今年は暖冬だ、なんて言っていたはずなのに、やっぱり2月に入ると寒い。
突然大寒波なんかもやってきて、滅多に降らない雪まで降ったりして、寒さが苦手なぼくとしては本当にもう春まで冬眠したいと本気で思ってしまうほどだ。 「うわぁ、また降ってきた」 こたつに足を突っ込んだまま窓の外を見ると、ちらちらと白いものが降っている。 積もるような降りではないけれど、すぐにやみそうな感じでもない。 「んー、こんなに寒いなら、夜は鍋にしようかなぁ。ギイが帰ってきたら一緒に買い出しに行くかな」 ギイは珍しく昼過ぎにちょっと出てくると言って姿を消した。 どこへ行くとも、何の用事かも言わずに出ていってしまったので、何時帰ってくるかも分からないけれど、まぁご飯までには帰ってくるだろう。 本当にいくつになっても神出鬼没で困ってしまう。 でも昔と何も変わらないギイがいいな、とも思う。 知り合ってからもうけっこうな時間がたつというのに、いつまでたってもぼくの中ではギイはびっくり箱のような存在なのだ。 一緒にいて飽きないし楽しい。 「ただいまー」 玄関先でギイの声がして、すぐにリビングの扉が開いた。 ギイは相変わらず真冬でも薄着で、マフラーもしていない。コートにうっすらを雪がくっついていて、見るからに寒そうなので、ぼくは思わず身をすくめてしまった。 「おかえり〜、外寒い?」 「それほどでもないぞ」 「・・・雪降ってるのに?」 「託生基準で言うと、めちゃくちゃ寒い」 ギイは笑うと、コートを脱ぎ、いそいそとこたつに入ってきた。 「はー、やっぱり冬はこたつだよなー。あったかい」 「何か温かいものでも飲む?コーヒーでも入れようか?」 「サンキュー」 ちょうどぼくも何か口にしたいと思っていたので、二人分のコーヒーを入れ、残っていたいただきもののカステラをお茶請けにした。 「ギイ、今日はどこに行ってたんだい?」 「んー、いろいろと買い出しに」 「何?」 「とりあえず託生、明後日から旅行に行かないか?」 「旅行?」 年中世界中を飛び回っているギイだけど、たいていは仕事がらみなので、旅行というからにはプライベートということだよね。 それにしてもこの寒い中いったいどこへ行こうというのだ。 まさか南国なんてことはないよね。 「連休だし、託生も休みだろ?」 「うん、まぁね」 「行く?」 ギイと旅行なんてずいぶんと久しぶりだ。お互い仕事もあるし、長期の休みじゃないと行けないし。 「いいよ、行こうか」 「よしっ」 「で、いったいどこへ行くつもり?」 「それは行ってからのお楽しみ〜」 ええっ、ミステリーツアー??まさか海外じゃないよね?さすがにそこまで長い休みじゃないし。あ、でも近場の海外なら二泊三日くらいで行けるっていうけど。 ぼくがあれこれ考えているのを見て、ギイが笑った。 「海外じゃないよ。国内。それと、託生には悪いけど暖かいところじゃないから」 「今の日本はどこでも寒いからね、あ、温泉とかなら嬉しいなぁ」 「あー、そうだな、確かにそれはいいな。オッケー、温泉承りました」 突然の旅行が決まり、行先は分からないけれど、ギイと一緒なら安心だし、ぼくはちょっとわくわくしながらその夜には荷造りをした。とにかく暖かい恰好できるようにな、とギイに念を押されたけれど、言われなくてもそのつもりである。 旅行ということは屋外へ出ることも多いだろうし、カイロもちゃんと用意した。 どこへ行くのかも分からないまま、ぼくたちは旅行の準備をし、二日後には空港に立っていた。 さすがにここまで来れば、どこへ行くのかも分かる。 「北海道!」 「そう」 「ますます寒いところじゃないか」 「まぁね」 この時期だと札幌の雪まつりとか?ギイのことだから美味しいカニとか食べに行くのかもしれない。 でも温泉には行くって言ってたよな。美味しいものと温泉があるのなら、ぼくとしては少々寒くても 我慢しようという気にもなる。 「託生、そんなに考え込まなくても、おかしなところには連れていかないよ」 「そんなこと考えてないよ。ただ、メインは何なのかなぁって楽しみにしてるだけ」 「ならいいけど」 預けるほどの荷物はないので、時間になるまでぶらぶらと空港内の店を見て回った。 空港の賑やかさは嫌いじゃない。皆、これからの旅行を楽しみにしていてそのわくわく感が伝わってくる。 ギイは専用ラウンジに入ろうか?と言ってくれたけど、人が見える喫茶コーナーで出発までコーヒーを飲むことにした。 高級ラウンジで高級なお茶を飲むよりは、こっちの方が性に合ってる。 免税店で買い物をする人や、出発ゲートへと急ぐ人を、ぼんやりと眺めるのはいい暇つぶしになる。 それにしても二日前までは旅行へ行く予定なんて全然なかったというのに、本当に驚きだ。 もしギイと一緒じゃなかったら、面倒臭がりなぼくは飛行機に乗ってまで旅行をしようなんて思わなかったかもしれない。 ギイはフットワークが軽いので、海外だってちょっとそこまでの感覚で行く人だから、ぼくもだんだんとそういうのが普通なのかなと思うようになって、昔ほど海外のハードルは高くなくなった。 「託生、そろそろ行こうか」 空になったコーヒーカップをまとめて片付けて、ギイがぼくを促す。 真冬でも軽装なギイだけど、さすがに行く先が北海道ということもあって、今回はちゃんと冬っぽい恰好をしている。 それでも荷物が少ないのは相変わらずなんだけど。 「何度乗っても飛行機って飛び立つまでドキドキするよね」 「そうか?」 「そうだよ。あのふわっと浮き上がる瞬間って何とも言えないし」 飛んでしまえば何てことはないけれど、離陸と着陸の時だけはやっぱりちょっと緊張する。 実際のところ、飛行機の事故って車の事故より確率は低いそうだけど、でも飛行機の場合、事故になったら絶対に助からないだろうし。 「じゃあオレが手を繋いでてやるよ」 言うが早いか、ギイは毛布の下でぼくの手を握った。 誰にも見られることはないとは言うものの、二人きりじゃない場所だとやっぱりまだ恥ずかしい。 だけどこうしていると不思議と落ち着くのもまた事実なのだ。 もし今事故になったとしてもギイと一緒なら大丈夫かなと思えてしまう。 さすがのギイだって飛行機が落ちるのを止めることはできないだろうし、墜落したら助からないだろうけど、でもギイと一緒ならそれもいいかななんて思ってしまう。 もちろん事故なんて絶対にごめんだけど。 結局、隙あらば手を繋ごうとするギイとの攻防を繰り広げている間に、飛行機は北海道の空港に到着した。本当にあっという間だった。 「ふわぁ、やっぱり寒いね」 空港を出ると、きんとした冷えた空気が頬に痛いほどだった。 歩道の隅に寄せられた雪を見て、ああ、北海道 なんだなぁとしみじみと思う。本当にあっという間に来れちゃうんだよなぁ。 ひゅうっと風が吹くとめちゃくちゃ冷たくて、ぼくは手袋とマフラーでがっちりと寒さをガードした。 「託生、こっちこっち」 移動はバスのようで、ぼくたちは空いた席に並んで座り、しばらく他愛もない話を小声で交わしていた。 あれ、と思ったのは1時間ほどたった頃だった。 バスはどんどん街を離れていく。 「ギイ、もしかしてスキー場に向かってる?」 「お、託生すごいな」 「だって、何だか・・・」 知ってる景色のような気がしてならない。 記憶力はいいとは言えないぼくだけど、おまけに雪景色なんてどれも似たようなものだとは思うのだけれど、だけど、遠くに見えてきた建物には見覚えがある。 「ギイ、もしかして、あれって、キラキラリゾート?」 「大正解」 ぼくは思わずバスの窓に張り付いてしまった。 だって、キラキラリゾートといえば、ぼくたちが高校2年の冬に、祠堂の恒例行事として訪れた場所だ。 初めてスキーをしたのものここだった。 あの時は抽選に外れてけっこうな時間をかけての電車での旅だった。ギイがぼくに付き合ってくれたっけ。 スキーは思っていた以上に楽しかった思い出がある。 「どうして?どうしてキラキラリゾートなの?もしかしてスキーをやるつもり?」 「もうすぐ託生の誕生日だろ?お前、なかなか欲しいものも言わないし、欲しいものがないんならバースデー旅行もいいなって思ってさ。ちょうど時期的にスキー場だったら一緒に楽しめるし。昔、託生も楽しいって言ってたし、結局あれから行けなかったから久々にと思って。北海道は海の幸が楽しめるし、温泉にも入れるし」 「うん。ぜんぜん上手く滑れなかったけど、スキーは楽しかった」 「だよな」 寒いのは大の苦手のぼくだけど、スキーはまた行けたらいいなと思っていた。 だけど祠堂を卒業してからはしばらくギイと会えない時期があったし、なかなか行く機会もなかったのだ。 ギイはスポーツは何でも器用にこなすけど、もちろんスキーだってインストラクター並みに腕前だった。 すごくカッコよかったのを覚えている。 懐かしいなと迫ってくる建物に目を細める。 「あ、でもスキーの準備なんて何もしてないんだけど」 「心配ご無用。ちゃんと一式用意してるし、あ、今回はスノボに挑戦してみようぜ」 「スノボ!?板が一本しかないし、ストックもないんだけど!無理だよ」 「大丈夫大丈夫、オレもスキーほど上手くはないからさ、二人で仲良く練習しようぜ」 スキーほど上手くないと言っても、ギイのことだからそこそこ滑れるに違いない。 うー、ちょっと怖い気もするけど、でもスキーを初めてした時も同じように怖いと思いながらも最終的には楽しくなったのだ。 「うん、頑張るよ」 「よし」 嬉しそうなギイに、ぼくもちょっと嬉しくなった。 今回ギイが予約してくれたのは、もちろん祠堂のスキー合宿で泊ったのと同じホテルだ。 あのころ、まだオープンしたばかりだったホテルはさすがにあの時のキラキラした雰囲気はなくなっていたけれど、落ち着いた雰囲気に一新されていて、また違う趣きがあっていい感じだった。 「懐かしいなぁ。ギイ、着いて早々姿を消して、大変だったんだからな」 「はは、そうでした。託生がいてくれてほんと良かったよ」 「あのね、ぼくはギイの後始末係じゃないんだよ」 「そうだっけ?」 「ちょっと!」 ギイの背中をばんっと一つ叩き、チェックインの順番を待った。 八階まで吹き抜けの豪華なアトリウムロビー。自動演奏のピアノはなくなっていて、代わりにお茶のできるカフェスペースになっていた。スキーウェアのちびっこたちが行きかう様子はあの時のままだ。 そういえば、あの時はギイの身元がバレてしまって社長さんだの偉い人たちがギイの挨拶にきて大変だったんだ。 今回は大丈夫なのかな。 ぼくがあれこれ考えている間にチェックインを済ませたギイがカードキーを片手に戻ってきた。 「お待たせ」 「ねぇギイ」 「うん?」 「大丈夫だった?」 「何が?」 「あの時みたいにギイのことに気づいてさ・・」 言い淀むぼくに、ギイがああと笑った。 「大丈夫大丈夫。チェックインの名前、託生のを使わせてもらったからさ」 「へ?」 「葉山託生、葉山義一ってさ」 「はぁ!??」 何だ、それは!想定外のことにぼくは開いた口が塞がらなかった。荷物を持って乗り込んだエレベーターの中で、ぼくは小声でギイに抗議した。 「ちょっと、それ何だよ。おかしいだろ」 「何で?別にいいだろ」 「いやいや、だってさ」 「兄弟かーって思われるくらいだよ」 「どう見ても兄弟には見えないよっ」 ギイは笑うばかりで全然取り合ってくれない。 まったくもう、そりゃ名前を変えちゃえばバレないだろうとは思うけどさ。 同じ苗字で泊るなんて、ちょっと恥ずかしいじゃないか。 ギイはぜんぜん普通の顔をしていて、ぼくだけが勝手に恥ずかしくなってるのもバカバカしいので、さくっと忘れることにした。 到着したフロアは最上階だった。 「わー」 一歩廊下へ踏み出すと、ふわふわの絨毯に足が埋もれてしまいそうになる。 おまけに、なに、このフロア。左右にあるはずの扉の数が・・めちゃくちゃ少ないんだけど。 「到着、さぁどうぞ」 ギイが恭しく扉を開けて、中へどうぞとぼくを促す。 恐る恐る中に入ると、その豪華さに今度は開いた口が塞がらなかった。 昔、合宿の時に泊まったスタンダードツインの部屋でもめちゃくちゃ広かった。 バスルームとトイレも独立式だったし、長期滞在型のフルシーズンリゾートを目指してるだけあって、すごく居心地はよかった。 あの時の部屋と比べて倍以上はあろうかという部屋はシックな色合いでまとめられていて、立派なソファセットや大きなテレビ。ベッドがないなと思ったら、何と隣へと続く扉があって寝室は別になっていた。 ツインのはずだけど、置かれていたベッドのサイズはダブルサイズくらいはある。 「あの・・・ギイ?ここ、何だか普通じゃない部屋だよね」 「何だよ、普通じゃないって」 「めちゃくちゃ豪華なんですけど」 「そりゃあ一番いい部屋を予約したからな」 たった二泊三日なのに贅沢だなぁ。 「ギイってば、何でこんな豪華な部屋にしたんだよ、もったいない」 「そりゃお前、誕生日だから、だろ?」 「誕生日?もしかしてお祝いだから?」 ぼくが聞き返すと、ギイは呆れたように嘆息した。 そしてぼくへと近づくと両手を広げてぎゅっとぼくを抱きしめた。 「そりゃそうだろ。毎年毎年、自分の誕生日だっていうのに何のリクエストもしてくれない薄情な恋人を持つオレからすれば、せめてこれくらいはさせて欲しいと思うわけだよ」 「え、あー、そっか。そうでした」 別に忘れてるわけじゃないけど、だけどこの歳になって誕生日が待ち遠しいというわけでもないので、ついつい言われるまで思い出せないというだけだ。 おまけにこれといって不自由はしていないから、プレゼントと言ってもすぐには思いつかないだけなんだけど。 「誕生日おめでとう、託生」 「うん、ありがとう」 「今年はとにかくスペシャルな誕生日にするからさ」 ギイがぼくの耳元にちゅっとキスする。 今年は、って。ギイは毎回ぼくが喜ぶ誕生日を演出してくれて楽しませてくれている。 ギイのおかげでぼくはいつもスペシャルな誕生日を迎えている。 今年は懐かしいホテルの予約をしてくれて、スノボを一緒に楽しんで、ゆっくり温泉にも入って。 うん、どれもめちゃくちゃ楽しみだ。 「ありがとう、ギイ」 「どういたしまして」 背中に回された腕が解かれて、ギイの手がぼくの頬に添えられた。 優しい口づけにふんわりと胸の奥が温かくなる。不思議だな。こんなに長い間一緒にいるのに、どうしていつまでたってもぼくはギイのことが好きなのかな。 うっとりと甘い口づけに酔っていると、ギイがあーあ、と大仰に嘆いてみせた。 「どうしたの?」 「このままベッドに飛び込みたいなーって思ったけど、まだ時間早いし」 「・・・っ」 さすがにあの合宿の頃よりは大人になったので、ギイの嘆きを一蹴することはしない。 だけど明るいうちっていうのは・・・やっぱりちょっと・・って、ほんと今さらなんだけど。 「まぁお楽しみは夜まで取っておくことにして。なぁ託生、スノボは明日からにして、今日はちょっとオレに付き合って?」 今度はいったい何が起きるのか、と思いながらも、ギイの言葉にぼくはうなづいた。 さくさくと雪を踏みしめながらギイのあとをついて歩く。 スキー場から車で30分ほど走っただけで、辺りは閑散とした雰囲気のごくごく普通の田舎町に変わった。 よくよく考えればスキー場というのは山の中にあるし、スキーの時期が終われば人もいなくなって静かな場所になるはずだ。だからこれが本来の街の姿なのかもしれない。 「ギイ、どこ行くの?」 もしかして温泉かな、とも思ったけれど、その用意はしていない。 「昔の友達に会いに」 「え、ギイ、北海道に友達いたっけ・・・あ・・」 ギイが振り返って静かに微笑む。 足を向けた場所が市営の墓地だと気づいて、思わず息を飲んだ。 ああ、ばかだな、ぼくは。 いろんなことを割とすぐに忘れてしまうけれど、忘れちゃいけないこともあるのに。 祠堂の同級生だった柊優志。冬休みに帰省して、行方不明になったままになってしまった同級生。 あの合宿の時にも、みんなが彼のことを思い出した。 だけど結局何も分からないままで、その後、実家の裏山から遺体が発見された。 事故なのか事件なのか、それは今でも分からないままで。 「ギイ・・・」 「うん?」 「ぼくって薄情だよね」 北海道へ来て、あのホテルに泊まることになっても、柊くんのことを思い出せなかった。 ギイは立ち止まったぼくの元へとやってきて、その手を握った。 「そんなことないよ。もうずいぶん経ってるし、託生は優志と親しかったわけじゃないんだから仕方ないよ。ごめんな。ちゃんと話せばよかったんだけど、せっかくの誕生日旅行なのにしんみりさせたくなかったし」 「話してくれればよかったのに。ぼくだって柊くんのこと・・・」 言いかけて何かが胸の中で引っかかった。 何か大切なことを忘れてるような気がしてならなかった。 ギイの言う通り、ぼくは柊くんとはほとんど話したことはなかったし、彼がどんな人だったかもよく覚えていないけれど、だけどいろんなことを知ってるような気もする。 誰かが・・・彼のことを大切にしている誰かがいろんなことを教えてくれたような気がするのに、だけど何も思い出せない。 おかしいな。ギイが教えてくれたのだろうか。 でも、教えてくれたのなら、いくらぼくでもさすがに覚えているだろうと思うのだ。 何だか釈然としない気持ちのまま、ギイと共に訪れた柊家の墓の前でぼくたちは静かに手を合わせた。 短い人生を閉じてしまった友人を思うと、やりきれない気持ちになる。 ギイは柊くんとも親しかったし、たぶんもっと辛いに違いない。 誰よりも友人思いのギイ。鈴木くんが亡くなった時も、ひどく落ち込んでいた。 「花も何もなくてごめんな」 ギイがつぶやいて、代わりに持ってきていたコンビニ袋の中からお菓子を取り出して墓前に供えた。 「お菓子?」 「そ。優志、こういう駄菓子が案外好きだったからさ」 「そうなんだ。柊くん喜ぶね」 「だといいな」 ぎゅっとギイの手を握り締める。冷たい手を暖めるように指を絡める。 ちらちらと雪が降りだしてきて、ギイはぼくにコートのフードを被せてくれた。 「帰ろうか。冷えただろ?ホテルに戻ったら託生が行きたいって言ってた温泉に入って、温まろう」 「うん。ねぇギイ。あの合宿でのこと、全部覚えてる?」 そんなこと聞くまでもないとは分かっている。ギイの記憶力は半端なくて、ぼくが忘れてしまっても全部ギイが覚えているのですごく助かるのだが、時々忘れ欲しいと思うこともしっかり覚えていて恥かしくなることもある。 あの合宿で、ぼくは考えなしな行動をしてしまって怪我をして、みんなに迷惑をかけてしまった。 だけど、何ていうか、そのこと自体は事実のはずなのに、何だか夢の出来事のようにも思うのだ。 上手く言えないけれど、あれは本当にあったことなのかな、って首を傾げてしまうような感覚だ。 夢じゃない。だって凍傷寸前で痛い思いをしたのは本当のことだし。 だけど、今でもちょっと現実感がないのだ。 歩きだしたギイは白い息を吐きながら笑って言った。 「全部覚えてるよ。託生がゲレ食で一人だけ焼きそば食べて片倉にからかわれたことも、インストラクターといちゃいちゃしててオレがヤキモチ妬いたことも」 「いちゃいちゃなんてしてないだろ」 「いーや、してた」 「もう、ギイってばおかしなことばっかり覚えてるんだから。そうじゃなくて、もっと・・・違うことだよ」 「違うことって?」 それがちゃんと説明できれば苦労はないんだけど。 ギイがどこか遠くを見るような目でぼくを見る。 何となく気まずくて、ぼくはマフラーの中に鼻先を埋めた。 今日、こうして柊くんのお墓参りをして、それをきっかけに何だか胸の奥でモヤモヤしたものが広がってきたのだ。 何だかとても大切なことを忘れてるんじゃないかって。 ギイはそれ以上は聞いてこなかったけれど、 もしかして、ギイは何か知ってるんじゃないだろうか。 何の根拠もないけれど、そんな気がした。 「うわー、眩しい」 翌日、朝から豪華なバイキングの朝食をゆっくりと堪能して、ぼくたちはゲレンデへと繰り出した。 ウェアもボードも全部事前にギイがレンタルの手配をしてくれていて、本当に手ぶらでやってきても大丈夫!の状態だったのには驚いた。まぁこういうところでギイに抜かりがあろうはずもないのだけど。 「いい天気だなー。託生、ゴーグルしろよ、目が痛くなるぞ」 「うん。天気はいいけど、やっぱり寒い」 「そうか?風もないし、絶好のスノボ日和!」 「ぼく、やっぱりスクールに入ろうかなぁ。ちびっこたちと一緒っていうのはちょっとどうかとは思うけど」 祠堂の合宿の時も、初心者はインストラクターについて教えてもらったのだ。 「だから、オレが教えてやるって。マンツーマンでみっちりと!任せろ、すぐに滑れるようにしてやるから」 「えー、何だか怖いな。ギイ、案外とスパルタだからなぁ」 ぶつぶつ言ってても仕方がないので、まずは平地でボードの乗り方や転び方、基礎の基礎を教えてもらった。恐々と手伝ってもらいながら、何とか基本を覚えていく。 リフトに乗るまでもない斜面で練習をするが、とにかくスキーと違って横向きなので怖いことこの上ない。 それでも何度か滑っているうちに少しコツも分かってきた。 とりあえずちゃんと転ぶことができれば大丈夫なのだということも。 「はー、何だかおかしなところが筋肉痛になりそうだよ」 「明日とかな。でも託生、筋がいいよ。午後からは少しだけ上に行ってみるか」 「大丈夫かなぁ」 「ギイくんがいるからお任せあれ」 ぱちんとウィンクしてみせるギイは、ずっとぼくの世話ばかりしてて、まだ一度も滑ってない。 「ギイ、レッスンは休憩にして、滑ってきたら?ぼく、ここで見てるから見本見せてよ」 体力のないぼくとしては、少し一休みしたい。 ギイはそうだなぁとぐるりと辺りを見渡して何かを考えているようだった。 「託生、お前、勝手にリフトに乗って上に行ったりするなよ?」 「しないよ」 「ちゃんとここでオレが戻ってくるの待ってられるか?」 「子供じゃないんだからちゃんとここで待ってるよ」 いったい何を心配しているのやら。ぼくだって見知らぬ場所でうろうろするほど子供じゃない。 ぼくの返事を聞いて、ギイはじゃあ一本滑ってこようかなと言った。 スノボは初心者だと言っていたギイだけど、いったいどれくらいの腕前なのかも見たかった。 スキーはほんとにプロ級に上手だったので、たぶんスノボもそれなりに滑るんだろうなぁとは思っていたのだけど。 「詐欺だ」 ギイがリフトで上へと上がってから数分。 ウェアの色でギイを探そうと思っていたぼくは、そんな必要はないとすぐに思い知らされた。 そりゃもう見事な滑りで、嫌でも目が行ってしまう。 すぐにギイだと見つけられる。 「わー、あの人、かっこいー」 近くにいた女の子が思わずと言った風に声を上げた。 ほんと、相変わらずカッコいい。ギイの言う「初心者だから」なんて言葉を信じてはいけなかった。 スキーほどは滑り込んでいないかもしれないけれど、あれはもう上級者の滑りじゃないか。 「騙された」 いや、別に下手だなんて言ってたわけじゃないけどさ。 見事なターンを繰り返して、ギイはぼくの目の前でぴたりと止まる。 ふーっと一つ息をついて、無造作にゴーグルを外す。 「おまたせ。どうだった?ちゃんと滑れてたか?」 「カッコよかった」 「は?」 思わずの感想に、ギイがきょとんとぼくを見返す。 「すごーくカッコよかったよ。ギイ」 「・・・え、あー、そっか」 いつになくギイが照れたようにそっぽを向く。 変なの。 思わず笑うと、ギイが何だよ、と唇を尖らせる。 だって付き合い始めの高校生みたいな反応するから、こっちが恥かしくなるじゃないか。 「ぼくも練習してギイみたいに滑れるように頑張ろうっと」 「お、やる気になってる。よしよし。じゃあちょっと早いけど昼飯にしよう。食堂が混まないうちにさ」 「うん」 「託生は焼きそば?」 「いえ、カレーにします」 「はは、だよなー。スキー場ではカレーだよなー」 「うるさいなー」 そんなくだらない言い合いをしながら、ぼくたちは食堂へと向かった。 まだ早い時間だけど、同じように考えた人たちでそれなり混雑している。 寒い場所から暖かい室内へと入ってこれて、ぼくはほーっと一つ息をついた。 ウィンタースポーツは楽しいけど、やっぱり寒いのは苦手だということを思い知らされる。 きょろきょろと辺りを見渡して、ようやく見つけた空いた席に ギイが外した手袋を置いた。ぼくも同じように手袋を置く。とりあえず先に席をキープしておかないといつまでたってもご飯を食べることができなくなる。 「託生、オレがカレー取ってくるからさ、ドリンク買って、席陣取っててくれ」 「わかった」 「オレ、ビールな」 「はいはい」 合宿のときはコーラだったように思うけど、さすがに今はビールだよね。気持ちは分かる。 大人になったなー、なんてちょっと感慨深かったりもして。 ドリンクコーナーで少し並んでビールを買って席に戻る。ウェアを脱いでほっと一息ついた。 ぼんやりと窓の外、ゲレンデをスキーやスノボで滑走している人たちを眺める。 上手だなぁと思う人もいるけれど、やっぱりギイの滑りの方がカッコよかったな、なんて思うあたり、ぼくもたいがい惚れた欲目ばかりだ。 あの合宿の時もお洒落なウェアで颯爽と滑ってくるからみんな見惚れてた。 もう二十代も後半になって、若い子たちにしてみれば十分おじさんの域にかかっているんだろうけど、それでも、いかにも十代に見えた子たちでさえギイに魅入っていた。 そりゃあギイは相変らずカッコいいし。ぼくだって見惚れちゃうくらいだし。 だめだ。 普段はそんなこと考えないのに、たまにこうしてギイがカッコよく見えちゃうと、妙に照れてしまうのだ。 ぼくは火照った頬を冷えた掌で何度か叩いた。 「・・・っ」 ふと視線を感じて振り返った。 今、誰かに見られているような気がしたけれど気のせいだろうか。 食堂は混みあっていてどこから見られていたのかも分からないけれど、何だろう。 誰かに見られてた。 首のあたりがちりちりした。 知ってる人でもいるのだろうか。 まさか北海道の地に知り合いはいないし・・・ 「おまたせ」 気になって辺りを見渡していると、ギイがトレイにカレーを二皿乗せて戻ってきた。 「どうした?」 「ううん」 ビールで軽く乾杯して喉を潤す。 「ギイ、誰か知ってる人に会った?」 薄くて、肉なんてどこにあるんだろう、というさらさらカレーを食べながら聞いてみた。 「知り合い?いや、見てないけど、誰かいたのか?」 「うーん、何か見られてるような気がしたから」 「・・・・」 「気のせいだとは思うけどさ」 気にしないでいいよ、と言うとギイはちょっと難しそうな表情でそうだなとうなづいた。 それからすぐにお昼どきになり、次々に人が食堂にやってきたので、のんびりとしているのも憚られて、食事を済ませると早々に再びゲレンデへと出た。 午後からはリフトに乗って初心者コースのさらに緩い斜面で、午前中に教えてもらったことを練習してみることになった。 よろよろと何度もこけながら、ちょっとづつ立てるようになり、滑れるようにもなると、やっぱり楽しくなってくる。 スキーほど上達は早くないけれど、それでも何でもやればできるものなのだ。 「託生、さまになってきたな」 「ほんと?でもまだ体重のかけ方が難しくって」 「スキーよりもスノボの方が難しいし、だけどコツが掴めたらもっと上手くなるよ」 だといいんだけどな。さすがにギイくらいまで滑れるようになるには数年かかるだろうけど、でもせめて迷惑かけない程度には一緒に滑りたいし。 迷惑・・・。 あの合宿でも、ギイはぼくの練習に付き合ってくれた。 初心者用のゲレンデを一緒に滑って、途中で章三とも合流したりして。 あの時のことは何だか途中でぼんやりとした記憶になってしまう。 何だろう、ずっと忘れていたけれど、こうして同じホテルで同じゲレンデにいると、あの頃のことが不思議とじわじわと思いだされてくる。 楽しかった思い出と一緒に、何だかすごく悲しい思いもしたような気がするのだ。 「託生?」 ギイがどうかしたか?と聞いてくる。 ぼくはううんと首を振った。 どうもしない。どうもしないんだけど、何だろう。 その時、ゲレンデの下からファンファンとサイレンを鳴らしながら、レスキューのスノーモービルが駆け上がってきた。 何か事故でもあったのだろうかと目で追っていると、上から降りてきたらスキーヤーたちが同じように足を止めて眺めて話をしているのが聞こえてきた。 「何かあったのか?」 「コースアウトした子がいたらしくてさ、崖の下の方まで落ちちゃったみたい」 「えー、危ないなー。どうせ立ち入り禁止のとこ滑ってたんじゃないの?」 「遭難とかしそうだよなー」 気をつけないとな、と笑いあいながら、リフト乗り場の方へと滑っていった。 彼らの会話を聞くともなく聞いていて、遭難という言葉にどきりとした。 雪山での遭難なんて、そうそうあるものじゃない。 雪山登山とかそういう時にしか発生しないものだと思うのに、だけど・・・ 「行くぞ、託生」 「あ、うん」 もう少し上まで行ってみようとリフト乗り場へと進む。並ばなくともすんなりと乗れたので、ギイと二人ゆらゆらとゆっくり斜面を上がっていく。 「懐かしいなー。あの時もこんな風に一緒にリフトに乗ったよね」 「そうだな。ほら、今は新しくゴンドラもできてる」 「ほんとだ」 「あれだとあっという間に山頂に」 「いやいや山頂から滑るなんてことないですから」 ぼくが言うと、ギイは楽しそうに笑った。 「ねぇギイ」 「うん?」 「あの合宿の時にさ、ぼく、何かギイに迷惑かけちゃったような気がしてならないんだけど」 「迷惑?」 「うーん、あんまりよく思い出せないんだけど」 ギイはゴーグルを外すと、やけに真面目な顔をしてぼくの顔を覗き込んできた。 その表情がどこか悲し気にも見えて、ぼくはどきりとした。 「別に託生に迷惑かけられたりしてないよ。むしろオレの方が託生に悪いことしたなって」 「え、悪いこと?」 ぼくは今までギイから悪いことなんてされた覚えはないんだけど。 祠堂の頃、あれこれとお世話になったのはぼくの方だ。 ギイはぼくの肩先にこつんと額を当てると、いいんだ、と言った。 「託生は覚えてなくていい。思い出さなくてもいいんだ。だけど、オレはあの時、自分にとって託生がどれくらいかけがえのない人なのかを知ったし、絶対に失くしたくないって思った。オレより先に・・・絶対に死んだりしないで欲しいって、心からそう思った」 「・・・」 「約束だ、託生。オレより先には死なないでくれ」 「変なの、ギイ」 ぼくは分厚い手袋のままギイの手に触れた。 「そんな先のことなんて誰にも分からないし、だいたい死ぬなんてこと考えたことないよ」 「ああ、そうだな」 「だけど、ギイが心配してるならいいよ。約束してあげる」 ギイが顔を上げる。 ぼくはゴーグルを上げて、ギイの額に自分の額をこつんとくっつけた。 「ぼくはギイより先には死なない。・・・ように頑張るよ。だからギイもできればぼくよりも長生きしてほしい」 「託生、それじゃどっちも先に死ねなくなる」 「あ、そっか」 くくっとギイが笑い、ぎゅっとぼくの手を握りしめた。 「ありがとな」 「どういたしまして」 結局何の約束にもなってないけど。そんな未来のことは誰にも分からないけど。 だけど、何度でも約束してあげるよ。 何だか、前にも同じことを言ったような気がする。 夢だったような気もするけれど、ギイが泣きそうな顔をしてたから、何の根拠もなかったけれど、ギイよりは死なないと約束した。 わけもなく、それが現実のものだと思った。 ギイが忘れているはずがない。 だけど何も言わないのは、何か理由があるからだ。 知りたい気もするけど、ちょっと怖い気もする。 夕方近くまでスノボを堪能して、へとへとになってホテルへと戻った。 近くに温泉があって、ホテルからシャトルバスが出ているそうだけれど、とりあえず夕食を取ってからにしようということになった。 ギイのことだから夕食もレストランでのフレンチのコース、なんて予約してるんじゃないだろうかと思ったけれど、ぼくの予想を超えて、ギイはルームサービスを頼んでいた。それもレストランで食べるのと同じようなイタリアンのコースだった。 「うわー、すごい」 何しろ部屋も広いしテーブルも大きい。 綺麗にセッティングされた料理は本当に美味しそうで、急に空腹を感じた。 誕生日のお祝いということで、ギイはシャンパンまで用意してくれていた。 「部屋で飲むなら少しくらい飲みすぎても平気だろ?二人でゆっくり食事も楽しめるし」 もちろんテレビなんてつけることはなく、代わりにクラシックの音楽をかけてくれた。 自宅にいるようにリラックスしてギイと話をしながらもりもりと食事をした。 「やっぱり運動するとお腹空くよね。年取るとお腹がぺこぺこになるまで動くことって少ないし、本当に久しぶりに動いたーって感じがするよ」 「託生はどちらかと言えばインドア派だしな」 「うん。でもそろそろ運動もしないとダメだよね。音楽するのも体力つけないと駄目だって、佐智さんに言われたことがある」 「へぇ。言ってる本人が体力あるようには見えないけどな」 ギイは唯一と言っていいほどに心を許している幼馴染みを思い浮かべてか、小さく笑った。 いやいや、趣味の延長ぽくバイオリンをしているぼくとは違い、佐智さんはプロの演奏家なので、華奢には見えても、人一倍体力はあるはずだ。 昔はギイと佐智さんのことをちょっと妬いたりもしたけれど、今はそんなことは思わない。 佐智さんには聖矢さんという恋人がいるし、ギイが愛しているのはぼくだって信じられるから。 祠堂を卒業してもう10年近く。離れた時期もあったけれど、だけどやっぱりこうして一緒にいる。 それが当たり前で、今さら離れるなんてことは考えられない。 ちゃんと分かっているから、ギイが佐智さんのことを口にしても心穏やかでいられる。 うん、ぼくもちゃんと成長しているな。 料理をすべて食べ尽くし、あとはデザートを残すのみとなった。 時間を見計らって係の人が持ってきてくれるらしく、それを待ちながら、ぼくたちはスキー合宿での思い出に花を咲かせた。 「幸せだなぁ」 シャンパン一杯くらいで酔ったつもりもないけれど、思わずそんな言葉が出てしまった。 ギイはちょっと目を丸くして、 「美味しいものを食べてると、確かに幸せだなって思うよな」 と笑った。 「そうじゃないよ。そりゃ確かに料理もシャンパンもすごーく美味しいから幸せだけど、そうじゃなくて、こんな風にギイと一緒にいられるのが幸せだなぁって。昔は、ずっと一緒にいられたらいいなぁって漠然と思っていたけど、先のことは分からなったし、自分じゃどうすることもできないだろうなって、どこかで諦めた部分もあったんだ。今だから言えるけど。だけど、ギイが頑張ってくれたおかげでこうして一緒にいられる。幸せだなぁって」 「頑張ったのはオレじゃなくて託生の方だろ?」 そうだろうか。 ぼくが頑張ったことがあるとすれば、それはただギイを信じようとしただけで、それはあくまで自分の心の中でだけの問題だ。 だけどギイは、それ以上に周囲の状況を変えなくてはいけないことがいっぱいあって、もっと物理的に大変だったんじゃないかと思う。 ぼくの知らないところで、たぶんたくさんの犠牲を払っているんじゃないだろうかと思うと、いつもちょっと怖くなっていた。 本当にこれで良かったのかな、って。 そんな風に思ってたこともあったけど、でも今はお互いが自分ができる精いっぱいのことを頑張ってきたんだって分かるから、誰に対しても胸を張って、二人で頑張ったのだと言うことができる。 ギイはテーブルの上でぼくの手をぎゅっと握った。 「まだまだ頑張らないとダメなこともあるとは思うけど、これからもよろしくな、託生」 「うん、ぼくの方こそよろしくお願いします」 二人で顔を見合わせてちょっと照れたように笑いあった。 その時ピンポーンと部屋のチャイムが鳴った。 まるで見ていたかのようなタイミングの良さに驚いてしまう。 どうやらデザートがやってきたらしい。ケーキだろうとは思うけれど、ロウソクとか立ってたらどうしよう。 「失礼します」 からからとワゴンを押して入ってきたホテルマンがテーブルの前で足を止める。 ワゴンに乗っているのは思っていたようなホールケーキではなくて、割と小ぶりなチョコレートケーキだった。ロウソクは立ってない。よかった。 「美味しそう」 甘いものはそれほど得意な方ではないのだけれど、これはなかなか美味しそうだ。 ギイは甘いものも大好きなのでさぞかし喜んでいることだろうと思って見ると、ギイはワゴンを押してきたホテルマンを凝視していた。どこか怒っているような表情なのはどうしてだろうか。 一方のホテルマンはそんな視線はまったく気にもしていないようで、ぼくににっこりと微笑んだ。 「お誕生日だということで、プレゼントを用意いたしました」 そう言って、ワゴンの下の段から花束を取り出して、ぼくへと差し出す。 白い花。 初めて見るような、見たことあるような。 「どうぞ」 「あ、ありがとうございます」 花束を受け取ろうと手を伸ばしたとき、思わずと言ったようにギイが立ちあがって、 「よせっ」 と叫んだ。 突然のことにびっくりして受けそこなった花束が足元でぱさりと音を立てた。 行き場を失ったぼくの手を、ホテルマンがぎゅっと握った。 大きくて冷たい手にどきっとした。 いきなり見知らぬ人に手を掴まれて逃げようとしたけれど強い力で引き戻される。 ギイがテーブルをまわってぼくのそばに駆け寄るより早く、 「託生くん」 と、そのホテルマンがぼくの名前を呼んだ。 その声に動けなくなる。 どうして名前を知っているのだろうか。ああ、そりゃあホテルの人だから・・と思うのと同時に、ぼくは目の前にいるホテルマンのことを知っているのだと、唐突に思い出していた。 それは本当に不思議な感覚で、まるで古いアルバムを開いてそこにある写真を見たとたんに、ああそんなこともあったなと思い出すのと似ていて、知っていると思ったとたんに次々に当時の記憶が押し寄せてきた。 昔、ニューヨークでほんの少しの間記憶を無くしていたことがあって、その記憶が戻ったときよりももっと鮮烈に、ぼくの中に一瞬のうちに封じられていた景色が甦る。 「タケル・・・」 祠堂のスキー合宿で訪れたこのホテルで、行方不明になっていた柊くんの守り神のように存在していたタケル。 「託生っ」 ギイがぼくのことをタケルから奪い返すようにして抱きしめた。 「思い出さなくていい」 「でもギイ・・・」 思い出そうとしなくても、すべてが鮮明に蘇ってしまった。 あの雪山で遭難しかけたことも。死の間際に眠ってはいけないと励ましてくれた声も。ギイが助けてくれたことも。柊くんのことも、悲しい事実も。誰にも知られていなかった過去の出来事も、タケルがすべて明らかにした。 どうして忘れていたのだろう。今まで忘れていることすら気づかなかった。 次から次へとあの頃の正しい記憶が溢れてくる。 欠けていたパズルのピースがあるべきところへハマっていくような安堵感と、それと同時に胸が締め付けられるような悲しさも溢れてくる。 「よかった、ちゃんと思い出してくれたようだね」 目の前のホテルマン・・・タケルはあの頃とぜんぜん変わっていなかった。 歳を取らない姿に改めて彼が人間ではないものなのだと思い知る。 オカルトは苦手なはずなのに、不思議と彼のことは怖いとは思わなかった。 ただ懐かしい人に会えたという思いの方が強かった。 「どうして記憶を戻したりしたっ!」 その言葉で、ぼくは初めてギイはすべてを覚えていたのだと知った。 それとも途中で思い出したのだろうか。 どっちにしても、ギイは自分だけはあの辛い真実を抱えたまま、何も言わずにぼくをここに連れてきたことになる。 ギイに怒鳴られてもタケルは悪びれた様子もなく軽く肩をすくめるだけだ。 「どうして今になって記憶を戻したりした!タケル!」 「そう怒鳴るなよ。このまま忘れたままでいいって思っていたけど、だけどお前たちが優志のお墓参りをして、託生くんが優志のことを思い出して悼んでくれたから。あれからずいぶん時間もたって、真実を知っても、それが辛いことであっても、託生くんなら大丈夫だと思ったからだよ」 タケルが床に落ちた花束を拾い上げて、ぼくへと手渡す。 そうだ、この白い花はエーデルワイスだ。 花言葉は尊い記憶。 タケルの言う通り、あれはすごく悲しい出来事だった。 どうすることが正しいことなのかも分からなかった。 それは今でも分からない。 「優志のことを思ってくれてありがとう、託生くん」 タケルの言葉に、ぼくは首を横に振った。 「ギイに連れてこられて、一緒にお墓参りをして、そこで柊くんのことを思ったけど、だけど、いつもいつも覚えていたわけじゃない。そんな風にお礼を言われるようなこと、何もしてないよ」 「そりゃあ託生くんの記憶を、俺がちょっと操作したからさ。託生くんの中に残っていたのは楽しかった合宿の思い出だけだ。それでいいって思っていた。何しろ、こいつがだけは全部覚えていたことだしさ」 タケルがギイを見る。ギイはまだ納得できないような憮然とした表情をしている。 「だけど、託生くんなら大丈夫だって思ったし、だいたい大切な恋人に辛い思いをさせたくないからって、そんな風に守ってばかりでいるのもどうなんだよって思わないかい?」 「うるさいな」 ギイがさらにむっとしたようにタケルを睨む。 昔と変わらず、どうやらこの二人はあまり相性がよくないらしい。 ぼくはギイの腕から離れると、手を伸ばしてギイの頬を軽くつまんだ。 「ギイのばか」 「え、何だよ」 全部自分一人で抱え込んで。 そりゃあギイだっていつもいつも柊くんのことを考えていたわけじゃないだろうけど、だけど、真実を誰とも分かち合えないでいることはどれほど辛かっただろう。 超人的に記憶力のいいギイ。 忘れていた方がいいことすら、忘れられないのはギイが望んだことではない。 周りの人が皆忘れていても、せめてぼくは覚えていて、一緒に辛い思いを分け合いたかった。 「あっ、もしかしてお昼の食堂で、ぼくのことを見てた?」 ふいに思い出して、ぼくはタケルに聞いた。 ゲレンデの食堂で誰かに見られているような気がした。知っている人なんて誰もいないと思っていたから気のせいだと思っていたけど、もしかしてあれは。 「そう、ちょっと様子を見てたんだ。また託生くんが無茶しなきゃいいなと思って」 ああ、そうだった。 あの遭難事件のことがあるから、タケルが心配してくれたのだろう。 何とも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 「託生くんの記憶は、このままでもいい?」 タケルの言葉にぼくはもちろんとうなづく。 柊くんのことだけじゃなく、ぼくには覚えておかなくてはいけないことがある。 絶対に忘れちゃいけないことだ。 タケルは満足そうにうなづいた。 「じゃあ俺はそろそろ行くよ。せっかくのバースディ旅行みたいだし、邪魔しちゃ悪いから」 「よく言うぜ。これ以上ないくらい邪魔したくせに」 呆れたように言い捨てたギイを、タケルは真っすぐに見つめた。 「ギイ」 「何だよ」 「ありがとう。優志のこと、ずっと忘れないでいてくれて」 「・・・」 「いつでもずっと覚えてる必要はないんだ。ただ忘れないでいてくれるだけでいい。時々こうして会いにきてくれると、あいつも喜ぶ。今までもお前は優志のことを忘れずにいてくれた。これから先、本当のことを知っている二人が優志のことを時々思ってくれれば、それで十分だ」 友人思いのギイが、不幸な死を遂げた柊くんのことを忘れることなどない。 タケルもそれが分かっているから、これはきっとタケルなりの感謝の言葉なのだろう。 「さよなら、託生くん。また会えて嬉しかったよ」 たぶんもう二度と会うことはないのだろう。 さようなら。 気づけは彼の姿はなく、ぼくの手にはエーデルワイスの花だけが残っていた。 今ではちゃんと思い出せている。 お見舞いと称して、あの時もタケルが同じ花を贈ってくれたのだ。 「託生、大丈夫か?」 ギイが心配そうにぼくの顔を覗き込む。 「大丈夫だよ。いろいろ、ちょっとびっくりしてまだ混乱してるけど」 「だよな。タケルのやつ、何の相談もなくやってくれたよ」 不機嫌そうな声色に、ギイはぼくがあの時のことを思い出してほしくなかったのだと気づいた。 たぶんそれは、ギイなりの優しさだったのだろう。 過保護だなと思うけれど、ギイは辛い出来事からぼくを遠ざけておきたいと思ったに違いない。 「ギイ、全部覚えてたの?」 「覚えてたわけじゃないんだけど、まぁ思い出したっていうか・・」 そうか、やっぱりタケルは全員の記憶を一度は消したんだ。 ギイ一人の記憶を残していたわけじゃないのだとしたら、やっぱりギイの記憶力というのは人並外れているということなのか。いや記憶力というべきなのか再生力というべきなのか。 いずれにしても、やっぱりギイは只者ではない。 「怒ってるか?何も言わなかったこと」 ううん、とぼくは首を振った。 怒ることなんてない。だって、ぼくはすべてを綺麗さっぱり忘れていたのだから。もしギイが実はあれは、と教えてくれたとしても、きっと信じられなかっただろう。 それに、タケルが記憶を消したのはぼくだけじゃない。覚えているギイの方が特別だったに違いない。 「ギイ、もしかして、タケルはぼくたちの記憶を消しただけじゃなくて、忘れていた人に記憶を思い出させたりしたのかな」 「・・・ああ、そうだな」 「蝶子さんは、全部知ってしまった?」 「そうだよ」 彼女の記憶を修正してくれ。 あの山小屋でギイはタケルにそう頼んだ。ぼくにはそれがひどく残酷なことのように思えて賛成はできなかった。知らないままでいることと、辛い事実を知ることと、どちらが本当に正しいことなのか、ぼくには選べなかった。 「どんなに辛いことでも、オレはやっぱり知るべきだと思う。でなければ優志があまりに可哀想だ。今でもあれでよかったと思ってる。タケルが記憶を戻したおかげで、優志の遺骨はちゃんと埋葬されたし、安らかに眠ることができる。オレや託生が会いにいくこともできる」 確かにギイの言う通りだと思う。 だけどすべてを知ってしまった蝶子さんのことを思うとやっぱり胸が痛くなる。 もう一度あの時に戻ったとしても、きっとぼくには選べない。 「やっぱり忘れたままの方が良かった?」 そんなぼくの思いに気づいたかのようにギイに問われて考える。 もしタケルが記憶を戻さなかったら、ぼくは真実を忘れたままだった。 それは柊くんのことだけじゃなくて、遭難しかけたあの時のこともだ。 「ううん、思い出した方が良かったよ、ギイ」 「本当に?」 「うん。柊くんのことは辛い真実だけど、だからって忘れたままの方が良かったとは思わない。タケルが言っていたように、これからはギイと一緒に柊くんのことを思い出して話をすることができる。それにあの時のことを思い出してよかったこともある。ぼくが遭難しかけた時、ギイが助けにきてくれたよね」 「・・・ああ」 「あの時、何も見えない雪山の中で、寒くて、もう死んじゃうのかなって思ったあの時、ギイの声が聞こえた気がして、ぼくは大丈夫だって思えたんだ。思い出したよ。全部。あの時の不安な気持ちも、ギイにもう一度会えた時の嬉しさも、全部全部思い出した」 すべてを思い出した今となっては、どうして忘れられていたんだろうと思う。 ぼくは胸の奥がぎゅうっと締め付けられるように苦しくなって、思わずギイに抱きついてしまった。 「託生?」 「約束したよね。ギイより先には死なないって」 「ああ」 「忘れててごめん」 ぼくが死にかけたことで、ギイは責任を感じてすごく傷ついていた。 ギイのせいじゃないのに。 だから何の根拠もない約束でも、しないわけにはいかなかった。 昼間、リフトの上でも同じこと言ったけど、ギイにとってあれはすごく重要な言葉だったのだ。 そうとは思わず、ぼくは気軽に口にしたけれど。 「もう思い出したから大丈夫。ギイより先には死なないし、これからも世界最強の恋人でいるよ」 「はは」 抱きつく力よりもさらに強い力で抱き返されて、ぼくはギイの胸元に頬をくっつけた。 温かくて、生きていることを実感できる。 いつかぼくたちも、どちらかが先にこの世を去ることになるのだろうけど、だけど、その時が来るまではこうしてギイがそばにいてくれる。 それはすごいことだなと今さらのように思う。 好きになった人がこうしてそばにいてくれるのは本当に奇跡のようなことなのだ。 ギイはスーパーマンじゃないけれど、だけどぼくにとってはそれと同じくらい心強い味方で、誰よりも素敵な恋人だ。 「大好きだよ、ギイ」 「オレなんて愛しちゃってるぜ」 「知ってるよ」 「それは良かった」 おどけるギイが愛しかった。 そしてもう一度思った。 やっぱりギイより先には死ねない。そんなことになったらギイがどれほど悲しむか想像ができるから。 ぼくは何としても長生きをして、ギイを悲しませないようにしなくてはいけないのだ。 短いバカンスはあっという間に終わり、ぼくたちは北海道の空港で時間を潰していた。 来週末に章三と会うことになっているので、どうせなら北海道土産を渡そうと思って、あれこれと店を覗いて回る。 「あー、やっぱり身体中が痛い。筋肉痛になるのなんて何年ぶりだろう」 「スノボも普段使わない筋肉使うからな。まぁ、すぐ戻るよ。まだ若いんだから」 一つ年を取ったばかりのぼくに何という言い草。 ニヤニヤと笑うギイの横腹を肘で突いて黙らせる。 「だけど楽しかった」 「そうだな」 「最高の誕生日プレゼントだったよ、ギイ。ありがとう」 「何だか思いもしないサプライズもあったけどな」 「それも含めて、とてもいい誕生日を過ごせたよ」 忘れていたギイとの思い出を一つ増やすことができたのだから、それはとても嬉しいことだ。 「また来シーズンもスノボチャレンジするか」 「うん。いいね」 毎年は無理かもしれないけれど、またこうしてこの地で、もう今は会えない友人の元へと訪れることができるといいなと思う。 「やっぱり北海道といえば、白い恋人かバターサンドか・・」 「託生、あの章三が菓子をそれほど喜ぶとは思えない。チーズとか酒のつまみになるものにしよう」 「あー、そっか。でも奈美子ちゃんは甘いモノ好きだろうから一つくらい買っておこう」 自分たちのお土産もそこそこに章三への土産で盛り上がった。 30歳を目前にしたぼくの誕生日はギイのおかげでやっぱり素晴らしいものになった。 思い出が増えるのは素晴らしいことだ。 それがギイと一緒にものならさらに素敵なものになる。 すぐ隣で真剣な表情でチーズを選んでいるギイを見て、ぼくは自然と笑みが零れた。 |