない発言に、託生は思わず声を上げてしまった。 浮気って?いったい何のこと?ていうか、誰と誰が浮気してるって言うんだよっ! 託生は甘い匂いのするギイの胸元をぎゅっと押し返した。 「ギイ、もしかしてぼくが桔梗屋くんと浮気してるとでも思ってるの?」 「思ってないけどな」 「何だよ、それっ」 ふざけてんの?それともからかってるの? ぐいぐいと抱きしめてくるギイの腕から逃げようともがいても、力が強くて逃げられない。 じゃれあうような攻防をしばらく続けたあとに、ギイが改まったような口調で言った。 「大丈夫なのか?」 「何が?」 「桔梗屋、お前に何か変なこと言ったりしてないか?」 ギイの言いたいことは何となく分かる。ギイに取り入りたいと思っている1年のチェック組たち。 リスト中に桔梗屋くんの名前もあった。 だからギイが警戒したくなる気持ちも分からないではない。 「・・・赤池くんもそんなこと言ってたよ」 ふーっと息をついて、託生はギイの肩先に額を当てた。 「あのさ、ギイ。確かに桔梗屋くんはチェック組の中に入ってるのかもしれないけど、今まで一度だってギイのことを聞かれたことはないし、ぼくを介してギイと仲良くなりたいって素振りを見せたことはないよ。それに、そういう人はすぐに分かるんだ」 「ん?」 「そういう人はぼくのことは全然見てないから。桔梗屋くんはちゃんとぼくを見て話をしているよ。だから安心していいよ」 今までもギイを目当てに近づいてくる人というのはいた。だけどそういう人は少し話すと分かるのだ。 言葉に真実味がなくて、どこか上滑りで。 だけど東吾にはそういうところが全くない。 普通に託生と話をして、くったくなく笑い、後輩ぶってちょっと甘えてきたりする。 うっかり先入観で接してしまいそうになっていたけれど、実際に付き合ってみると全然そんなことはなかった。 「桔梗屋くんは大丈夫だよ」 託生の言葉に、ギイはますます眉間の皺を深くした。 「お前なぁ、そういうこと言われたら別の意味で心配になるだろうが」 「別の意味?」 「あいつ、お前に惚れてんじゃないだろうな」 「・・・・は? ヤキモチ妬きのギイらしい台詞だとは言え、誰かれなくおかしな疑いを持つのは勘弁してほしいと思う。 ギイとは違ってそんなにモテるわけじゃないのだ。 だいたい東吾はどこか浮世離れしたところがあって、恋愛にがつがつしそうな感じには見えない。 ましてや同性に恋心を抱くなんてあり得ないだろう。 「ギイってば」 くすくすと笑って、託生はギイへと向き直るとむぎゅっとその白い頬を引っ張った。 「痛い」 「馬鹿なヤキモチなんて焼くからだよ」 「・・・・すみません」 ギイは素直に謝ると、託生を抱き上げた。 「ちょ、っとギイっ!!」 よっこらしょと抱え上げるようにしてそのまま部屋の奥へと進み、ベッドの上に託生を放り投げた。 そのまま覆いかぶさるように乗り上げてきたギイに、託生が抗議の声を上げる。 「重たいよ、ギイ」 「だって託生があんまり可愛いこと言うからさ」 「何だよ、それ」 むっと唇を尖らせる託生の前髪を、愛おしそうにギイがかき上げる。 「お泊まりするの久しぶりだよな」 「・・・・うん」 「託生に浮気されないように、オレももうちょっと考えた方がいいのかなぁ」 「だから浮気なんてしてないってば。しつこい男は嫌われるぞ」 「おっと、それは困る」 ふわっと抱きしめられて甘い香りに目を閉じる。 ほっとした。 やっぱりこうしてギイと一緒にいると安心できるし、それが当たり前だと思える。 ギイの背中に両腕を回すと、同じ強さで抱きしめてくれた。 優しい笑顔とか柔らかい物言いとか。 控えめなくせに案外とはっきりとモノを言う。 浴衣を着せるという名目で、抱きしめるようにして両腕を身体に回してみたら、同じくらい背丈なのに、自分よりもずっと華奢な感じがした。 ぎゅっと抱きしめたらどうなるのかな、なんて馬鹿なことを考えてしまったことにひどくうろたえた。 そんなことをしてみても、何が変わるわけでもないというのに。 よく似合ってたなぁ、と東吾は浴衣を着た託生の姿を思い浮かべて知らず知らずに頬が緩んだ。 託生のためにと選んだ浴衣は上品な紺地の浴衣で、柄はちょっと地味めだけれど、見る人が見ればそれがとても高級なものだと分かるものだ。 こんなプレゼントを今まで誰かにしたいと思ったことはなかった。 気を引きたいとかそういうことではなくて、ただ託生が喜んでくれるといいなぁと思ってのことだった。 だけど、あまり高価なものをプレゼントするときっと託生が負担に思うだろうから、今度はモノではなくてなにか一緒に楽しめるようなものだいいんじゃないかと思う。 東吾があれこれと考えていると、いつの間にか前の席にクラスメイトが座っていた。 「なぁ桔梗屋、お前上手いことやったよなぁ」 「・・・何が?」 同じクラスの級友だけれど、話したことはほとんどない。名前もうろ覚えだけれど、どこかの社長の息子だとか言っていたような気がする。 「あの葉山さんと仲良くしてるんだって?ギイ先輩に直接ぶつかってくのはけっこうハードル高いけど、葉山さんなら簡単そうだもんな」 「・・・・」 「あの人、去年崎先輩と同室だったんだろ?すごく仲良かったっていうし、ギイ先輩に近づくなら、先に葉山さんに近づいた方が賢いって、お前もなかなかやるよなぁ」 「そんなんじゃないし」 小さくつぶやいたが、相手には聞こえていないようだ。 「俺も葉山さんに近づいてみよっかなぁ。赤池さんとか矢倉さんとか、あの辺も仲いいって聞くけど、ちょっと近寄りがたいし、その点葉山さんはなーんにも考えてなさそうっていうか・・・」 「・・・・」 聞きたくなくて、東吾は目の前の級友がしゃべり続ける声を意識からシャットアウトした。 崎義一と懇意になるために祠堂に入学したという生徒がかなりの数いるということは東吾も知っていた。 自分だって親にせっつかれ、1年の間に少しでも親しくなれと言われている。 だけど東吾自身はギイに興味があるわけでもないし、正直なところどうでもいいと思っている。 確かに見た目はびっくりするほどカッコよくて、何もかも完璧な人間に見えるけれど、だけどそれだけだ。 まるでテレビの中のアイドルを見ているくらいにしか心が動かない。 「なぁ、俺にも葉山さんを紹介してくれよ。お前もなかなか崎先輩にまで辿りついてないんだろ?俺が絶対上手くやってやるからさ」 「・・・・」 何と返せばいいか分からなくて、東吾はじっと相手を見つめた。 怒鳴りたいような泣きたいような、言葉にできない感情が胸の中で渦巻いている。そんな感情は初めてで訝しげな表情を浮かべる級友にどう言えば分かってもらえるのか咄嗟に出てこなかった。 ちょうどタイミングよくチャイムが鳴り、教室に入ってきた教師が席につくように促す。 数学の授業が始まり、さらさらとペンの音だけが聞こえる。 東吾は教科書を開いたまま、まだ胸の奥でもやもやと治まらない感情に必死で耐えていた。 そんなつもりで託生と仲良くなりたいと思ったんじゃない。 だけど、いくら東吾がそう思っていたところで、周りから見れば崎先輩に近づくために託生に近づいたと見られているのだろう。 どれだけ違うと言ったところで、見えない真実を誰が信じるというのか。 東吾はぎゅっと腕を握り締めた。 自分が知らないだけで、周りからはそんな風に思われていたのだということで、苦しくて悲しかった。 だからといって託生と疎遠になりたくはない。 託生は東吾が初めて自分から仲良くなりたいと思った人なのだ。 一緒にいってほっとできて、肩の力を抜いて話をすることができる。 (やっぱり崎先輩なんて嫌いだ) 東吾は八つ当たり気味にそう思い、すぐに思いなおした。 話したことすらない人のことを悪く思うなんて良くないことだ。こういうのは誰が悪いわけでもないのだから。 ぱたんと机に突っ伏して、東吾は大きく溜息をついた。 「こら!桔梗屋、真面目に授業を受けろ」 とたんに、教壇に立つ教師が目敏く見つけて声を荒げる。 すっかり教師から目をつけられて、怒られ慣れつつある東吾は「すみません」と、とりあえずしおらしく謝って、形だけ真面目に授業を受けるふりをした。 その放課後、何となく寮に帰る気にはなれなくて、東吾は敷地の果てにある温室へと足を向けた。 毎日託生が来ているわけじゃないことは知っていたし、会えなくてもいいと思っていた。 むしろ今日は託生に会えば、言わなくてもいいことまで言ってしまいそうな気がしたので、誰もいない方が良かった。 温室の中は相変わらず緑が鬱蒼と茂っていて、それだけでちょっと気持ちが落ち着いた。 東吾は託生が植えたという花が見える場所に座り、膝を抱えた。 名前も覚えていない級友から言われた言葉がやっぱり胸の中で小さな棘となって突き刺さっていた。 どうやって抜けばいいか分からなくて、東吾ただぼんやりと小さな花を眺めていた。 「葉山さんと仲良くしちゃいけないのかな」 口にしたとたん、それはひどく悲しいこととなり、じわりと涙が浮かんできた。 周囲が思っているようなことを、託生も思っているのかもしれないと思うとますます悲しくなってしまう。 初めて自分から仲良くなりたいなと思った人だったのに。 「・・・っ」 抱えた膝に顔を埋めて、東吾は溢れる涙を堪えることなく小さな子供みたいに泣いた。 どうしたらいいのか分からない。 別に悪いことはしていない。それなのにどうしてあんなことを言われなくてはならないのか。 「あれ、桔梗屋くん?」 顔を上げると、ぼやけた視界の中に託生の姿が見えた。 託生は桔梗屋が泣いていることに気づくと、びっくりしたように見るからにうろたえた様子を見せた。 「あ、ごめん・・・あの・・・」 バイオリンケースを手に提げた託生を見るのは初めてだった。本当にバイオリンを弾くんだ、と今さらのように思った。 東吾の視線に気づいた託生は照れたように笑った。 「ちょっと練習しようと思ったんだけど・・・」 「・・・聞いててもいいですか?」 「うん、構わないよ。だけど上手じゃないからがっかりさせちゃうんじゃないかな」 託生は東吾が泣いていたことには触れずに、ケースの中からバイオリンを取り出した。 今までバイオリンを弾く人なんて周りにはいなかったので、東吾は興味津々で託生が調弦する姿を見ていた。 託生は東吾がいても別段気負う素振りを見せることなく、バイオリンを肩に当てると、すっと背筋を伸ばして奏で始めた。 生でバイオリンを聴いたことのなかった東吾はその美しい音色に衝撃を受けた。 上手かそうでないのかは、正直なところ分からなかったけれど、だけど託生の音はするすると心の中に染み入って、聞いていて心地よかった。ずっと聞いていたいような綺麗な音。 知らない曲だったけれど、最後まで飽きることなく夢中で聞き入った。 託生は最後の一音を弾き終えると、ほっと満足したように微笑んだ。 東吾は思わずぱちぱちと大きく拍手を送った。 「すごいっ、葉山さん、すごい・・っ」 「はは、ありがとう」 もっと聞きたいと思ったとたん、どういうわけかまた涙が溢れてきて、東吾は慌てた。 ぐいぐいと手の甲で拭うと、託生がバイオリンをケースに収めて、東吾の隣に腰を下ろした。 「すみません・・・ちょっと感動したから」 「・・・・何かあった?」 問われてすぐには答えられなかった。 しばらくしゃくりあげそうになる胸の震えを必死で押さえ込み、ようやく落ち着いたところで、東吾は託生の顔を見ないようにして小さく聞いてみた。 「葉山さん」 「うん?」 「葉山さんも、ぼくが崎先輩が目当てで葉山さんに近づいたって思ってますか?」 東吾と一緒にいる時に、託生がそんな様子を見せたことはない。 だけど、託生は仲良くできる友達を作れといった。それは必要以上に親しくなりたくないということを遠まわしに言われたのではないかと思ってしまう。 託生は東吾をじっと見つめたあと、くすっと笑った。 「そんなこと、思ったことはないよ」 「・・・・本当に?」 「本当に」 託生は少し考えたあとごめんと謝った。 「ごめん、本当は一瞬思ったことがある。桔梗屋くんの名前を聞いた時に、ギイが警戒している1年生たちの一人なんだなって分かって、その時ちらっともしかしてって思った。だけど、話をしていると、それはないなって思ったよ。桔梗屋くん、ぜんぜんギイに興味ないもんね」 「・・・すみません」 「謝ることないよ。すごく不思議だなぁって思うけど、桔梗屋くんが嘘ついてないのは分かるから」 「嘘なんてついてないです」 「うん、分かってる」 必死に言い募る東吾に、託生は笑って、そしてくしゃりと東吾の頭を撫でた。 まさか頭を撫でられるなんて思ってなかった東吾は、びっくりして目を見開いた。 まるで小さな子供になったような気持ちになってしまう。 「大丈夫だよ。ちゃんと分かってるから。他の人が何て言ったり思ったりしても、ぼくはちゃんと分かってるよ。それじゃだめ?」 ぶんぶんと東吾は首を横に振った。 また涙が溢れそうになって何とか堪えた。 どうしてこの人はこんなにも優しいのだろうか。たぶん誰に対しても同じように、優しいんだろうなと思う。 決して目立つ人ではないけれど、一緒にいるとほっとできる。 この優しさを崎先輩は独り占めしているのだろうか。 「崎先輩が羨ましいな」 「え?」 わけが分からないというように目を丸くする表情に小さく笑った。 今までの人生の中で、誰かを羨んだことはない。 崎先輩の類まれな容姿や、ずば抜けた頭脳や想像もできないほどの実家の財力や、そんなものを羨ましく思ったりそれを目当てに近づきたいと思ったことは一度もない。 だけど、こんな風に託生に大切にされるのなら、崎先輩になりたいと思う。 自分以外の誰かになりたいと思ったのは生まれて初めてだ。 これから生きていく中で、落ち込んだり泣きたくなったり、自分じゃどうしようもない出来事を目の前にして困り果てても、託生が「大丈夫だよ」と言ってくれたらそれだけで何が変わったわけでなくても、安心できるような気がする。 すごく普通で、すごく控えめな託生のことを、どうして崎先輩が選んだのか、よく分かる。 まるで氷の女王のようだと揶揄される崎義一が、託生のことをとても大事にしているという噂を聞いたことがある。 あの図書室で見かけた仲良さそうな2人を思い出すと、きっとその噂は本当で、それを利用したいと思う人間も出てくるのだろうけど、東吾はそんな2人だからこそそっと遠くから見ていたいとも思った。 まるで遠くで輝く美しい星のように、ただ眺めてるだけで幸せな気持ちになれた。 それはまだ自分が手にしていない優しい絆を、2人の間に感じたからなのかもしれない、。 遠くにあるからこそ、かけがえのないものに見えるのだろうか。 だったら、ずっと遠くから見ていたい。 羨ましいなと素直に思う。 託生が自分だけに笑いかけてくれたらいいのになと思う。 だけど崎先輩にライバル宣言したいとか、そんな風には思わない。 1年のときには誰に大しても心を閉ざしていたという託生が今の託生になったのは、きっと崎先輩がいたからなのだろう。そういうことも全部含めて羨ましいなと思うのだ。 そんな強いつながり誰かと持てるということは、きっとすごく幸せなことなのだ。 「葉山さん」 「うん?」 「ぼくも葉山さんみたいな人を見つけます」 東吾が言うと、託生は不思議そうな顔をして、だけどちょっと照れたように笑った。 託生が崎先輩のおかげで変われたように、自分も変われたらいいのにと思う。 自分にとってかけがえのない人ができればいいのに。 温かくて優しくて、一緒にいてほっとできる人。 もし崎先輩よりもちょっと早く出会っていたら、託生の一番になれたのだろうか。 だけど託生のかけがえのない人はもう決まっている。 だから東吾は自分だけの大切な人を見つけなくてはいけないのだ。 「桔梗屋くん、もう一曲聞いてくれる?」 「はい」 「どんな曲が好き?」 「・・・何か知ってる曲がいいです。クラシックってぜんぜん知らないから」 そうだよねぇ、と少し残念そうに託生がうなづいて、だけど今度は東吾でも聞いたことのある有名な曲を弾いてくれた。 優しいバイオリンの音色に目を閉じる。 やっぱり託生のことが好きだなぁと思う。 だけど、それと同じくらい自分にとって大切な人が見つかるといいなと心から思った。 そのためには、自分自身も変わらなくてはいけないのだ。 温室で東吾が泣いていた理由は結局分からないままだった。 もっと話を聞いてあげた方が良かったのだろうか、とも思ったけれど、だけど次の日に学校で見つけた東吾はいつもと同じような穏やかな様子だったのでほっとした。 東吾はそれ以来、以前ほど託生のところへ来ることはなくなった。 時折温室へ遊びにきては、バイオリンを聴いて、そして少しだけ話をして帰っていく。 たまたま同じように遊びにきていた真行寺とも知らないうちに仲良くなっていて、2人して何だかわーわーと騒ぎ始めると先輩っぽく「静かにするように」と怒って見せることもある。 東吾は託生に気づくとやっぱりちょっと嬉しそうに笑って、そして小さな子供みたいに手を振った。 思わずつられて手を振り返すと、一緒にいた章三が呆れたように託生の肩をどんっと押した。 「何だよ」 「何だよじゃないだろ」 「もしかして赤池くんも、ぼくが桔梗屋くんと浮気してるとか思ってる?」 「はぁ!?思うかっ、そんなこと。思うのは僕じゃなくて、ギイだろうがっ!」 「え、ああ、そっか。そういえばそんなこと、ギイも言ってたな」 まさか東吾を相手にヤキモチを焼かれるとは思っていなかったので、びっくりした覚えがある。 「葉山、いい加減にしとけよ」 「大丈夫だよ」 章三はどうだかね、というように肩をすくめた。 託生は少し離れた場所にいる東吾へと視線を向けた。 東吾はクラスメイトたちと楽しそうに話をしている。それは今までは見たことのない風景で、少しづつ少しづつ東吾が変わろうとしているのを感じることができた。 何だか自分のことのように嬉しく思えて仕方ない。 ようやく始まった祠堂での3年間が、東吾にとっていいものになるといいのにな、と託生は東吾の明るい笑顔を見送った。 |