それは祠堂を卒業してから5年ほどたった頃のことだった お互い進路は別れてしまったけれど、ぼくとギイとの仲は変わらなかった。 もちろん毎日一緒にいられるわけじゃないけど、ギイは時間の許す限りぼくに会いにきてくれたし、一緒にいてくれた。 だから、不安なんて何もなかったのだ。 未来のことは分からないけど、何も変わらないと思っていたんだ。 けれど、二人のことが両親の知るところとなったことで、状況は一変した。 ただの親友だと思っていたギイが、本当はぼくの恋人だと知り、両親は・・特に母は激しい拒否反応を示した。 昔、兄とのことが分かったとき、母は何も聞かずにぼくを責めたけれど、今度はまったく違った。 問答無用で、一方的にギイを悪者にしたのだ。 ぼくは被害者で、ギイは加害者。 とにかくぼくの話なんてまったく聞こうともせず、ギイと会うことは許さないと言い放った。 もちろん二人のことを手放しで喜んでくれるなんて思っていたわけじゃないけれど、ここまで反対されるとも思っていなかったので、正直ぼくは驚いてしまった。 だって、母はギイのことをとても気に入っていたのだから。 いや、だからこそ裏切られた気持ちになったのかもしれない。 ギイのことを信用していただけに、その反動は大きかったのかもしれない。 恐らく、それだけではなくて、兄とのことも思い出したからに違いなかった。 あらゆることに秀でたギイと、優等生だった兄を重ね見ていたところもあるのだろう。 もともとぼくたちのことをきちんと話したいと言っていたギイは、二人の関係がバレてしまってからでは分が悪いが、と言いながらも、両親にちゃんと説明をするといって何度も家に足を運んでくれた。 けれど、母はギイの言うことに耳を貸そうとはしなかった。 全寮制の男子校で、偶然同室になったぼくと、興味本位に無理やり関係を持っただけだろうとギイを詰った。 そうではないと、ギイはどこまでも冷静に、ぼくとのことは真剣なのだと言った。 けれど、ギイが手を出さなければこんなことにはならなかったはずだと、母はどこまでもギイを許そうとはしなかった。 まるで犯罪者のような扱いに、ぼくの方が傷ついた。 傷つかない方がおかしい。 けれどギイは、 「まぁ確かにあの時はちょっと強引だったけどな」 そう言って苦笑しただけだった。 「でも・・どうしてあそこまで反対するのか分からないよ。だって、母さんはギイのこととても気に入ってたんだよ。それなのに」 「うーん、でもな託生、考えてもみろよ。自分の大切な息子の恋人が男だって分かったらやっぱりショックだろうし、反対もするだろうなって思うよ。普通の幸せを手に入れて欲しいって、親なら誰でも思うだろ?」 「普通の幸せって?」 ぼくが聞き返すと、ギイはちょっと困ったように微笑んだ。 「結婚するとか、子供作るとか。オレが託生にしてやれないこと」 「・・・そんなの・・。それに、それはぼくだって同じじゃないか」 結婚して子供を作ることが普通の幸せだというのなら、ぼくだってそれをギイにあげることはできない。 だけど、ぼくはギイを選んだ。ギイもぼくを選んでくれた。 お互いがお互いのことを必要なのだ。 ただそれだけなのに。 「大丈夫だよ、託生。ちゃんとわかってもらうから。今はまだ、ほら、お袋さんもちょっと混乱してるんだよ。そりゃ当然だし、オレは何言われても平気だから心配するな」 ギイは何でもないことのように言って、ぼくの頭をぽんと叩いた。 それから数ヶ月、ギイは冷たい態度をとり続ける母に怯むことなく、何度も会いにきてくれた。 何度も何度も。 けれど、ぼくたちがどれだけ話し合おうとしても無駄だった。 母はギイの話など聞こうとしなかったのだ。 ぼくはどうしていいか分からず、ただ戸惑うばかりで何も言えなかった。 とにかくどれだけ話をしようとしてもまったくの平行線だったのだ。 どうしてぼくでなければだめなのか。 ギイほどの人なら、他に相手はたくさんいるだろう、と。 母はぼくとギイがこの先も一緒にいられるはずがないのだから、早く別れるようにと何度も言った。 住む世界が違いすぎる。 ギイは世界的な大企業の御曹司で、そんなギイが本気でぼくと付き合っているはずがないのだから、よしんばギイが本気だったとしても、周りが許すはずがないと。 ギイを取り巻く環境が、それを許すはずがないと。 母はそう言って、ぼくに諦めるようにと言った。 叱るわけでもなく、静かに諭すように。 問答無用で怒鳴ってくれた方がまだマシだった。 辛そうに、まるで小さな子供に言い聞かせるように、ギイと別れるようにと言われると、それがぼくのためを思って言っているのだと分かるだけに、胸がぎゅっと痛くなった。 けれど、母の言うことはとっくの昔に二人で話し合っていたことだった。 母と同じことをぼくだって何度も考えて、その都度ギイと話し合った。 そしてそのことはもう二人で乗り越えた問題だったのだ。 だけど、それをどうすれば分かってもらえるか、ぼくにはまったく分からなかった。 兄の時と違って、母が責める相手はギイだったけど、ぼくの言葉を聞かないという点ではあの時と同じだった。結局、ぼくの気持ちなんて素通りしてしまうのだ。 そう思うと心がきしきしと痛んだ。 母とはやっぱり分かり合えないのかもしれないと思うと気持ちが落ち込んだ。 どう言えばわかってもらえるのだろうか。 兄の時とは違う。 ぼくは、自分でギイを選んだのだ。 誰に強要されたわけでもない。ギイに無理やり押し切られたわけでもない。 けれど、それをどうすれば分かってもらえるのか。 この時ほど、ぼくは自分の口下手さを恨んだことはなかった。 何度も何度も、母との間で繰り返される問答。 母のきつい言葉にも、ギイはきちんと答えてくれた。 ぼくのことを愛しているのだと。 決して軽い気持ちで付き合っているわけではないのだと。 だけど、いくら言葉を尽くしても、それでも母は納得しなかった。 納得したくなかったのかもしれない。 それは見ていて決して楽しいものではなかった。 ギイはすでに父親の仕事を本格的に手伝うようになっていて、それはそれは忙しい日々を送っていたし、ぼくはぼくで毎日バイオリンの練習に明け暮れていた時期で、互いにへとへとになっていた頃だった。それに加えて母とのことで。 喧嘩こそしなかったけれど、お互いストレスは溜まるばかりだった。 ギイが仕事で日本へ来るたびにぼくたちは会っていたけれど、そのたびに解決の糸口の 見えない問題をどうすればいいかで悩み続けた。 落ち込むぼくをギイは励ましてくれたけど、だけど母が折れる気配などまったくないし、 だんだんとぼくはギイが母と会うのが憂鬱になってしまったのだ。 頑なな母の態度を見ていると、昔のことを思い出さずにはいられなかった。 心を尽くすギイを拒絶する母を見ていると、あの時も同じように理由も聞かずにぼくを拒絶したなぁと、忘れかけていた記憶が甦った。 だんだんと、ぼくはそれが辛くなってきていた。 甦る過去の記憶。 ギイとのことを反対されることよりもそのことの方が辛くなってきて、でもそんなことを思うのはギイに申し訳なくて、ぼくは自己嫌悪に陥った。 もちろん、そんなことを思ってるなんてギイには言えなかった。 それまで、どんなことでもギイに話していたのに、今回ばかりはさすがに打ち明けられない。 ギイに正直になれない気持ちは沈み、悪循環となってぼくを苦しめた。 その日も、ギイはまた母に責められ、詰られ、結局また平行線のまま追い返されてしまった。 別れ際、母は静かにギイに言った。 「あなたがとても優れた人間だということは分かってる。だけど、私たちとは住む世界が違う人なの。あなたにはお金や権力があるから、きっと今まで欲しいものは全部簡単に手にいれてきたんでしょう?だから託生のことも手に入れたかっただけでしょう?託生を好きだと思い込んでるだけなのよ。別に託生じゃなくても良かったのよ。あなたといると、いずれ託生が傷つく日がくる。だからお願い、もう託生のことは自由にしてやって。中途半端に甘い夢を見せたりしないで」 そうじゃない、と思わず叫んだぼくを、ギイは無言で遮った。 それ以上母と話をするのも嫌になって、ぼくはまだ話をしようとするギイを無理やりひっぱって家を出た。 そうじゃない、そうじゃない、とぼくは何度も心の中で叫んだ。 母の言葉は間違ってると分かっているのに、どうすればわかってもらえるのか分からなくて、もどかしさに怒りがこみ上げた。 けれど、その怒りは母へのものではなく、何もできずにいる自分自身に対してのものだった。 そのままぼくたちは一言も口をきかず、ギイが宿泊するホテルへ戻った。 乱暴に扉を閉めるぼくに、ギイは細く息をついた。 「託生、どうして最後まで話をしようとしないんだ」 「だって、無駄だよ。あれ以上話したって、結局同じなんだから」 ギイは肯定も否定もせず、上着を脱ぐとソファに座り込んだ。 ぐったりと背もたれにもたれて、上を向いて目を閉じる。 さすがのギイも、母とのやりとりに疲れていないはずがなかった。 傷ついていないはずがなかった。 仕事も激務で、その合間にぼくと会って、さらに母を説得しようとしてできなくて。 弱音なんて絶対に口にしないギイのことが好きだけれど、今は何も言わないギイに、ぼくは苛立っていた。 いっそ母のことを非難してくれればいいのに。 もう会いたくないと言ってくれればいいのに。 そうしたら楽になれるのに。 それはもう、本当にぼくの身勝手な言い分だったけれど、そのときのぼくは本当にくたくたに疲れていて、もうどうにでもなれ、と半ば自棄になっていたのだ。 イライラした気持ちは、投げやりな言葉となって、ギイへと向けられた。 「ギイ、もういいよ」 「何が?」 「もう母さんに会う必要はないよ。何を言ったって、ぼくたちのことを許してくれるはずはないんだから」 「託生」 「だからもういい・・もういいよ・・・」 「だめだ」 きっぱりとギイは言い切った。 疲れた表情で、でもギイは一歩も譲らない口調でそう言った。 それがぼくのやりきれない気持ちを爆発させた。 「ぼくがいいって言ってるんだから、もういいじゃないか。ぼくがギイを好きなんだ。両親が何を言ったって関係ないよ。それでいいだろ。ギイ、ぼくがいればいいって言ったじゃないか」 周りのことなど気にするな。託生がいてくれればそれでいい。コトあるごとにギイはそう言ってくれた。それなのに、どうして今回ばかりはそれじゃだめなのか。 「もうやめよう・・・」 「だめだ、そうやって逃げても何も解決しない」 「解決って?ぼくとギイの間には何の問題もないじゃないか」 「託生」 「もう嫌だ」 「託生」 「嫌だ。もういい。もううんざりだよっ」 その言葉に、ギイが立ち上がり、ぼくの腕を強い力で掴んだ。 「託生っ、しっかりしろよ。そんな風に投げ出しても何にもならない。辛いからって逃げ出すのは卑怯だ」 ギイの言葉に、ぼくはかっとした。 「どうせぼくは卑怯だよ、すべてギイに任せっぱなしで、何の力にもなれない。いつもいつも責められるのはギイで。そんなの違うって分かってるのに、ぼくにはどうすることもできなくて。ギイが責められることなんて何もないのに。悪いことなんて何もしてないっ、なのにどうしてあんなこと言われなくちゃならないんだよっ」 暴れるぼくの手首をつかみ、ギイは少し落ち着け、と言った。 「もうこれ以上、母さんがギイのこと傷つけるのは見たくない」 「オレは平気だって言ってるだろ」 「嘘だ。そんな嘘つかないでくれよ。ギイが傷つかないはずがない」 「託生・・・オレは大丈夫だから」 「そんなはずないっ!ぼくに嘘つかないでよっ。ちゃんと本当のこと言ってくれよ」 「託生・・・」 どうしたものか、とギイが困っているのはよく分かった。 結局、こうしてギイを困らせているのはぼくなのだと、ふいにそんなことを思った。 ぼくがすべての原因なんじゃないかと思えて、じわりと目元が熱くなった。 「・・・ギイが辛いなら、もういいから」 「何が?」 「ぼくと別れたいって言ってもいいんだよ?」 それは禁句だった。 ただ単に今の現状から逃げるためだけの、一番言ってはいけない言葉だった。 特にギイに対しては。 ぼくがそう言った瞬間、ギイは滅多に見せない怒りを露わにした。 「別れるつもりはない」 吐き出すようにギイが言う。 それはもちろんぼくだって同じだった。そんなつもりはこれっぽっちもないのに。 だけどその時のぼくは、何もかもが嫌になっていて、もう頭がぐちゃぐちゃになっていたのだ。ギイが辛い思いをすることも、遠い昔の記憶が甦ることも、こんな風にぎくしゃくとギイと言い争いをすることも。 ぼくと別れればすべて解決だ。 ギイが傷つくことはない。あんな風に母から詰られることもない。 その時ぼくにはそんな風にしか考えられなかった。 ぼくはギイの手を振り払った。 「別れる。それでギイが楽になれるなら、その方がましだよっ」 「託生、いい加減にしろ」 「ギイが傷つくのを見たくない」 「託生っ!」 「もう終わりにしよ、う・・」 ぼくの言葉が終わらないうちに、ギイが叫んだ。 「別れるつもりはないっ、託生と別れるくらいなら・・・っ・・」 (死んだ方がましだ) 最後の最後で押しとどめた一言は、確かにぼくの心に聞こえた。 それはいつものギイなら決して思いつきもしない言葉だっただろうから、今思えばギイも相当追い詰められていたんだろうなと思う。 互いに見つめあったまま動けなかった。 どちらかが一言でも 「じゃあそうしようか」 とでも言えば、本当にそうなってしまいそうな気がして、怖くて動けなかった。 悪魔の誘惑というのはああいうことを言うのかもしれない。 そんなつもりはこれっぽっちもないくせに、それが今の二人を楽にする唯一の方法のような気がして、本当に、その言葉をどちらが先に言うかを迷っているようなそんな感じだった。 沈黙がひたひたと二人を侵食していく。 あと数秒、ぼくたちが見詰め合っていれば、後先考えずにそうしていたかもしれない。 互いの考えていることなんて、手に取るように分かっていたから。 ぼくがギイの手を掴もうとしたその瞬間、いきなりギイの携帯が音を立てた。 びくりとしたのはぼくだけではなかった。ギイも何か怖いものを見るかのように、しつこく鳴り続ける携帯を見つめていた。 「ギイ・・鳴ってるよ」 「あぁ・・」 小さくうなづいて、ギイが携帯に出ると、聞こえてきたのは章三の声だった。 『おいっ!お前らいつまで僕を待たせるつもりだっ。約束の時間はとっくに過ぎてるぞ。今夜の飲み代はギイの奢りだからなっ、いいか、10分以内にこないと、先に帰るぞ』 言いたいことだけ言って、章三はさっさと電話を切った。 その日、章三と三人で食事をする約束していたのだ。すっかり忘れていたぼくたちは章三からの電話でいきなり現実に引き戻された。 時計を見ると、約束の時間を30分も過ぎていた。 互いに顔を見合わせて、そしてどちらからともなく笑った。 章三からのあまりにも現実的な電話で、それまでの緊迫した空気が一瞬にして消え去った。 別れるだの死んだ方がましだの、まるでドラマの中のワンシーンのようなやり取りが急に馬鹿げたものに思えてきて、ぼくは笑いを止められなかった。 「赤池くん、めちゃくちゃ怒ってたね」 「時間にうるさいヤツだからな」 ギイははーっと息をつくと、ぼくを見た。 「託生」 おいで、というようにギイはぼくへと手を伸ばし、ぼくもギイの手を取った。 そのままぎゅっと抱きしめられて、甘い花の香りに目を閉じた。 さっきまでの荒れてた気持ちが嘘のように穏やかになっていく。 いくつになっても、ギイの腕の中にいると不思議と気持ちが落ち着いた。 ギイに引き寄せられ、そのまま二人してベッドへと横になった。 痛いくらいに抱きしめられて、ぼくは先ほどまでの怒りや悲しみや、死んでしまおうかなどという馬鹿な考えが薄れていくのを感じた。 「なぁ託生」 「うん?」 「今の状況が辛くないって言ったら嘘になる。でもオレよりもきっと託生の方が辛い思いをしてるよな。目の前で、お袋さんとオレが諍うところなんて見たくないだろうし。ごめんな、もっと早くに解決しておくべき問題だった」 「どうしてギイが謝るのさ」 両親に二人のことをちゃんと話そうと言っていたギイを、押しとどめていたのはぼくの方だ。 もし最初からちゃんと話をしていれば、もっと事態は違っていたかもしれない。 「託生、心配しなくていいからさ。オレは託生のことを愛してる。託生もオレのことを愛してるだろ?」 「うん」 「大切なのは、オレたちがそうやってちゃんと愛し合ってるかってことなんだ。他の誰が何て言おうと関係ない」 ギイはきゅっとぼくの指に指を絡めた。 「だけどな、オレ、お前のお袋さんには許してもらいたいんだよ。あー、オレがっていうより託生がさ、オレのせいでお袋さんと距離ができちまうのは絶対嫌なんだ」 「・・・・」 「逃げるのはさ、いつでもできる。本当にそうしようと思ったら、二人でどこかへ行くのも簡単なことだ。すべてを捨てて、誰も知らないところで、二人きりで暮らすのも、本当にそうしようと思ったらいつでもできる。だけどさ、託生、一度そうして辛いことから逃げちまったら、いつまでも逃げることになる。それじゃだめなんだ。諦めたらそれでおしまい。あとがない、だろ?」 「・・・うん」 「大丈夫。オレが託生のことを真剣に愛してるってことは、ちゃんと分かってもらえるから」 「・・・・」 ギイの言葉に、ぼくはそうじゃない、と首を振った。 そうじゃない。 分かってもらわないといけないのは、ギイがぼくを愛しているということではなくて、ぼくがギイを愛しているということだ。 ぼくはずっと両親と話すことを避けていた。 ぼくがどれほどギイのことを愛しているのかを、きちんと話そうとはしなかった。 怖かったのだ。 兄とのことが知れた時、両親から拒絶され、ぼくは心を閉ざした。 あの時も、ぼくは自分の想いをぶつけることはしなかった。 すべてを諦めることで、ぼくはぼくの心を守ろうとした。 ギイが背中を押してくれて、ぼくは兄を、両親を許すことができたけれど、それでもあの時、ぼくが本当は何を思っていたのか、どれほど傷ついたのかを、両親にぶつけることはしなかった。 どんな時も、ぼくと両親は互いにとことんまで気持ちを曝け出すことはしなかったのだ。 そんなことをすれば塞がりかけた傷口をこじ開けることになると思っていたから。 だから、表面上は穏やかに、何事もなかったのように、過去のことは忘れたふりをして、そうして今まで両親と接してきた。 ぎこちなく、それでも普通の親子に戻れたような気になっていた。 幼かったぼくは、両親に受け入れてもらえないことが怖くて心を閉ざし、ギイに背中を押してもらったあとも、やはり口を閉ざしたまま、ここまできた。 一度だって、ぼくは両親に対して心のすべて見せたことなどないのだ。 想いは、言葉にして伝えなければいけないのに。 けれどまた拒絶されることが怖くて、口にできなかった。 兄とのことでどんなに傷ついたか。 両親に理解してもらえなくて、どれほど辛かったか。 そんなぼくを、救ってくれたのはギイだということを。 ギイのおかげで、ぼくはもう一度誰かを信じて、愛することができるようになったのだ。 ギイがぼくを愛しているから一緒にいたいのではない。 ぼくがギイを愛しているから一緒にいたいのだ。 それを分かってもらうには、過去に遡って、一つ一つ、ちゃんと言葉にしなくてはいけない。 どうしてぼくにギイが必要なのかということを。 ギイとの関係を続けていくにはまだまだ多くの障害があることもわかってる。 もっと辛いこともあるだろうことも分かってる。 けれど、そんなこともすべてひっくるめて、ぼくはギイのそばにいたいと思うから。 こうして繋いだ手を、離したくないのだ。 何と引き換えにしても。 言葉にしないで、どうして分かってもらうことなどできるだろう。 言葉にしていないくせに、分かってくれないなどと憤る方が間違っているのだ。 ぼくは不思議と心が晴れやかになっていた。 やるべきことが見えて、目の前の霧が晴れたようにすっきりとしていた。 「ギイ、ごめんね」 「うん?」 「ぼくがちゃんと両親と話をするから。ギイが、ぼくとのことをどう思っているかじゃなくて、ぼくがギイとのことをどう思っているかを、ちゃんと話すから。母さんは、ぼくがギイといたらいつか傷つく日がくるって言ったけど、ぼくはね、ギイと一緒にいて、傷つくことなんて何もないんだよ。どんなに辛いことも悲しいことも一緒に分かち合っていくって、共犯者になるって、あの時誓ったんだから」 「託生・・・」 「ごめんね。これはギイの問題じゃなくて、ぼくの問題だったんだ。たぶん、昔のトラウマなのかな・・話をしても分かってもらえなかったらどうしようって、拒絶されたらどうしようって、それがずっと怖くて、思ってることをちゃんと両親に伝えてこれなかった、そのツケが回ってきたんだと思う。互いに思ってることを吐き出して、すべてをさらけ出して、ぼくが何を思っているのかをちゃんと話すよ。ぼくにとってギイがどんな存在なのか、どれほどかけがえのない存在なのか。分かってもらえるか・・分からないけど・・でも、きっとそうしないと先へは進めないと思う」 「託生、辛いなら・・・」 「だめだよ、ギイ。辛いことから逃げてたらいつまでも逃げることになるって、さっき言ったばかりだろ?」 きっぱりと言うと、ギイはそうだな、とひとつ息をついた。 「やっぱりいざとなると託生は強いよな」 「え?」 「ちゃんと自分で答えを出して、一人でやり遂げようとする。オレが手を貸そうとしても簡単には頼ってこない」 「そんなことないよ」 ぼくはいつもギイには頼ってばかりだ。 「何だか託生は、どんどん強くなってくな。昨日より今日、今日より明日の方がずっと強い」 「だとしたら、きっとギイがいるからだよ」 「オレ?」 こうしてギイがぼくの手を繋いでいてくれるから、ぼくは強くなれるのだ。 ギイを愛しているから、ぼくは強くなれる。 「オレはいつまでたっても、託生を守ることしか考えられない。別に託生のことを弱い存在だと思っているわけじゃないのに、守ってやらなくちゃ、って思ってしまうんだ。だめだよなぁ、昔っから全然成長してない。また章三に過保護だって・・」 言いかけてギイがはっとする。 「章三!」 「赤池くん!!」 二人して同時に起き上がり、慌てて身支度を整えた。 結局、その日章三と合流できたのは約束の時間よりも1時間過ぎてからのことで、その日の飲み代は、当然ぼくとギイとで持つことになったのだ。 「だからね、赤池くんにはとても感謝してるんだよ。あの時の電話がなかったら、ほんとどうなってたか分からないからさ。死にたいって思うほどの悩みっていうのとはちょっと違うけどさ、あの時はギイもぼくも切羽詰ってたんだなぁって。まぁ今となっては笑い話なんだけどさ」 葉山の話を無言のまま聞いていた僕は、一気に話して喉が渇いたのか、ビールをごくごくと飲み干す葉山をまじまじと見つめた。 「葉山・・・」 「なに?」 「今のは何だ。季節はずれのカイダンか?」 「え、何が??」 きょとんと僕を見返す葉山はまったく意味がわかっていないようだった。 (何がって、どう考えても怪談だろうが!) ぎりぎりまで追い詰められていたギイと葉山。 絶対にそんなことはないとは思うけれど、あと少しのところで二人して心中なんてこともあったかもしれなくて、僕の電話がそれを寸でのところで引き止めただなんて、怪談以外の何モノでもない! あの電話のことはよく覚えている。 あの頃、ギイがめずらしく落ち込んでいたからだ。 『託生の両親とちょっとな・・・』 とギイは言葉を濁していたが、相当まいっていることは感じていた。 だから久しぶりに3人で飲んで、ぱっと憂さ晴らしでもしようと思って誘ったというのに、2人して1時間も遅れてきたのだ。 あの夜、2人は死を思うほどに追い詰められていたのかと思うとぞっとする。 そんなことにまったく気づかなかったのは、きっと葉山が妙に吹っ切れた表情をしていたからだと思う。 何かを決意したような、そんないい顔をしていた。 だから、ギイの心配ごともきっと解消したのだろう、と勝手に思っていたのだ。 あのあと、葉山と葉山の両親との間でどんな話し合いがもたれたのかは分からないが、今もギイと一緒にいるということは、葉山の想いはちゃんと伝えることができたのだろう。 だとすれば、何はともあれ、めでたいことだ。 葉山は、亡くなった兄との間に何があったのか、具体的なことは口にはしない。 けれど、長い付き合いの中で語られる話の端々から、祠堂に入るまでずっと両親との関係が上手くいかずに苦しんでいたということは知っていた。 その原因が亡くなった兄であることにも気づいていた。 亡くなった兄との間で何があったのか。 聞かなくても、この歳にもなれば何となく薄々想像できてしまう。 もしそれが事実なら、それは僕の想像を絶するような痛みを心に残しているはずだ。 苦しまないわけがない。絶望して、人間接触嫌悪症になったっておかしくない。 だけど、葉山はちゃんと乗り越えてきた。 ギイの影響によるところが大きいのだろうが、それだけで乗り越えられることではない。 (こいつは強い) 昔、どうしてギイほどの男が葉山に入れ込むのか理解に苦しんだものだが、今なら何となく分かる気もする。 あの頃は見えなかった、これが葉山の本質なのかと思うと、それを誰よりも早く見抜いていたギイには感服せざるを得ない。 『オレは託生が本当に託生らしい頃の託生を知っているんだ』 ギイが誇らしそうに言っていたのを思い出す。 葉山はぼんやりして弱そうに見えるけれど、本当はその鈍感さは強さの裏返しなのかもしれないと思う。 「赤池君、次は何飲む?ぼく、最近焼酎が美味しいなぁって思うんだよね」 「それ、アメリカにもあるのか?」 葉山がメニューを広げた時、がらりと引き戸が開いて、ギイが顔を覗かせた。 「よぉ、待たせたな」 相変わらずの美男子ぶりで、ギイが笑顔を見せる。 「遅いぞ、ギイ。何してたんだ」 文句を言うと、仕事に決まってるだろと言って、ギイは葉山の隣に腰を下ろす。 暑い暑いとさっさと上着を脱いで、とりあえずビールと注文をする。 「で、二人して何の話してたんだ?」 「怖い話だよ」 僕が言うと、へぇとギイは面白そうに目を輝かせた。 「怖がりの託生が珍しい。どんな怖い話だよ」 「違うよ。別に怖い話なんてしてないのに、赤池くんが怪談だっていうんだ。赤池君に助けられたっていう心温まる話のはずだったのに」 心温まる話だと!!! 僕は唖然と葉山を凝視する。 ギイは何を誤解してか、じろりと僕を睨む。 「章三、お前、託生に何をした」 「何もしてないっ!」 葉山の天然さは、卒業してもまったく変わらない。 そしてギイのヤキモチ焼きっぷりも。 こんな風にこの先も僕たちの関係は変わらないんだろうな、と思うと不思議と胸が温かくなる。 何年たっても、どれほど長い時間会わずにいても、きっと何も変わらずに、僕たちは笑顔で語りあうことができるんだろう。 「怖い話をした罰だ、今日の飲み代は葉山持ちだ」 「だから、何で怖い話なんだよ!」 どれほどの辛い過去も、時がたてば笑って話せるのだ。 それは僕に幾ばくかの勇気をくれる。 これから先、辛いことがあった時、僕はきっと遠く離れた場所で頑張っている友を想うのだろう。 |