人間接触嫌悪症だなんて、勝手に命名して悪かったかなと少し後悔をしていた。
託生が露骨に人との接触を避けていることに気づいたのは、同じクラスで過ごすようになってすぐのことだった。 そしてそれが原因で周囲の人間とトラブルを起こし、さらに孤立をしていくという悪循環を断ち切りたくて、託生の態度に腹を立てている級友たちに、人間接触嫌悪症だろうとつい言ってしまった。 それで少しでも理解してもらえて、託生が楽になるのならと思ってのことだったけれど、何となく逆効果だったようにも思える。 自分とは異質な存在をなるべく排除しようとするのは人として本能的なものだと思うので仕方ないとしても、託生の場合は自ら進んで孤立しようとしている節があって、何ともやりにくくて仕方がない。 どうすれば差し出した手を取ってくれるのか。 「難問だ」 「何が」 オレのつぶやきを拾って、同室の章三が読んでいた雑誌から顔を上げた。 祠堂に入学して、寮の同室者となった章三は、バランス感覚が抜群で一緒にいてもぜんぜん疲れない、オレにしてみれば奇跡的なくらいに相性の合う相手だった。 寮は二人部屋なので、合わない相手だとやっぱり気疲れもするものだ。 もっとも祠堂は「奇跡の部屋割り」と言われるほど同室者の組み合わせはいいというから、そのおかげなのかもしれない。 託生の同室者は片倉利久という背の高い男だった。 優しくて人のいい片倉にだけは、託生も少し気を許しているように見える。 できればオレが同室になりたかったけれど、たぶんオレじゃダメだろうなとも思う。 片倉みたいな距離感で託生と接することなんてできそうにないし、そばにいれば絶対に触れたくなる。 「難しい」 「だから何が」 章三が焦れたように雑誌を脇へと置いた。 「さっきから何の話をしてるんだ、ギイ」 「いや、何ていうか、人間関係?」 「お前が?」 「オレだって人間関係に悩むこともある」 章三は胡散臭そうにオレを眺めてから、うーんと低く唸った。 「まぁ自由の国アメリカから日本のこんな山奥の男子寮へとやってきたんだからな。人種が違うだけでもやっぱり苦労はするか。さすがのギイでもなぁ」 少しばかり人間関係の意味は違うが、事実を説明することもできないので、オレは曖昧にうなづいておいた。 入学してから半年と少し。 そろそろ新しい生活に慣れてくると、遠慮容赦がなくなって揉め事も出てきたりしている。 託生はその筆頭だ。 寮にはそれぞれの階に階段長というよき相談役となる先輩がいて、たいていのことはその階段長が間に入ってその場をおさめてくれるし、密かに悩み相談をしてくれたりしている。 生徒の自主性に任せるという意味ではいいシステムだと思う。 たった二つしか違わなくても、やはり先輩ともなると頼りがいもある。 (託生も実は階段長の先輩に相談したりしてるのかな) いや、それはないかと思い直す。 たった半年の集団生活で、すでにすっかり浮いた存在になっている託生だが、本人はそれを気にしている風もない。 むしろ放っておいて欲しいという感じが潔くさえも見える。 悩み事を先輩に話すだなんてことはあり得ないだろう。 「人間関係といえばさ、ギイ、葉山に人間接触嫌悪症だなんてぴったりな病名をつけたって?」 「病名ってわけじゃないんだけどな」 ややうんざり気味に反論してみると、章三はふうんとそれ以上は突っ込んでこなかった。 この絶妙なまでに空気を読む能力というのも章三のすごいところだ。 病的なまでに人との接触が嫌いな葉山託生。 だけど、触れられるのが嫌だというだけで、人間そのものが嫌いなわけじゃないような気もする。 だからこその命名だったのだが。 「なぁ、章三って、彼女いるのか?」 「はぁ?」 章三が素っ頓狂な声を上げる。 そんなおかしなことを聞いただろうか。 ああ、今までそんな話したことなかったからなのか? アメリカじゃこの歳でガールフレンドの一人もいないなんて考えられないのだけれど、日本じゃそうじゃないのだろうか。 「もしくは好きな人とか」 「何だよ、ギイ。そういう話振ってくるなんて珍しい」 苦笑しながらも、章三は答える様子を見せない。 これはいないか、もしくはよほど大切にしているので簡単には口を割らないのか。 章三の性格からして、いないならいないと言いそうなので、後者が正解ってところだろう。 「好きな子がいるのに、よくこんな山奥の男子寮になんて入る気になったな」 「誰が好きな相手がいるなんて言った。ギイこそ、好きな子くらいいたんだろ?それでよくアメリカから日本へやってきたな」 (いや、だからこそ日本までやってきたんだけどな) ずっと託生の笑顔が忘れられなくて、あこがれて、どうしても会いたくて。 相当無理をして日本に留学してきた。 おまけに期限つきだ。 なのに、こんな調子じゃ親しくなる前に強制送還されそうだ。 「もしかして遠距離恋愛で悩んでるのか、ギイ?」 「遠距離かぁ、まぁ離れてるよな・・・もうちょっと近づけないかなぁ」 「それはアメリカに戻るまでは無理だろ」 「いや、祠堂にいる間にさ」 「・・・・」 うっかりこぼしてしまった一言に、一瞬章三の表情が強張った。 あ、そういえばこいつ、筋金入りのストレートだった。 いや、オレだって別にそっちの人間じゃないから、託生以外の同性相手にどうこうしたいとかは全くない。 (そうだよな、やっぱり託生とどうこうしたいんだよな、オレ) 友達じゃダメなんだ。 片倉みたいな親友でもダメなんだ。 託生の特別になりたくて、だけどどうすればそうなれるのかが分からなくて困ってる。 人間接触嫌悪症の託生に、いったいどうすれば触れることができるんだろう。 と思っていたが、そのチャンスは突然やってきた。 本を読むのが好きらしい託生は、放課後、よく図書室に姿を見せる。 部活をやっているわけでもなく、友人たちと遊ぶわけでもなく、たいていは一人静かに時間を過ごしている。 それを知ってから、オレは託生が図書室にいる時を狙って足を運ぶようになっていた。 その日も託生が図書室に行くと知り、オレは諸々の雑用を済ませたあとに一人図書室に向かった。 窓際の席に一人座り、託生は真剣な顔をして本を読んでいた。 司書の中山女史に軽く会釈して、オレは託生に気づかれないように書架の間へと滑り込んだ。 お目当ての本を探すふりをして、託生をそっと盗み見る。 託生はオレがやってきたことなど全く気付いていない。 薄い肩のラインや首筋、さらさらとした黒髪、どれも見ていて飽きない。 とはいうものの、さすがに凝視していてはおかしな人だと思われるだろう。 オレは適当な一冊を手にとると、託生を後ろから眺めることのできる席を陣取った。 放課後の図書室はよほどの本好きしか訪れないようで、閑散としている。 おかげでいつも何だかんだと声をかけられて辟易することもなく、オレもそれなりに読書を楽しむことができた。 時折託生の様子を伺い、また本に視線を移す。 静かでゆっくりと時間が流れ、気づくと託生の姿がなかった。 (帰ったのか?) 壁際の時計を見ると、そろそろ閉館になろうかという時刻だ。 どうやら本を読むのに夢中になっていて、託生がいつ席を立ったのか気づかなったようだ。 オレとしかことがしくじった。 上手くいけば一緒に帰れたかもしれないのに。 がっくりと肩を落としながら、手にした本を棚に戻すために立ち上がった。 書架の通路に入ったとたん、ぎょっとして足を止めた。 一番奥で託生が壁にもたれて座り込んでいたのだ。 一瞬倒れたのかと思って声を上げそうになったが、よくよく見るとどうやら眠り込んでいるようだった。 「寝るか?普通」 オレが想像するに、本を探しにきて、面白そうな本を見つけ、その場で読みふけり、そのまま眠くなって眠ってしまった、というところだろうか。 オレは起こさないようにそっと近づき、その場にしゃがみこんで託生の顔を覗き込んだ。 すやすやと眠る託生の表情はあどけなくて、いつもきつい眼差しで級友たちを睨みつけている面影はない。 くったりと力が抜けた腕が投げ出されている。 オレは少しの躊躇のあと、託生へと手を伸ばした。 その手に触れて、そのまま指を絡ませるようにして重ねた。 さらりとした掌。短く切りそろえられた爪を見て、バイオリンを弾いていたころの名残だろうかと思った。 託生が起きないのをいいことに、そのまま深く指を絡ませてみる。 世間で言うところの恋人繋ぎに、知らずと笑みがこぼれた。 (いつか、託生の方からこんな風に手をつないでくれたらいいのにな) 今のままでは決して叶うことがないであろう願いに胸が熱くなる。 思わずきゅっと力が入り、とたんにぴくりと託生の指が動いた。 慌てて手を引いて、託生が怯えない距離まで離れた。 ゆっくりと瞼が開いて、託生がぼんやりとオレを見つめる。 いつもなら絶対に視線を合わせたりしないのに、今は寝ぼけているせいか、真っすぐにオレを見つめている。 やがてどういう状況か分かってきたようで、はっとしたように目を見開いた。 「おはよう、た・・葉山」 うっかりいつも胸の中で読んでいる名前で呼びかけそうになって言い直す。 託生はきょろきょろと視線を巡らせ、自分がここで眠り込んでいたことに気づいたようで、ぱっと頬を染めた。 そんな託生を見るのは初めて、オレの方が慌ててしまった。 「なに・・・、何で、崎くんが・・・」 「こんなところで眠ってたら風邪ひくぞ。もう図書室も閉まる時間だよ」 「ああ・・」 託生は腕時計で時間を確かめ、困ったようにさらに頬を赤くした。 可愛いなって言ってからかいたい衝動にかられたが、言えば壮絶な拒否反応を食らうことは分かっているのでぐっと我慢する。 オレは先に立ち上がると、たった今まで繋いでいた手をぎゅっと握り締めた。 託生の温もりがまだ残っていて、胸の奥が熱くなる。 そっと託生へと視線を戻すと、託生も同じように手を握り締めていた。 何だか不思議そうな顔をして、手に残るオレの温もりを確かめている。 まるでオレ自身を大事に思ってくれているみたいに見えて嬉しくなる。 (いつか、ちゃんと手を繋ぎたいな) 一緒に寮へ戻ってくれるとは思っていないが、オレは行くこうと声をかけて歩き出す。 託生は一瞬何か言いたげにオレを見て、けれど何か言うわけでもなくオレのあとをついてきた。 人一人分の距離がもどかしい。 あの手を繋げたらいいのにな。 |