そして二度目の春を待つ



矢倉×八津のお話です。今回オリキャラ出てきますので、OKな人はどうぞです。





どうしても家を出ないといけないということではなかった。
三年間寮生活をしていたから、母親は戻ってきて欲しいと控えめに口にしていたし、入学した大学には無理すれば通えないことはなかった。
八津自身も卒業したら実家に戻るつもりでいたのだ。
それでも何とか理由をつけて家を出たのは、矢倉と会う時間を少しでも作りたいと思ったからだ。
自分でも「そんな理由で」と呆れないわけではなかったけれど、実家にいてはどうしたって会うチャンスが少なくなる。
今でも母親は八津と矢倉が親しくしているとは思っていない。
普通の友達ですらないと思っているはずだ。
祠堂に入学してすぐに、母親が矢倉に息子に近づくなと言い、矢倉は分かりましたと答えた。
そのせいでお互いの気持ちを押し殺したまま、2年を過ごした。
3年になり、誤解が解けて恋人同士になれたものの、そのことを母親はまだ知らない。
自分の知らないところで矢倉に対して勝手なことをした母に対して、不満や怒りを感じないわけではなかったけれど、かといて、それを表立ってぶつけるようなこともできなかった。
母が苦労してきたのは知っているし、もし矢倉とのことを告げればやはりひどく傷つくだろうと思ったからだ。
家を出たいと思ったのは、そんな母と離れたいと思ったことも理由の一つでもあった。
昔は母のことを守ってやりたいと思っていたけれど、今は矢倉の方が大切だからできるだけ一緒に過ごせる時間を持ちたいと思ってしまう。
家を出れば、少なくとも母の目を気にせずに矢倉と会うことはできる。
一方の矢倉はどう考えても自宅からは通うことのできない大学に入学したので、誰に気兼ねすることなく、一人暮らしを始めた。
できれば近くに住みたいと思ったけれど、通う大学が違うことと、大学の近くに住まなければ一人暮らしをする理由にはならないので、さすがに毎日すぐに会える場所に住むことはできなかった。
それでも会おうと思えばいつでも会えるという状況は嬉しいものだった。


「それほど遠いってわけでもなかったぜ」
待ち合わせをしたコンビニ前に時間通りにやってきた矢倉は、店先のスペースにバイクを止めると開口一番そう言った。
大学が始まり、ようやく生活リズムができてきた四月の半ば過ぎ、矢倉が初めて八津が一人暮らしをする家に遊びにくることになった。
会うのは久しぶりだったけれど、毎日のように電話やメールでやり取りをしているから、久しぶり感はあまりなかった。
それでも顔を合わせると少しばかり気恥ずかしい気持ちになった。
「バイクで一時間かからないくらいだからなぁ。思ってたより近いな」
「それって遠いといえば遠いんじゃない?」
「そうか?飛ばせばもっと時間短縮できるけどな」
「お願いだから安全運転してくれよ」
「分かってるよ」
春休みの間に矢倉は中型バイクの免許を取り、入学祝いに中古のバイクを買ってもらったのだ。
そして、
「これならいつでも会いに来られるだろ」
と、どこか得意気に笑った。
そのバイクで、今日はここまで会いにきてくれたのだ。
コンビニで飲み物などをいくつか買いこみ、そのままバイクを押しながら、八津が住む学生向けのハイツへとのんびり歩いた。
「この辺り静かだな」
「うん、学生が多いよ。駅からはちょっと遠いけど、大学には近いから便利かな。あ、あそこだよ」
八津が住むハイツは3階建ての合計6部屋の小さなものだった。学生向けだというから、恐らく入居者は全員同じ大学生だろう。
駐輪場の端にバイクを置いて、3階の八津の部屋へと向かった。
「どうぞ」
「お邪魔しまーす」
中に入ると、矢倉はぐるりと部屋を一瞥した。
もともと荷物も少なく、寮生活をしていたおかげで普段からマメに片付ける習慣がついていたので、部屋は男子大学生が住んでいるとは思えないほど綺麗なものだった。
それでも、自分の部屋を見られるというのは、どうにも居心地が悪い。
祠堂にいた時だってお互いの部屋は行き来していたというのに。
「けっこう広いな」
「そうかな。まぁ祠堂の寮に比べたら広く感じるよね。矢倉の部屋もこれくらい?」
「そうだな。確かにあの寮に比べたら広いよな」
2人一部屋で、3年間を過ごした。
最初はこんな狭い所で生活できるのだろうか、などと思ったけれど、実際に生活してみると、それほど不自由もなく同室者に恵まれたおかげもあって、3年間嫌な思いをせずに過ごすことができた。
たぶんこれから先、あんな経験をすることはないだろう。
そう思うといい思い出だなと思う。
「今思えばよくまぁあんな狭いところに2人で暮らしてたよなぁ」
「だけど矢倉は最後の1年はゼロ番だったし、一人部屋だっただろ?俺からすれば贅沢だったと思うけどな」
「贅沢たってなぁ、八津だって知ってるだろ。ゼロ番なんて体のいい談話室だぜ?毎日毎日次から次へと誰かがくだらない相談にやってきて、階段長って立場から追い返すこともできないし」
「それを言うなら4階の吉沢が一番大変だったと思うけどな。4階は1年生ばっかりでほんとに相談者はひっきりなしだっただろ?1階は住人がほとんど3年生だし、深刻な相談はなかっただろうから、気持ちは楽だっただろ?一緒に雑談してるようなものだし」
八津の指摘に、矢倉はバツが悪そうに笑った。
矢倉は同級生たちからも下級生たちからも人気があった。
だから相談なんてただの口実で、実際は1階のゼロ番を訪ねる生徒は矢倉と話がしたかっただけだ。
気軽に矢倉の部屋を訪ねていける友人たちが、本当はすごく羨ましかった。
悔しいから、そんなことは絶対に言わないけれど。
小さなミニキッチンで入れたコーヒーを持って八津が部屋に入り、テーブルの上にマグカップを置いた。
「4人の階段長の中で、矢倉が一番楽させてもらったんじゃないの?」
「手厳しいなぁ。でもまぁ確かにそうかもな。だけど、あの割り振りは正解だったよ。ああ見えて吉沢が一番、人からの相談ごとには向いている」
「うん、何となく分かるよ」
おっとりとしたお人よしの級友の顔を思い浮かべて笑みが零れる。
吉沢は頼りなく見えて、実は一番しっかりしていたのかもしれない。どんなにくだらない相談であっても、親身になってアドバイスをしていたから、入学したばかりで右も左も分からない1年生たちからは本当に頼りにされていた。
そして吉沢が後輩たちの世話を焼くたびに、恋人の高林泉がいつもヤキモチを焼いていた。
「ギイもなぁ、2年までのあいつなら頼れる先輩だったろうけど、3年になってからスタイル変えちまったからなぁ。まぁしょうがないとは言え、チェック組じゃないヤツらには可哀想だったよな。
気軽にゼロ番には行けないっぽかったし」
「うん」
「そういうヤツらがまた4階の吉沢んとこへ行ったりしてたしな」
「はは、やっぱり吉沢が一番大変だったんだ」
2階の野沢のところは2年生の多い階だったから、やっぱり4階へ行く方が気楽だったのだろう。
4階が吉沢じゃなくて矢倉だったら、簡単には遊びに行けなかったかもしれない。
「卒業してまだちょっとしかたってないのに、何だか懐かしいな」
「そうだな。八津、大学はどう?」
「ようやく慣れてきたかな。祠堂にいた時と比べると自由すぎて落ち着かないよ」
「ああ、分かる分かる。大学ってほんと自由だしなぁ」
「矢倉は?楽しい?」
「まぁまぁだな。やっぱり祠堂にいた頃とは違うだろ、いろいろとさ。まだ慣れないっていうか」
「例えば?」
「女の子がいる」
矢倉の言葉に、八津は思わず吹き出した。
そりゃそうだ。祠堂は山奥にある男子校だったのだから、女の子みたいに可愛い高林だって男だった。
それでも街中の男子校なら通学途中で女の子を目にすることもあっただろうが、何しろ周りには何もないのだ。
敷地内の寮と学校しか移動範囲がないのだから知り合う機会だってない。
休日に下山する時くらいに見かける程度だ。
「そこらに普通に女の子がいるって中学以来だからさ、まだちょっと慣れないし、変な感じだな」
「それは俺も同じだよ」
腕組みをして、うーんと考えるように空を眺めていた矢倉が、やがてぽつりと言った。
「可愛い子とか、綺麗な子とか、話してて楽しい子もけっこういるんだよな」
「うん」
「なのに、やっぱり八津が一番好きだなって思うんだよ」
「・・・・」
さらっと何でもないことのように告げられて、飲みかけのコーヒーを吹きそうになった。
真っ赤になる八津を見て、矢倉がニヤニヤと笑う。
「おかしなこと言うなよ、矢倉」
「何がおかしなことだよ。ほら、こっち来いよ」
腕をつかまれて引き寄せられる。
ベッドを背にフローリングに座る矢倉のすぐそばに座り直し、何だか急に気恥ずかしくなって八津は俯いた。
「何だよ、そんな嫌そうな顔すんなよ」
「してないよ」
「じゃ何で目逸らすんだよ?」
「だって」
「だって?」
「・・・・久しぶりだから」
小さく言うと、矢倉はうんとうなづいた。
そしてすごい早業でちゅっとキスをした。
たったそれだけのことなのに、一気に体温が上がったような気がして、ドキドキしてしまう。
「せっかく二人とも家を出たっていうのに、もうちょっと会いたいよな。八津、俺に会いたかった?」
「当たり前だろ」
「お、やけに素直」
「うるさいよ」
嬉しそうに言う矢倉の肩をどんと押し返す。
けれど長い腕で抱き寄せられた。文句を言おうとした口を開いたと同時に、やや強引に口づけられて喉の奥で小さく呻いた。
「んっ・・・」
優しく舌を絡められ、咥内を味わうように舐め上げられるとそれだけで頭の中がぼうっと熱くなる。
「あー、夜まで待てない」
唇を離すと、矢倉が八津の肩先に額を押し当てて低く唸った。
それは自分だって同じだ、と八津は思った。
思いが通じ合って1年を祠堂で過ごした。受験生で、寮暮らしで、いろいろと制約のある中で、二人で大事に恋心を育ててきた。
卒業して、ようやく自由に会えるようになったのだ。
できれば毎日だって会いたいし、抱き合いたいと思う。
口にはできないけれど、八津だってそんな風に思っているのだ。
矢倉はもう一度八津に軽くキスすると、あっさりと抱いていた肩を離した。
「でもまぁ昼間っからエロいことしてるのも何だし、借りてきたDVD見ようぜ。八津の大好きなおどろおどろしいヤツ」
と言って、鞄の中からレンタルショップの袋を取り出した。
「俺じゃなくて矢倉が好きなんだろ」
「だって、おどろおどろしいヤツって時々ベタすぎて笑えないか?俺、そういうのが好きなんだよな」
「変なの」
「まぁ、エロいDVDを借りないあたり、俺たちって真面目だと思わねぇ?」
エロいDVD?
八津は想像もしていなかったので首を傾げた。
「・・・矢倉、そういうの見たいんだ?」
「まぁたまには・・・え、もしかして八津ってそういうの見たりしない?」
ぎょっとしたように矢倉が八津を見る。
「考えてみれば見たことない・・かも」
そういうのが見たいと思う年頃である三年間、一切その手のものからは遠ざけられていた。(もちろんそういう雑誌はこっそりと回ってきたりもしたが)だいたい見ようと思っても、テレビが部屋にないのだからどうしようもない。
ないならないで、何とかなってしまっていたのだ。
それはそれで男として問題なのではないだろうか、と少しばかり不安にもなるのだけれど。
「まぁ八津がけっこう見てるなんて言ってもびっくりするけどな」
「何だよそれ」
おかしなイメージもたれてるなぁ、と八津が苦笑する。
別に聖人君子ぶるつもりもないし、そういうのを見ている友人たちのことを馬鹿にしたりもしない。
そういう欲求は当然のものだとも思っている。
ただ単に機会がなかったというだけだ。
「八津、こっちきて」
「?」
矢倉の足の間に座らされて、ぴったりと背後から密着された。
逃げられない形で腹部に腕を回される。突然の恋人座りに慌ててしまう。
「ちょっと、矢倉、くっつきすぎ!」
「当然。あー幸せだなー」
「・・・・」
お気楽な矢倉の声色に、八津はゆっくりと体の力を抜き、遠慮がちに矢倉にもたれかかった。
何だこの家デートの典型は、とか。
一応自分だって男なんだから、こんな風に甘やかされたいわけじゃないんだけど、とか。
いろいろと思うところはあるものの、こんな風に触れ合っていると安心するのも事実だから、素直に身を任せることにした。
温かくてほっとする。
目の前で始まった何とも不気味なDVDを眺めながら、久しぶりの休日の穏やかな時間に、幸せだなぁとじわりと胸が温かくなった。
やがてテレビ画面にベタすぎるほどベタなイントロが流れ出す。
これは絶対コメディ系のホラーだな、と思わず笑いが漏れる。
同じことを思ったのか、矢倉も背後で笑った。
「なぁ八津」
「なに?」
「今度はホラーじゃなくてエロいのにしようぜ。2人でそういうの見てみたい」
「・・・・何かやだ」
「何で?」
「何となく」
変なの、と矢倉が首を傾げる。
変なのはそっちだろ、と八津も同じように首を傾げた。



大きな笑い声に目を開けた。
テレビはおどろおどろしいDVDだったはずなのに、今はお気楽なお笑い番組が流れている。
「あれ・・・・俺、寝てた?」
八津がぼんやりとつぶやくと、背後で矢倉がおう、と笑った。
「ぐーっすりと。始まってすぐ寝ちまうんだからなー、俺一人で気持ち悪い映像見てたんだぞ」
「いいじゃん、矢倉見たかったんだろ?」
掠れた声で笑って言うと、矢倉がこのヤローと背後から頬を引っ張ってきた。
「矢倉、今度は心温まるような映画にしよう。そしたらきっと眠くならないから」
「は?お前、怖い映画だと眠くなるのか?」
「うん、防衛本能なのかな?」
信じられない、と矢倉が呆れたようにぎゅぎゅうと八津を抱きしめた。
せっかく久しぶりに二人きりだったというのに、眠り込んでしまうとは不覚だった。けれど、そういうことを何の気兼ねもなくできる相手なのだと思うと、それはそれでちょっと嬉しくもなる。
「矢倉、お腹空かない?近くに美味しいラーメン屋発見したんだ」
「お、いいな。俺、豚骨がいいなー」
「そこの豚骨、めっちゃ濃いよ」
「望むところだ」
じゃあ早速行こうと財布をポケットに押し込む。
鍵を片手に玄関を出ると、ちょうど階段を上がってきた同じハイツの住人と出くわした。
「こんばんわ」
隣の住人だったので、八津が声をかける。
声をかけられた隣人は顔を上げ、八津に笑顔を向けた。そしてその背後にいる矢倉を見るなり、その笑顔がぴたりと固まった。
「・・・矢倉?」
名前を呼ばれて、矢倉も驚いたように彼を凝視する。
「橘?え、何でお前ここにいるんだよ」
びっくりした、と矢倉が彼に歩み寄る。
どうやら隣人は橘という名らしく、そして矢倉の知り合いのようだった。
「ほんとに矢倉か?何だよ、お前こそ、どうしてここにいるんだよ?大学こっちだっけ?」
橘もまた満面の笑顔で矢倉の肩を叩く。
「いや、今日は友達に会いにきてて・・・」
「友達って、もしかしてお隣さんが矢倉の友達?」
すごい偶然だなぁと橘が八津に笑いかける。
隣同士だといってもたまに顔を見て挨拶をする程度で、名前も知らなければ話したことすらなかった。
かろうじて、同じ大学なんだろうなと思うくらいだった。
けれど世間って狭いものだなぁと感心してしまう。
「あ、俺、橘晃一。よろしく。矢倉とは同じ中学だったんだ」
「八津宏海です。矢倉とは高校が同じで」
よろしくな、と橘が軽く手を上げる。
こうして改めて見てみると、橘はなかなかの男前で、どこか矢倉と同じような雰囲気をしていた。
明るくて人懐こい感じ。飄々としていて、真面目なのか不真面目なのか付き合ってみないと分からないようなそんなタイプに見えた。
やっぱり類は友を呼ぶのかと妙に納得してしまう。
矢倉は祠堂にいた時から友人が多かったけれど、皆ちょっと掴みどころのないタイプが多かったように思う。自分とは正反対のタイプばかりだな、と今さらのように気がついて、自分が矢倉に惹かれたのは当然のこととして、どうして矢倉が自分を好きになったのかと、八津は不思議に思った。
ふと気づくと、橘がじっと八津のことを見ていた。
目が合うとにっこりと笑う。
どうやら仲良くなれそうな感じがして、ほっとした。
これから4年間お隣さんになるのだとしたら、仲良くしておいて損はないはずだ。
「矢倉、もう帰るのか?」
「いや、これから飯」
「じゃ帰る前にちょっと俺ん家にも寄ってけよ。久しぶりだし話もしたいし」
「あー」
帰るどころか、今日は矢倉は八津のところに泊まることになっている。
別に友達のところに泊まることなんてよくあることだけれど、何しろただの友達じゃないので、一瞬矢倉が言い淀んだ。
八津は矢倉が自分に遠慮してるんじゃないかと思い、
「あの、もしよかったら一緒にご飯どう?」
と、二人に提案をしてみた。
久しぶりに会った友達と話をしたいだろうし、
中途半端に断るよりも一緒にご飯でもしながら近況報告をしたらどうだろうと思ってのことだった。
しかし矢倉は何か言いたそうに八津を見た。
一方の橘は嬉しそうにぜひと言ってきた。
「駅前のラーメン屋に行こうと思ってたんだけど、いいかな」
「もしかして丸源?あそこ美味いよな」
「橘くんも行ったことあるんだ」
「あるある」
じゃあそういうことで、と橘が嬉々として今あがってきたばかりの階段をまた降り始める。
それに続こうとした八津の腕を矢倉が掴んで、橘に聞こえないような小声で言った。
「おい、いいのか?」
「何が?会うの久しぶりなんだろ?」
「そりゃそうだが」
「それにしてもすごい偶然だよね。矢倉の友達がお隣さんだなんて」
「・・・・」
何だか複雑そうな表情を見せる矢倉に、急に不安になった。
「なに、もしかして仲良くなかったとか?」
そんな風には見えなかったけれど、もしあまり気の合わない友達だったのなら、余計なことをしてしまったことになる。
矢倉はいや、と肩をすくめる。
「どちらかと言えば仲は良くてよくつるんでたヤツなんだけどさ・・・」
「じゃ問題ないだろ?」
「まぁそりゃそうだけどさ」
歯切れの悪い矢倉の様子に八津は首を傾げる。
もしかしてせっかく二人きりだったのに、とかそういう乙女ちっくなことを思っているのだろうか?
まさかなぁとも思う。
矢倉は冗談めかしたヤキモチを焼いたりするけれど、友達と一緒の時にはそういう素振りは見せない男だ。
矢倉は少し考えたあと、まぁいいかとうなづいた。
「久しぶりに会うには違いないし。美味いラーメンは食いたいし」
明るく言ってぽんぽんと八津の肩を叩いた。
前を行く橘がそんな二人を見て、にっこりと笑った。


駅前にあるラーメン屋はほどよく混んでいたけれど、ちょうど出て行く人と入れ替わりで奥の座敷に通されたので、ゆっくりと話をすることができた。
このあたりのハイツに住んでいる学生なら、たいがい同じ大学だろうからもしかしたらと思っていたが、聞くと、やはり橘も八津が通う大学に入学していた。学部は違ったけれどいくつか教養科目が同じだった。
「じゃあどこかで顔合わせてたのかなぁ。まぁあれだけ生徒がいたらすれ違ってても分からないだろうけどな」
「そうだね。橘くんは、中学が矢倉と一緒だったってことは、家も近かったの?」
「小学校から一緒だったから、割と近いよな?」
胡坐をかいて後ろ手をついた橘が正面に座る矢倉に視線を向ける。
「歩いて10分くらいか?よく一緒に遊んだよなぁ」
「そうそう。矢倉ってしょーもない遊びばっか思いつくからさ、付き合うの大変だったぜ」
「よく言うぜ。俺が発案、橘がアレンジでますます変な遊びになってったんだろうが」
苦笑交じりに矢倉が訂正する。どうやら二人して相当な悪ガキだったことは想像に難くなく、祠堂以前の矢倉のことなど何も知らないという事実に、八津は今さらながらにショックを受けていた。
矢倉の小学校時代や、中学時代はいったいどんな感じだったのだろうか。
その頃に出会っていたら、友達として仲良くなれたのだろうか。
きっと友達としては好きになったに違いない。
だけど、それ以上の特別な意味での好きになっていただろうか。

(たぶん、好きになってただろうな)

何となく、矢倉は昔から今の矢倉で、何も変わってないんだろうなと思うのだ。
そのあとも懐かしい昔話に花が咲き、八津は聞き手に回ることになったが、自分の知らない矢倉のことを知ることができるのは楽しかった。
「はい、お待ち〜」
食欲をそそる匂いと共に豚骨ラーメンが運ばれてきた。とたんに空腹感が増し、しばし三人は黙々とラーメンを食べることに集中した。
「美味いな」
「だろ?」
「あーやっぱり豚骨サイコー」
「やっぱ餃子も追加」
「俺も、八津はどうする?」
「あー、俺はいいや」
いったいどれだけ食べるつもりなんだろうか、と八津はがつがつと食べ続ける二人を見てある意味感心してしまった。自分だって職が細い方ではないけれど、二人の食べっぷりを見てるとそれだけでお腹がいっぱいになる。
そういえばあの御曹司も底なしだったな、とふと思い出して笑みが零れた。
屋上でお弁当を持ち寄っていたことさえ遠い昔のことのように思える。
ギイは今頃どこで何をしているのだろうか。
いつかまた、あんな風にみんなで会える日が来るのだろうか。
「ところで、矢倉と八津くんって、高校の時に仲良くしてたわけ?わざわざ矢倉がここまで遊びに来るなんて、俺けっこうびっくりしたんだけど」
ラーメンを平らげ、餃子が来るまでの間、橘が興味津々といった感じで聞いてきた。
「何だっけ。矢倉が進学したのって、全寮制の男子校だったよな。もしかして寮の部屋が同じだったとか?」
「いや、部屋は一度も同じにはならなかったな」
「へぇ、じゃあクラスが同じで仲良くなったとか?」
「何だよ、橘。どうでもいいだろ、俺と八津が仲良かったら何かおかしいのかよ」
なおも突っ込んでくる立場を牽制するように、矢倉がやんわりと話を遮る。
「そんなことないけどさ、何か矢倉がツルむ友達とはちょっと雰囲気が違ったからさ。八津くんって、めちゃくちゃ
育ちが良さそうで上品な感じがする」
「おい、それじゃ俺が育ちが悪くて下品みたいじゃないか」
矢倉の突っ込みに橘が声を上げて笑った。
別に育ちがいいわけではなかったが、祠堂はそれなりに裕福な家な家の子が多かったのは事実だ。
たぶん矢倉もそれなりの家で育っているはずだし。ということは、もしかしたら橘もだろうか?
何にしろ、自分と矢倉が一緒にいることが不思議だと言われれば、少しばかり寂しくもなる。
そんなに自分たちは合わないように見えるのだろうか。
「矢倉の友達ってどういうタイプが多かったの?」
「おい、八津」
いいだろ別に、と八津が笑う。
んー、と橘が少し考えてから口を開いた。
「そうだなぁ、優等生か悪ガキタイプかって言ったら、間違いなく悪ガキタイプが多かったかな。勉強はできるんだけど間違っても優等生タイプじゃない。といっても不良とかそういうんでもない。まぁ類は友を呼ぶっていうけど、矢倉だってそんな感じだから、似たような連中が集まってたよな。みんな仲良かったし、てっきり矢倉もみんなと一緒に市内の進学校に行くんだろうって思ってたのに、まさかあんな山奥の男子校に行くとは、誰も思わなかったもんな」
「だろうなぁ」
「てっきり興味本位で受験しただけだと思ってたら、受験終わったら、絶対に祠堂に行くって断言してさ。いったい何があったんだってしばらく噂になってたもんな」
橘が不思議そうに首を傾げる。
矢倉はちらっと八津を見て、どこか照れくさそうな表情を見せた。
受験当日、八津と出会って、必ず祠堂に一緒に合格しようと話をしていたことを思い出した。
そう思うと、八津までちょっと照れくさくなってしまう。
「なぁ八津くん、矢倉って高校の時はどんな感じだった?やっぱり悪かった?」
「何だよ、やっぱりって」
うんざりしたように矢倉が肩を落とす。
そんな矢倉に小さく笑って、八津はほんの少し前までの高校時代のことを思い出しながら言葉を選んだ。
「矢倉は・・・別に悪くはなかったな。下級生からの人気あったし、友達は多かったけど、誰かと変にツルむようなことはなくて、どちらかというと一人でも平気な感じだった。飄々としてるっていうか、あまり物事に執着しないっていうか。けど皆から頼りにされてた。おちゃらけてるくせに、意外と真面目だし。友達思いだし」
祠堂にいた頃、矢倉はずっと周囲からは遊び人だと言われていた。
来るもの拒まずで、告白されればとりあえず付き合ってるなんて噂話を何度も耳にした。
そのたびに胸を痛めて、見ないようにしていた。
だけど本当は違った。
矢倉は八津のために別れを選んで、別れたあともずっと八津のことを大切に思っていてくれた。
八津も、叶わない恋だと分かっているのに諦められなかった。
一時見えなくなっていた矢倉の心は、今ではちゃんと見えている。
もう二度と見失ったりしなくないと思っている。
「真面目で友達思い、か」
橘が八津を見て、そして矢倉を見る。
「いい友達ができたんだな、矢倉」
しみじみと言われて気恥ずかしくなってしまった。
実は友達以上の関係だから、必要以上に矢倉を見る目は惚れた欲目になっているのかもしれない。
気をつけなくては橘に変に思われてしまうだろう。
「まぁ何はともあれ、偶然にもお隣さんだったわけだし、仲良くしような、八津くん」
「うん。よろしく」
同じ大学でお隣さんで。
橘と仲良くなれば矢倉の昔話も聞けるんだな、と思うとちょっと楽しみにもなる。
隣に座る矢倉がどこか憮然とした表情をしていたことには気づかず、八津はそのあとも橘と他愛ない世間話を楽しんだ。
食事を済ませて3人でハイツに戻った。
じゃあまたこっちに来た時には声かけてくれよな、と橘は手を振って自分の部屋へと戻っていった。
八津の部屋に戻ると、矢倉はやれやれというように座り込んだ。
「まさか橘がお隣さんだとはなぁ」
「楽しい人だね。すごく話しやすかったし」
「あー、まぁな、あいつ昔っから誰とでもすぐ仲良くなれるようなヤツだったからな」
うーんと伸びをして、矢倉はそのままフローリングの上に横になった。
「腹が膨れたら眠くなった」
「はは、子供みたいだな。そのまま寝たら風邪ひくよ?寝るなら布団敷くけど」
「なぁ八津」
「何だい」
ちょいちょいと呼ばれて矢倉のそばに座る。
「橘のことなんだけどさ」
「うん」
「めちゃくちゃいいヤツなんだけど、何ていうか・・・気に入った相手には必要以上に懐いてくるとこあるから、気を付けて欲しいんだけどな」
ぼそぼそと八津の顔を見ないようにして矢倉が言う。
いったい何に気をつけろというのだろうか。
しばらく矢倉の言葉の意味を考えていた八津に、やがて焦れたように矢倉が半身を起こした。
「だから、恋人の俺がなかなか会えない場所にいるっていうのに、あいつは八津の隣に住んでてさ。あいつ、絶対八津に興味持ったし、何だかなぁ、すっげ悔しいっていうか何ていうか」
「それ、ヤキモチ妬いてるってこと?」
まさかそんな、と八津はびっくりして矢倉を見つめた。
「ヤキモチっていうか・・・何だかなぁ」
「あのさ、普通はそんな簡単に男を好きになったりしないから。祠堂にいるとそういう感覚忘れがちかもしれないけど。友達として仲良くするくらいいいだろ?矢倉のことも聞きたいし」
「俺のこと?」
「そう。俺と知り合う前の矢倉はどんな感じだったのかなぁって。橘くんから聞く昔の矢倉の話は興味深かった」
「知りたいなら直接俺に聞けばいいだろ。とにかく、橘には気をつけろ」
「気をつけろって・・・矢倉って案外嫉妬深かったんだな。知らなかった」
見当違いなヤキモチでも、そんな風に思ってくれるのは少しくすぐったく感じた。
だけどまったく不要な心配だとも思う。
八津はそっと矢倉の頬に手を置いた。
「大丈夫だよ。そんな心配しなくても大丈夫。離れていても、俺はちゃんと矢倉のことが好きだし、浮気はしない」
「・・・・」
「矢倉の方こそ、なかなか会えないからって・・・」
「するわけないだろ、浮気なんて」
きっぱりと矢倉が言い切る。
ずっと好きで好きで、やっとこうやってそばにいることができるようになったのだ。
他の誰かになんて気持ちが向かうはずもない。
それはお互いが思っていることだから、離れていても不安に思うことはない。
ただ寂しいだけだ。
八津は少し身を屈めると、軽く触れるだけのキスをした。
「案外可愛いところあるんだな、矢倉。驚いた」
「恋する男ってみんな可愛いもんだろ」
「自分で言うなよ」
呆れる八津に、矢倉は悪びれない笑顔を見せた。





大学1回生は単位を取るために毎日朝から夕方まで講義があった。
もっとサークル活動やバイトができると思っていた連中はぶつぶつと文句を言っていたけれど、八津はそのどちらにもさほど興味も需要もなかったので、真面目に勉学に励んでいた。
もともと勉強することは嫌いじゃないので、近頃の大学生とは思えないと周りから言われながらも淡々と自分のするべきことだけをしていた。
華やかな大学生活とは言えないかもしれないが、別にそれに不満を抱くこともない。
新しくできた友達との関係も友好だし、何も問題はないはずだった。
「八津」
とんと肩を叩かれ、振り返ると橘が立っていた。
あの日、矢倉と3人でラーメン屋に行って以来、何かにつけて橘は八津に声をかけてくるようになった。
大学ではいくつか同じ講義を取っていたので、そういう時は同じ席についたり、その続きで一緒に昼を食べたりもした。
何しろ住んでいるところが同じなのだから、自然と顔を合わせる機会も増え、今ではすっかり親しい友人の一人になってしまっている。
「もう今日の講義は終わり?」
「うん。橘も?」
「終わった。何で大学に入ってまで体育の授業があるんだろうな。もう高校時代みたいな体力ないっての」
「はは、大学の体育の授業なんてほとんど遊びみたいなものじゃないか」
「まぁな。テニスて言ってもみんな適当だしなぁ。八津、テニスできんの?」
「できるってほどはできないよ。遊びで何回かやっただけだし」
「今度、休みの日にコート借りて練習しに行かないか?」
「・・・」
おそらく二人きりでということではなく、橘の友達も誘ってグループで行くには違いないが、それでもこの手の誘いを、橘は飽きることなく八津にしてくる。
八津がやんわりと誘いを断ってもまったく気にすることなく、また誘ってくる。

(やけに気に入られちゃったな)

祠堂にいた時も、穏やかで人当たりのいい八津のそばが居心地がいいようで、いつも誰かしらが一緒にいた。別にそれが嫌だということでもないし、一人が好きということでもないので、全然構わない。
けれど、今回はちょっと微妙な感じなのだ。
何しろ、矢倉から橘とは必要以上に親しくしないでほしいと、珍しいお願いをされているのだ。

(まぁ意味のないヤキモチだとは思うんだけどな)

今は週1回会えるか会えないという状態だから、必要以上に心配してしまう気持ちも分からないでもないけれど、だけどそうそう簡単に橘が男の八津に惚れるとは思えない。
友達からの誘いを断り続ける方が不自然だ。
「今度の日曜日だけど、どう?」
「んー、他には誰が行くの?」
「木村と堀岡。ほら、いつも一緒にいるヤツら」
「ああ、うん。分かるよ。そっか。じゃあ行こうかな」
「よしっ」
橘はガッツポーズをして喜んだ。
その子供みたいな喜び方に八津は苦笑してしまう。
「そういえばさ、あれから矢倉と会ってる?」
「あれからは会ってないな。メールはしてるけど」
メールは毎日、電話は一日置きにしている。
会えないという状況はますます恋心を募らせるらしく、お互い冗談めかしてはいるものの、会いたいなぁというのが口癖のようになってきている。
「ほんと、仲いいんだな」
橘は何かを探るように一人ごちる。
それには特に反応することなく、
大学からハイツまでの道のりを肩を並べて歩いた。途中のコンビニで橘が夜ご飯だというお弁当を買い、八津は付き合いでペットボトルを買った。
「八津ってさ、今彼女いるの?」
「え、何だい、突然に」
「いや、クラスの女子たちが八津のこといいなぁって言ってるの聞いたからさ。ちょっと気になって」
「・・・いないよ」
矢倉は彼氏だから、彼女はいない、というのは嘘ではないからいいだろう。
何とも詭弁ではあるが、八津はぎりぎりセーフのはず、と思い込むことにした。
「じゃあさ、矢倉ってさ、高校時代誰かと付き合ってた?」
「え?」
「あいつ、中学ン時もすげぇ女子から人気あったし。男子校とはいえ、女の子と知り合う機会がまったくないってこともないだろ?」
「あーまぁそうかな」
「あいつ、今彼女いるのかな」

(彼女じゃないけど、付き合ってる相手はいるんだよな)

だけどまさかその相手が自分だとは言えない八津である。

(別に悪いことしてるわけじゃないけど、進んで打ち明けることでもないしな)

「そういう橘は?今彼女いるの?」
別段興味があるわけではないけれど、この場合の流れとしてはおかしな質問ではないだろう。
聞かれた橘は軽く肩をすくめた。
「俺?俺はいないよ」
「それも意外だな。橘、女の子にモテそうなのに」
「カッコいいから?」
「自分で言うあたりはどうかと思うけど、でもまぁそうだな、カッコいいと思うよ」
背も高いし、身につけているものもお洒落だし、話も上手だ。
男らしい顔立ちをしているし、客観的に見ても男前の部類に入るだろう。
素直にそう言うと、先に言い出した橘の方が恥ずかしがった。
「で、矢倉は?彼女いるのかなぁ」
「矢倉も、いないと思う」
「ふうん。意外だな」
意外というのはどういう意味だろうか。
中学時代に女の子に人気があった矢倉が誰とも付き合っていないということはそんなにおかしなことなのだろうか。
それとも、矢倉には彼女(もしくは付き合っている相手)がいるんじゃないかと思う何か理由でもあるのだろうか。
もう少し突っ込んで聞くべきか、と思う反面、余計なこと聞いてしまうと関わらないわけにはいかなくなる。それならば下手に突っ込まない方がいい。
このあたり、八津の理性は好奇心に勝つのである。
そんなことを考えながらハイツまで戻ってくると、橘はちょっと寄っていかないかと八津を誘った。
「ありがとう。でも今日はやめとくよ」
「そっか」
隣同志のよしみで、一度だけ橘の部屋で夕食を一緒に食べたことがある。
という話を矢倉にしたら、やけに立腹されてしまった。
さすがにそんなことくらいで怒られるのは納得ができないので、少しばかり喧嘩になったのだ。
だから、今度テニスに行くなんて言えばまた喧嘩になるだろうから、今回のことは黙っておく方がいいだろう。
余計なヤキモチを焼かせるつもりはまったくないのだ。
だけど、矢倉はあんなにヤキモチ妬きだっただろうか、と不思議に思う。
祠堂にいた時はもうちょっと余裕があったように思うのだけれど、付き合い始めたのは3年になってからだし、そういう一面がようやく出てきたということなのだろうか。
「なぁ八津」
隣り合わせ部屋の鍵を互いに開けていると、橘はどこか探るような目をして八津に声をかけた。
「なに?」
「もしかして矢倉と付き合ってたりする?」
「・・・え?」
からかうでもなく、ふざけているわけでもなく、ごくごく普通の口調で聞かれたものだから、うっかり頷きそうになってしまった。



「もうちょっとで、実は・・って言いそうになっちゃったよ。すごく普通に聞かれたからさ」
2週間ぶりに矢倉と顔を合わせてすぐに、八津は先日の橘とのやりとりをすべて話した。
聞き終えると、矢倉は呆気にとられた顔をして、あーうーとおかしな唸り声を上げた。
「どうしたの、矢倉」
「いや、あの野郎、妙に勘の鋭いところがあるからなぁ、けどまさか気づかれるとは思ってなかったんだけどなぁ」
「だけど、本当に気づいているのかなぁって今となっては思うんだけど。だって、普通はそんな発想しないだろ?せいぜい仲のいい親友くらいにしか思わないよ」
「まぁなぁ・・・」
何とも歯切れの悪い矢倉の返事に、八津は少しばかり居心地が悪くなる。
ここしばらく橘と接触する機会が多かっただけに、自分の言動のせいで橘は何か邪推をしたのだろうかと不安にもなる。
だけど矢倉の話は自分からはしなかった。聞かれれば答える程度だったはずなのに。
「で、八津は何て答えたんだ?」
「・・・付き合ってないって言ったよ?それしか言いようがないし」
「・・・」
「なに?付き合ってるって言った方が良かった?」
「・・・どうかな。どっちの方が良かったのか分からん。付き合ってるって言って、男もいけるんだって思われるのも何だし、付き合ってないって言ってチャンスがあるって思われるのもな」
矢倉は腕を組んでしばらく何かを考えていた。
二人が会っているのは全国展開されているコーヒーショップだ。
少し甘めのカフェラテを口にして、八津は矢倉が何かを言うのを待った。
八津にしてみれば、別にバレたらバレたで構わないと思っていた。
あえて打ち明ける必要もないけれど、「付き合っていない」なんて嘘を口にするのは、いい気持ちはしない。それは相手に嘘をつくのが心苦しいということではなく、自分たちが悪いことをしているような気になるからだ。
矢倉のことが好きなのは本当のことなのに、それを正直に言えないのはやっぱり不本意なのだ。
「家が隣だしなぁ、会うなって言っても無理な話だし、まぁ基本的には悪いヤツじゃないから、おかしなことはしないとは思うけど、だけどなぁ・・」
「あのさ、矢倉、もしかして本気で心配してる、とか?」
もしかして橘が八津に横恋慕するんじゃないかとか、そういう見当違いなことを本気で考えているのだろうか。
「あー、まぁ・・そう、なのかな」
何だろう、その「そうなのかな」っていうのは。
今ひとつしっくりこない回答に、八津は首を傾げる。
「とりあえず、橘がおかしなこと言ってきても無視すればいいから」
「うん・・・わかった」
橘の話はそれで終わり、あとは大学での出来事や夏休みに一緒に旅行にでも行こうかと楽しい話ばかりをした。
毎日会えるわけじゃないのだから、ややこしい話をするよりは、少しでも楽しい話をする方がいい。
「あ、そうだ。俺さ、バイトすることにしたんだ」
別れ際、矢倉が思い出したように言った。
「バイト?何のバイト?」
「居酒屋。学校終わってからだから、しばらく忙しいかも」
「そっか。土日も入るの?」
「そのつもり」
「でもどうして急にバイトなんて」
祠堂に通う生徒は皆それなりの家の子供だという例に漏れることなく、矢倉も実家はけっこうな資産家だと聞いたことがある。
小遣いに困っているとは思えないが、矢倉のことだからいつまでも親から小遣いを貰うのは嫌だと思ったのかもしれない。
矢倉の返事はそんな八津の想像したものとは違った。
「八津と夏に旅行もしたいし、まぁその他にもあれこれさ」
「旅行?」
思いもしなかった言葉に驚く。
「たまにはさ、近場ばかりじゃなくて遠出もしよう。大学って夏休み長いから。行くだろ?」
「うん。あ、じゃあ俺もバイトしようかなぁ」
「馬鹿、俺も八津もバイトし始めたら会える時間がさらになくなるだろ」
「そうかもしれないけど、旅行するなら俺だってお金がいるしさ、矢倉ばっかりっておかしいだろ」
「バイトなんてしなくても、八津は大丈夫だろ?」
八津が過保護な母親からちょっとびっくりするくらいの額の小遣いをもらっていることは矢倉も知っていて、貰えるもんは貰っておけばいい、とあっさりと言う。
いらないといえば、母親が寂しがることも知っているし、バイトなんてすると言えば、心配性な母親は小遣いを倍にしてくるだろうことも、矢倉は分かっているのだ。
だから、親孝行だと思って貰っておけばいいと矢倉は言う。
それで母親が安心するならいいじゃないかと。
八津にしてみれば、そんな母親から離れたくて一人暮らしを始めたというのに、やっぱり学生の間はどこまでも親がかりで、本当の意味で離れることはできないんだなと思い知らされて気持ちが沈むのだ。
「しばらく忙しくしてるけど、毎日メールするから」
「うん。でも無理しなくていいよ。女の子じゃないし、毎日連絡してくれなんて言わないから」
いや、言ってくれてもいいんだけど、と矢倉は笑った。
バイクを止めていたビルの間にある駐車場は薄暗く、矢倉は辺りを一瞥して誰もいないことを確認すると、素早く八津にキスをした。
「ちょっ・・・!!」
「いいじゃん、キスくらいさせろって」
悪戯っぽく言われ、八津は火照る頬を手の甲で押さえた。
キスなんてもう何回もしているのに、どうしてこう慣れないのだろうか。
矢倉に触れられるたびに、いつもドキドキしてどうしたらいいのか分からなくなる。
「・・・こんなことするくらいなら、泊まってけばいいのに」
思わず本音を漏らすと、矢倉は一瞬瞠目して、そしてふわりと笑った。
「八津にそういうこと言われると、めっちゃ興奮するわ」
「馬鹿」
「泊まりたいけど、今日もバイトだからさ、ごめんな」
ぽんと頭を叩かれて、今度は泊まるからと宣言された。
矢倉が帰ってしまうと、何とも言えない寂しさを感じた。
大学が違うのは仕方がないとしても、もう少し近い場所に住んでいたらなと思う。
そうすれば毎日会えただろうに。
もっとも祠堂の時だって同じ寮に住んでいても毎日一緒にいられたわけでもなかった。
そう思えばあの頃と変わりはしないのかと自分を慰めてみたりもする。
「・・・真面目に勉強しよ」
いつもいつも矢倉のことばかり考えてしまいそうな自分が嫌で、八津は学生の本分に精を出すしかないかと細くため息をついた。



矢倉が始めた居酒屋のバイトは深夜まであるようで、それまで毎日していたメールが途絶えがちになり、さらに土日の昼間は別のバイトも入れたようで、今まで以上に会う機会が少なくなった。
忙しくしているんだろうなと思うと、なかなか八津から電話もできない。
そんなに必死になってバイトをしなくてもいいじゃないかとも思ったが、それを素直に口に出すのは何となく憚られた。
バイトよりも自分を優先してほしいだなんて子供じみたこと、絶対に口にしたくはない。
言えば、矢倉はきっと自分との時間を確保してくれるだろうとは思うけれど、そういうのはちょっと違うような気がするのだ。
だけど、そんなおかしな意地を張っていていいのだろうかと不安にもなる。
矢倉はもう自分との時間よりも楽しいことを見つけてしまったのだろうか。
一緒にいたいと思っているのは自分だけで、矢倉は会えなくても平気なのだろうか。
祠堂ですれ違っていた2年間の辛さが甦ってきて、やるせなくなる。
このまま自然消滅みたいになるのは避けたい。そう思っているのに。
「まぁ高校時代の友達なんてやっぱり疎遠になるものだしさ、しょうがないんじゃないの?」
あっさりと言ったのは橘だ。
矢倉と会えない時間はやることもなく、暇をもてあまして仕方がなかったので、ことあるごとに誘いをかけてくる橘と何となく時間を過ごすことが多くなった。
橘は矢倉が心配していたようなおかしなモーションをかけてくることもなかったし、矢倉との仲を勘ぐることもなかった。
だから安心して一緒に過ごす時間が長くなり、あれこれと話をしていくうちに、だんだんと橘に対しての警戒心は薄れていった。
もともと矢倉と親しかっただけあって、橘は矢倉と似ているところがあって、そのせいか、一緒にいても楽なので、誘われても断ることが少なくなってきていた。
もちろん矢倉が心配するような感情はまったくなく、単純にいい友達としてである。
「新しい生活も始まってさ、大学での友達とかバイト先での友達とか、そっちに忙しくなるのも分かるっていうか・・・。八津だってこうして俺と一緒にいる時間の方が多くなってるわけだし」
「それは橘が俺のことを誘うからだろ。別に橘とばっかり一緒にいるわけでもないし」
「そりゃそうだけど、でもこうやって俺の部屋で二人きりでお好み焼き焼いてるなんて知ったら、あいつ激怒しそうだなぁ」
橘は慣れた手つきでホットプレートの上のお好み焼きをひっくり返した。
最近では休みの日はこうしてどちらかの部屋で食事をすることがよくある。
橘はマメな男で、きちんと自炊をしていて少し多めに作った時には、おすそ分けだと言って八津に持ってきてくれたりもした。
それがまたすごく美味しくて、素直にすごいと感心してしまった。
八津が喜んだものだから、橘はそれからもちょくちょく作りすぎたおかずをおすそ分けしてくれるようになった。
すっかり餌付けされてしまった感はあるのだけれど、それにも慣れてしまった。
「矢倉はそんなことで怒ったりしないよ」
「それはどうかなぁ。あ、お前マヨネーズかける?」
「うん、いい匂い」
「だろ。昔からお好み焼き焼くのは俺の役目だったんだよなぁ」
どこか得意気に橘が笑う。
じゅうじゅうとソースの匂いをさせている出来上がったばかりのお好み焼きを二人でつついた。
「前にさ、矢倉って中学の頃女の子にモテたって話しただろ?」
「うん」
「軽い付き合いはしてたと思うけど、結局誰にも本気にはなってなかったんだよな。来る者拒まず去る者追わずの典型みたいな感じでさ」
「ああ、何となくわかる」
それは祠堂でもずっと言われていたことだ。
下級生からも同級生からも人気のあった矢倉には、山ほどその手の噂はあった。
八津と別れてからは本当に次から次へと噂が届いて、いったいどれが本当でどれが嘘なのかも分からなくて、八津は本当につらい思いをした。
今でも本当のところどうだったのかは分からない。
聞けば教えてくれるだろうけど、聞くのは怖い。
「前にも話したけど、俺たちさぁ、みんなで地元の高校へ行く予定だったんだよ」
ふぅふぅと湯気を飛ばしながら、橘が言った。
「矢倉もそうするって最初は言ってたし。それがどういうわけか祠堂を受験したとたんに、絶対に祠堂に行くって言いだすからみんな驚いてさ。いったい何があったんだ、ってしばらく噂になってた」
「うん」
受験の日、消しゴムを忘れた矢倉に自分の消しゴムを半分分けてやった。その日の休憩時間に自己紹介をして一緒に祠堂に入学しようと約束をした。
本当にわずかな時間しか話をしなかったのに、どういうわけかもう一度会いたくて仕方なかった。
それから毎日電話をしてお互いのことを話した。
絶対に一緒に祠堂に入学しような、と矢倉はしつこいくらいに言った。
思えばあのわずかな時間に、自分たちは恋に落ちたのだ。
本当にびっくりするくらいすとんと、まるでそれが当たり前のように。
それなのに2年もの間片思いの状態に甘んじていた。
もうあんな思いはしたくないと思っているのに、何だかまた矢倉が遠くなってしまったような気がしてひどく寂しいのだ。
「山奥の男子校に好き好んでいくなんて、いったいどういう理由があるんだろうってずっと思ってたけど、八津に会って、ああそういうことかって思ったよ」
「・・・・そういうこと?」
「矢倉、八津と一緒にいたいから祠堂に行ったんだろ?」
「・・・・」
「この前聞いた時は違うって言ったけど、やっぱり付き合ってるんだろ?」
まるで天気の話をするかのような自然な口調で問われ、とうとう八津は観念した。
どうやら何か確信しているようだし、これ以上嘘をつくのも正直面倒だと思ったのだ。
じっと橘を見つめ、そして腹をくくった。正直に打ち明けて、どんな反応が返ってくるかは分からなかったけれど、何となく橘は変に絡んできたりはしないだろうと思ったからだ。
「・・・うん、付き合ってる」
「やっぱり。そうか、やっぱりそうかぁ」
橘はあーあと盛大にため息をついた。
それからしばらくは二人とも黙々とお好み焼きを食べ続けた。
「焼きそばもすればよかったな」
「ああ、美味しそうだな。今度はそうしよう」
冷たいお茶を手渡され、八津はありがとうと言って受け取った。
そして少しの逡巡のあと思い切って聞いてみた。
「なぁ、何で分かった?」
「付き合ってること?何だろうなぁ、雰囲気?いや、矢倉の態度かなぁ。あいつあんまり物事に執着しないヤツだったように思うのに、八津のことに関しては何だか妙にしつこいっていうか」
「しつこい?」
「あのあとメール来たんだよ、矢倉から。自分がいないところで八津と勝手に遊ぶなって。小学生かっつぅんだよな、まったく」
橘はからりと笑ったが、まさか矢倉がそんなことをしていたとは知らない八津にしてみれば、本当に何でそんなメールをするんだ、と恥ずかしくなってしまう。
「何か彼女取られちゃ困る的な雰囲気がぷんぷんしててさ。何だこいつって。それでまぁ分かったっていうか、そうなのかって納得できたっていうか」
「男同志なのに、って思ったりしないの?」
「あー、俺そういうの気にしないから。まぁ、あの矢倉が、っていうのはちょっと驚きだったけどなぁ」
「そっか」
「あれ、八津、顔赤いけど」
「・・・恥ずかしい」
「え、何で?別にいいんじゃないの、普通に付き合ってるだけだろ」
普通、といっていいのだろうか。
悪いことはしていない。だけど、やっぱり男同士はそれなりに普通ではないような気もする。
「だけど、最近矢倉遊びに来てないよな。八津は俺とばっかり遊んでる気がするし」
「何だかバイトが忙しいみたいで」
「バイトねぇ。なぁ、もし二人の仲が上手くいってないようだったらさ・・・」
「喧嘩はしてないし、嫌いにもなってない」
「うわ、即答だ。八津ってオモシロイなぁ」
楽しそうに笑う橘に、八津は内心ため息をつきそうになった。
喧嘩でもしていれば、連絡がなくてもしょうがないかとも思えるし、謝って仲直りをすることだってできる。
だけど、矢倉はバイトが忙しいからというどうしようもない理由をつけて会う時間をくれないのだ。
メールは来る。忘れられているわけでもない。
だけど少しばかり腹立たしくもなる。
自分ばかりが矢倉と一緒にいたいと思っているようで、何だか悔しいのだ。
「八津って、我儘言って矢倉のこと困らせたりしないんだろうなぁ」
橘は汚れたホットプレートを簡易キッチンのシンクへと運ぶと、慣れた手つきで小さなテーブルの上を綺麗に拭いた。
「会いたいって言えばいいのに、言ってないんだろ」
ずばりと言われて返事ができない。
黙っていると、橘はやれやれというように笑った。
「会いに来いって言えば、あいつはすっ飛んでくると思うけどなぁ」
「そうかもしれないけど、だけど、そういうのってちょっと違うような気がして」
「違うって?」
「矢倉には矢倉の生活があるし、俺の我儘で邪魔したくないっていうか」
「うわ、そういうこと思う方が重いんじゃないか?」
ずばりと指摘され、そうだよなぁ、と八津は思った。
乙女でもあるまいし、言いたいこと言えないで我慢するのもどうかと思う。
それは分かっている、本当に分かっているのだ。
だけど言えない。
「邪魔しに行ってやろうぜ」
「え?」
顔を上げると、橘はほらほらと八津を促して立ち上がった。
「ちょっと、どこ行くつもりだよ、橘」
「今から矢倉ンとこ行こうぜ。あいつこの時間もバイトしてんだろ?」
「ああ、うん」
「昼間はカフェだろ?客として行って終わったら文句言えばいい。バイトばっかやってると俺と浮気してやるって言ってやれよ」
いたずらっぽく言われて、八津は思わず笑ってしまった。
何だろうこの行動力は。誰かを思い出させるなと思い、それが去年の秋に突然いなくなってしまった麗しい同級生だと気づいた。
もしここにギイがいたら、同じようなことを言いそうだと思った。
あれこれ考えるよりも先に行動するような人だった。
他人の恋愛には踏み込まないと公言しているにも関わらず、恋人が巻き込まれるとそんなポリシーはすっかりどこかへ行ってしまって、友人のために奔走していた。
彼ならきっと同じことを言いそうだと思った。
そして彼が大切にしていた恋人もまた同じことを言うだろう。
「行こうぜ、八津」
自分だけなら絶対にできそうにないことだったけれど、そうしなくてはいけないような気がして八津はうなづいて立ち上がった。




矢倉がバイトをしているというカフェは大通りに面した場所にあって、近くにショッピングモールがあるせいか、買い物帰りの女性たちで賑わっていた。
大きなガラス窓越しにでも、矢倉のことはすぐに見つけられた。
「すげぇ、何かいかにもっていう制服だな」
カフェの店員たちはみな白いシャツに黒のパンツ。同じ黒のソムリエエプロンをしている。
女の子たちは短めのカフェエプロンをしていてお洒落だった。
橘と二人して店に入ると、迎えてくれた店員がこちらへどうぞと案内をしてくれた。
矢倉は接客中で気づいていない。
注文を書き留めて厨房へと戻る姿を目で追った。
同じアルバイトらしい女の子がにこにこと矢倉に話しかけ、矢倉も同じように笑顔で応える。
「仲良さそ」
遠慮容赦なく橘が言い、八津は苦笑した。
別に普通に友達なら話もするし冗談だって言うだろう。
祠堂にいた頃から、矢倉が誰かと一緒にいる場面をずっと見てきた。
好きなのに話しかけることもできず、このまま卒業してしまい、もう二度と会えなくなるとばかり思っていた。
あの時のことを思えば、こうして好きな時に会いにこれるだけでも幸せだ。
さすがに矢倉が女の子としゃべっているくらいで妬いたりはしない。
「やっぱりカッコいいな、あいつ」
橘がどこか面白くなさそうにつぶやく。
背が高いからソムリエエプソンもよく似合う。
じっと見つめていると、注文の品をトレイに乗せて振り返った矢倉とばっちり視線が合った。
とたん、矢倉がぎょっとしたように固まった。
その驚きっぷりに、橘がしてやったりとばかりに笑った。
すぐに我に返った矢倉は少し離れた席の客に注文の品を届けると、その足で八津たちの席までやってきた。
「おいっ、何やってんだよ」
低く周囲に聞こえないように、矢倉が橘を睨む。
橘はちっとも悪びれた風でもなく矢倉を見返した。
「何って、八津とデート?」
「はぁ?つまんない嘘つくな!」
「嘘かどうかは分からないだろー。矢倉は八津のこと放ったらかしにしてるみたいし、じゃあ俺が付き合っちゃおうかなーとか」
「お前、適当なこと言ってると本気で怒るぞ。・・あーもう、あと30分でバイト終わるから、このまま待ってろ」
何しろ満席御礼の状態なので話もできず、矢倉は慌ただしく厨房へと戻っていった。
「ははー、あいつけっこう焦ってたなー」
「人が悪いな、橘。いったいこれのどこがデートなんだよ」
八津が睨むと、橘は軽く肩をすくめた。
たとえ嘘でもデートだなんて言われたら、普通ならもっと腹を立ててもいいようなものだけれど、矢倉がこれっぽっちも驚くことなくそれが嘘だと見抜いてくれたことが嬉しかった。
それは矢倉が八津のことを信用してくれているからだ。
あんなにあれこれとヤキモチを焼いていたくせに、実際には矢倉は橘とのことを疑うことはないのだ。
矢倉らしいな、と思う。
そしてそんな矢倉のことがやっぱり好きだなと思う。
「八津さぁ、やっぱり矢倉と別れる気ない?」
「ないよ。どうしたらこれから先も一緒にいられるかなぁって思ってるくらいなのに」
「ですよねぇ」
橘の口調はさほど残念がっているようには聞こえない。それは最初から八津が矢倉と別れることなんてないと分かっているからなのだろう。
だけど、と八津は思う。
矢倉は橘に何やら牽制をかけていたようだけれど、実際のところ、橘からアプローチをかけられたことは一度もない。
今では本当にいい友達になっているし、矢倉が心配するようなことは何もないのだから、そのことについてはちゃんと話をしないといけないだろう。
でなければ、矢倉と会えない間、橘と会うことにも何となく気が引けてしまう。
というか、いわれのないヤキモチを焼かれるのは正直面倒だ。
矢倉がちらちらとこちらを見ている視線を感じながら、バイトの終わる時間まで橘と二人で何てことのない世間話をした。
時間になると矢倉は二人の元へとすっ飛んできた。
「待たせたな」
「そんなに慌てなくてもいいのに」
「慌てるだろ。ほら、行くぞ」
矢倉に急かされてバイト先のカフェをあとにした。
「橘、お前なぁ、あれだけ八津に近づくなって言っただろうが」
「別にいいだろー、今日だって昼間は二人でお好み焼きパーティーしてたんだぜ。いいだろぉ?」
「何だとー」
「ちょっと二人ともちょっと静かにしろよ。目立つだろ」
何しろ大通りなので行きかう人も多い。でかい男が二人して剣呑な感じでいれば皆じろじろと見ていくのだ。
矢倉はむすっと黙り込み、そんな矢倉に橘が面白そうに笑った。
「ちょっと早いけど、飯でも行くか?お前ら会うの久しぶりなんだろ?」
「そうだよ、だから飯に行くなら俺は八津と二人で行くし」
「どんだけ独占欲強いんだよ、お前。まぁな、八津って可愛いし、女の子にも人気あるし、そりゃ心配になるよなぁ」
にやにやと笑う橘の様子に、はっとしたように矢倉が八津を見た。
「八津、もしかして・・・」
「あの、ごめん。付き合ってること、橘に話した」
勝手に暴露してしまったことに、矢倉がどんな反応をするか想像できなくて、八津は恐々と様子を伺った。矢倉はうーっと低く唸ると、やがて大きく息を吐いた。
やっぱり勝手なことをして怒らせてしまっただろうか、と八津は慌てた。
「ごめん、矢倉・・・俺・・・」
「いやいい。別にいつバレたって良かったし。八津が気にすることはないよ。ちょっと俺の勝手な杞憂で言いたくなかっただけなんだ」
矢倉は本当に怒っていないようで、そのことに八津はほっとした。
そんな二人を黙ってみていた橘はぽんと矢倉の肩を叩いた。
「とにかく道端でこんな話するのも何だから、とりあえずどこか入るか。個室がいいな。ああ、あそこの居酒屋でいいや。行こう」
「だから、飯食うなら俺は八津と二人で・・・っ」
「いいからいいから」
強引に矢倉の腕を引っ張って、橘は目についた居酒屋へと足を向けた。
まだ夕食にするには早い時間だったけれど、居酒屋は開店していて、一番客だったおかげで個室にも入れた。
軽く食べられるものをいくつか注文して、三人で狭い個室の中で向いあう。
何となく気まずい空気が流れて、八津はどうしたものかと迷った。
少しすると飲み物と食事が運ばれてきたので、何となく三人で乾杯し、それからやっと会話が始まった。
「いやぁそれにしても、矢倉、あの制服似合ってたな。な、八津?」
「え?あ、ああ、うん。そうだね」
「惚れ直した?」
「え・・・?」
「たーちーばーなー」
矢倉がそれ以上余計なことを言うな、というように橘を牽制する。
「なぁ、矢倉」
矢倉がおかしな誤解をしているのなら早いうちに説明をしておこうと思い、八津は矢倉へと向き直った。
「あのさ、あの・・俺、橘とは仲良くしてるけど、別にただそれだけだから。前に、橘には気をつけろって言われたけど・・・」
「なに、お前そんなこと言ったの?」
八津を遮って橘がうんざりしたように肩を落とす。
「だけど、橘にはそんな気はぜんぜんないし。だってほら、普通はそんな簡単に同性を好きにはならないし・・・橘はそういうの、気にしないって言ってくれたけど・・・。ほんとに、矢倉が心配するようなことは何もないし・・・」
「そうそう。俺はほんとに八津にはちょっかいだしてないし。だって俺は・・・」
そのあとに続けた橘の言葉の意味が分からず、八津はしばらくきょとんとしてしまった。

「だって俺は矢倉のことが好きなんだし」

一瞬それがどういう意味なのか理解できなかった。
好きって、そりゃあ橘は昔からの矢倉の友達だし、仲が良かったのだから嫌いなわけはないし。
いや、でもそうじゃなくて、橘が言う「好き」というのは、友達としての「好き」ではなくて、つまり、八津が矢倉に対して思うのと同じ意味合いでの好きなのだと気づくのに、しばらくかかった。
そしてやっと橘が矢倉のことを好きなのだと理解できると「え?」と矢倉と橘を交互に見た。
まさかこの二人、中学の時に付き合ってたとか言うんじゃないだろうな、と思ったが、さすがにそれはないかと思い直す。
「言いやがった」
矢倉がぱたりとテーブルに突っ伏した。
その一言で、矢倉が橘の気持ちを知っていたのだということが分かった。
「え、ちょっと待って。何か、俺だけがよく分かってないのかな。えっと、橘が好きなの、って矢倉なの?で、矢倉はそれを知ってたの?それでどうして俺に橘に気をつけろなんて言ったわけ?」
八津が必死で言い募ると、矢倉と橘は顔を見わせた。
「八津、ちょっと落ち着けって。最初からちゃんと説明するから」
「そうして欲しいな」
思わず声が低くなるのは仕方がないだろう。
八津だけが何も知らないでいたのだ。矢倉は八津と橘の仲を心配していたと思っていたけれど、橘が好きなのが矢倉なのだとしたら、どうしてそんな心配をしていたのだ。まったく無用の心配ではないか。
というか、いったいいつから橘は矢倉のことが好きだったんだろう。
ぐるぐる考える八津に、橘が小さく笑った。
「俺さ、中学の時に矢倉に告ったんだよ」
「ええっ」
思いしなかった告白に、八津は心底驚いた。
「でもまぁ玉砕したけどなー」
「玉砕・・」
八津はテーブルに突っ伏したままの矢倉を見た。
確かに祠堂にいた時にも人気はあったし、下級生から告白されたらしいということも噂には聞いたことがある。だけど、真偽のほどは確かめたことはなかったのだ。
それが、実際に告白したという人物が目の前にいるのだから驚かないわけがない。
「なー矢倉、お前、あの時のこと覚えてる?」
「・・・覚えてるよ。中3の年末だろ。いきなり呼び出されていったい何事かと思ったんだよ。
そしたら急に好きなんだけど、とか言われてさ」
「あの時の矢倉の驚いた顔は見ものだったなー」
からりと笑って橘が突出しをつつく。
「で、矢倉、何て言ったんだよ」
八津が尋ねると、矢倉はちらっと橘を見て、かしかしと頭をかいた。
「いや、そんなこと考えたことなかったから、びっくりしたけど・・・何だったかな、何て言ったんだったかな」
「覚えてないのかよ。あの時矢倉さ、『橘のことは好きだけど、やっぱり友達としてしか見たことないし、この先も恋愛対象として見ることはないと思う、ごめん』って言ったんだよ」
「そうだっけ、そんなこと言ったかな」
「言った。あと『たぶんこの先も同性相手に恋愛はできないと思うけど、だけど好きになってくれたのはありがとう』って」
本当に覚えてないのか、覚えているけど照れるだけなのか、矢倉はいつになく歯切れ悪く、覚えてないなと苦笑する。
たぶん矢倉は本当に同性相手に恋愛なんて考えたこともなかったんだろう。
だけど、仲のよかった友達を傷つけることなく、自分のことを好きになってくれたことにありがとうと言ったのだ。
矢倉らしい、と思う。たぶん祠堂にいた時も、下級生からの告白に同じように答えていたのだろう。
「男相手に恋愛はできないのは仕方がないって思ってたのに、3年たって再会してみたら、ちゃっかり男の恋人作ってんだからなぁ、何だよそれ、って
思うだろ?このヤロー、男はダメって言ったくせにどういうことだよってさ」
「いや、だから、あの時は本当にそう思ってたし、今だって別に男がOKってわけじゃないんだからな」
矢倉が抗議すると、はいはい、と橘がうなづいた。
「分かってるよ。八津だったからだろ?八津と出会って、男とかどうとか関係なく好きになっちゃったんだよな。でもそういう気持ちの方が間違いないし、本物だって思うよ」
静かな口調から、橘が本当にそう思っていることは感じ取れた。
そして橘が本当に矢倉のことを好きだったのだということも。
そりゃあ八津におかしなモーションをかけたりしないはずだ。
橘が好きなのは矢倉なのだから。
「あの・・橘って、もしかして、今でも矢倉のこと・・・」
好きだったりするのだろうか。
矢倉と別れるつもりはないかと聞いたりしたのは、八津とどうこうなりたいということではなく、矢倉とどうこうなりたいということだったのだろうか。
八津が考えていることが分かったのか、橘はぷっと吹き出した。
「ないから。今さら矢倉とどうこうなんてさ。でも3年ぶりに会ったらやっぱりカッコよくて、あー俺の男を見る目は間違ってなかったなーって思ったけどな。それに、男は恋愛対象外だなんて言ってた矢倉が選んだ相手が八津でさ、それもやっぱりカッコいいなーって思ったというか。八津、すごくいいヤツだし、矢倉が好きになるのもよく分かるし。上手くいってるなら応援しようって思ったけど、ここんところ、矢倉は八津のことを放ったらかしにしてるって言うから、何やってんだと思ってさ。文句の一つでも言ってやろうぜ、って八津を誘ったんだよ」
「放ったらかしになんてしてないだろ」
なぁ八津、と言われても素直にうんとは言えない。
メールや電話がないわけじゃないから、確かに放ったらかしとは言えないけれど、だけど、卒業したらもっと会えると思っていた予想は外れてしまった。
答えに躊躇した八津の表情に、矢倉は言葉に詰まった。
「え、八津・・・俺、寂しい思いさせてたか?」
「・・・・」
そんなことないよ、と笑って言えればいいのだけれど。
だけど寂しかったと言うことも躊躇ってしまう。
「矢倉がバイトバイトで、最近会ってなかったんだろ。そりゃ寂しいに決まってんだろうが。女の子じゃあるまいし、とか思ってんなら大間違いだぜ、男だろうが女だろうが、好きな人に会えなけりゃ寂しいに決まってる」
橘はきっぱりと言い切ると、よっこらしょと立ち上がった。
「じゃ、俺は帰るから。昔好きだったヤツのためにひと肌脱いだんだから、ここは矢倉の奢りな」
「え、おい」
「八津、ちゃんと自分の気持ち言うんだぞ。頑張れ」
ぐっと親指を立てて、橘はさっさと個室を出て行った。
結局、橘が口にしたのはドリンク一杯と突出しとサラダだけだ。
奢るというほどのものは何もないじゃないかと、矢倉は小さく笑った。
「何なんだ、あいつは」
矢倉は慌ただしく帰っていった橘を見送ると、どこか気まずそうに八津を見た。
「えっと、八津、俺さ・・・」
「橘に、言いたいことがあればちゃんと矢倉に言えって言われて、ここに連れてこられた」
矢倉の言葉を遮るようにして八津が先に言った。
「何となく、矢倉の邪魔したくなくてどこかで我慢してたのかも。だけど、なかなか自分からは動けなくて。橘のおかげでちょっと勇気が出たんだ。何かあの行動力、ギイと葉山くんを思い出しちゃったよ」
「・・・・」
「ずっと好きだったのに、何もできなかった俺の背中をギイと葉山くんが押してくれて、矢倉ともう一度付き合えるようになった。今度は、橘が引っ張ってくれた」
そんな風にいつも一歩踏み出せないでいるけれど、いつまでもそんな風ではいつか大切なものを失ってしまいそうな気がする。
もう二度と矢倉のことだけは失いたくないのだ。
「八津、俺、お前のこと寂しくさせるつもりなんてなかったんだけど・・・ごめん、ぜんぜん気づいてなくて。メールとかしてたからさ、平気かなって、ちょっと思ってた」
「うん、橘が言うほど寂しくしてたわけじゃないよ。あれはちょっと大げさに言ってるだけだから。だけど、矢倉がバイトばかりで会う機会も減ってたし、それはやっぱりちょっと・・・寂しかったっていうか・・・もう会いたくないのかな、とは思った」
「は?そんなわけないだろ」
心底驚いたように矢倉が目を見張る。
ぜんぜん分かってない矢倉に、さすがの八津もちょっとかちんときた。
「そうだけど、じゃあどうして急にバイトバイトって・・・夏休みの旅行のためって言ってたけど、そこまで頑張る必要もないだろ?海外にでも行くつもりかよ。別に矢倉のすることに何か言える立場じゃないとは思うけど、せっかくお互い一人暮らししてて、会おうと思えば会えるようになったのに・・・っ」
「そうだよ、会おうと思えば会える距離だと思ってた。だけど、毎日は会えないだろ?やっぱりあの微妙な距離がダメなんだなって思ったんだよ」
「ダメって・・・?」
それは関係を続けていくのが、って意味だろうか。
いや、そんなはずはない。
分からない様子の八津に焦れたように矢倉が声を大きくする。
「だから・・・もっとすぐに会える距離に引っ越そうって思ったんだよ」
「・・・え?」
矢倉は気恥ずかしそうに視線を外した。
「今のアパートの更新が二年後に来るだろ?その時にもうちょっと八津の家に近いところに引っ越そうと思ったんだよ。三回生になれば朝一の講義も少なくなるし、少しくらい大学から離れても大丈夫だろうから。引っ越ししたら、八津ともうちょっと会えるかなって思ったんだ。理由も言わずに引っ越すなんて言っても親からは金は出ないだろうから、今のうちに少しでも貯めておこうと思ってさ。もし必要額が早く溜まればもっと早くに越してもいいし」
「矢倉・・・」
まさかそんなことを考えているなんて想像したこともなかった。
自分よりもバイトを優先させるなんて、と勝手に腹を立てたり寂しがったり。
「ごめん、俺・・・ぜんぜんそんなこと知らなくて・・・」
「そりゃ言ってないから。八津が気にする必要なんてないって。俺が勝手に決めたことなんだから」
八津が思っているよりもずっと、矢倉は二人の関係を大切にしていて、もっと会いたいと思ってくれていて、そのためにどうすればいいかも考えているのだ。
ただただ一緒にいたいと思っていた自分とは違うのだと、八津は自分のことが恥ずかしくなった。
だけど。
「矢倉がそうやって俺とのことを考えてくれているのは嬉しいけど、だけど、一人で勝手にそういうの決めて欲しくない」
「え?あー、悪い。もっと一緒にいたいって思ってたのは俺だけだった?」
「そうじゃなくて!」
八津は焦れたように声を上げた。
「そうじゃなくて、そんな風に考えてるってこと、ちゃんと俺にも話してほしいってことだよ。俺だってもっと矢倉と一緒にいたいと思ってる。矢倉ばかりじゃないんだからな・・・」
「・・・そっか。そうだな。ごめん」
矢倉は初めて八津の気持ちに気づいたかのように目を見開いて、それから深々と頭を下げた。
「ごめん。俺、自分で何とかしなくちゃってばかり思ってた。そうだよな、俺だけじゃなくて八津と会うためにと思ってのことだもんな。一緒に考えないとダメだよな」
「・・・俺もバイトする」
「え?」
顔を上げた矢倉に、八津がきっぱりと言った。
「二年後の引っ越し、一緒に住める部屋に引っ越そう。今の矢倉の家と俺の家の中間地点に引っ越しすればお互いの大学へだって通えるし。一緒に住めば、毎日顔だって見ることができる二人で住む家なんだから、俺だってバイトしてお金を貯める」
「いや、でも・・・」
「そういうお金、自分で稼がないと意味がないと思う」
「・・・」
「それも、二人で一緒に」
そうだな、と矢倉は笑った。
一緒にいたいと思ったり、そのために何ができるか考えたり。たぶん子供っぽい情熱と勢いが大半で、冷静に物事なんて見れなくなっている。
せっかく住み始めた一人暮らしの家を引っ越してでもそばにいたいだなんて。
先の短い恋だと思っているわけでもないのに、いろんなことが我慢できなくて、あとから思えばきっとバカげたことでも、今はそれが最善だと思っている。
だけど、遠い未来に、あの頃はどうしてあんなに切羽詰まってたんだろうな、なんて笑いあえたらそれもいいと思う。
「ありがとう、矢倉」
「なに?」
「一緒にいたいって思ってくれて」
「何だよ、そんなの当たり前だろ」
おかしなこと言うんだな、と笑われて、八津も笑った。
「あのさ、矢倉、この際だから言っておきたいんだけど」
「え、何だよ」
ぎょっとしたように矢倉が少し身を引いた。
普段あまり怒ったり文句を言ったりしない八津が、言っておきたいなんて言うと、それなりに怖がられるみたいなのだ。
「俺たち、一年の時に好きだったのに別れてしまっただろ?あの時も、本当はちゃんと本当のことを言えばよかったと思うんだ。矢倉は俺の母親から言われたことを、俺は別れたくなんてないってことを」
「・・・・」
「だけど言えなくて、2年も離れてた。好きだったのに。ああいうの、もう嫌なんだよ」
「そうだな、それは、俺もそうだけど」
「だよね、だからこの際言わせてもらいたいんだけど」
「お、おう」
矢倉がさらに身を引く。
八津はすっと一つ息をすると、真面目な顔で言った。
「バイトしてた理由は分かったけど、ちゃんと先に話して欲しかった。目的があるから、バイトしないといけないのも分かるけど、それで会えなくなるのは嫌だ。あと、カフェのバイトで可愛い女の子と一緒なのもちょっと気になった。何もないって分かってるけど、ヤキモチ妬いた。そういうの言わないでいようってずっと思ってたけど、橘に『そんな風に思う方が重い』って言われて、確かにそうだって思った。勝手にあれこれ考えるくらいなら、嫌われてもいいから矢倉にちゃんと言おうって。でなきゃきっとどこかで爆発しそう」
一気に吐き出すと、八津はほっとしたように肩の力を抜いた。
矢倉は少しあっけに取られていたようだけれど、ぷっと吹き出した。
「いったい何を言われるんだろうって構えてたのに」
「何だよ」
「いや、そういう可愛いこと言うんだなって」
「可愛くない」
「あー、じゃあ俺も。俺だって八津がいつの間にか橘と仲良くって、一緒にご飯食べてるって知ってヤキモチ妬いたんだからな。橘が、八津は女の子にも人気があるとか余計な情報入れてくるから会えない時もあれこれ勝手に想像して焦ったり。八津、ぜんぜん会いたいって言ってこないから、俺がいなくても楽しくやってんのかな、とか」
「そんなわけないだろ」
「でも何も言わないから・・・」
と言って矢倉がはたと気づいたように口を閉ざした。
「・・・そっか・・そうだよな、言わなきゃ分からないってこういうことだよな」
お互いがお互いに少しづつ我慢してるなんて、結局何もいいことがないのだ。
口にしてしまえばたいしたことでもなくて、笑って誤解はすぐに解ける。
「これからは、ちゃんと思ってることは伝えることにする。矢倉もそうしてくれる?」
「わかった、そうするよ」
付き合い始めてから初めて決めた二人のルールだった。
これから先ずっと一緒にいるための。


久しぶりに二人でゆっくりと食事をして、今夜は泊まっていけばと矢倉に誘われた。
すっかり暗くなった駅からの道を、肩を並べてゆっくりと歩いた。
「ところで、どうして橘に気をつけろみたいなこと言ったんだよ。橘が好きなのは俺じゃなくて矢倉だろ?」
「そんなの昔の話だろ。おかしな意味じゃなくても、あいつが八津のこと気に入ったのはすぐ分かったし。隣に住んでて大学も一緒で、俺より一緒にいる時間が長いなんて、やっぱりちょっとムカつくだろ。それにあいつの恋愛対象が男だってことは知ってたし、八津可愛いからさ、何かあってからじゃ遅いから近寄って欲しくなかったんだよ」
「可愛いって何だよ。それにしても橘が好きなのが矢倉だったとはなぁ。矢倉って昔っから男女問わずモテたんだな」
「いや、男にモテても別に嬉しくないから、あ、八津は別な」
「はいはい」
何てことのない会話にほっとする。
矢倉の気持ちを疑ったことはなかったけれど、どこかで遠慮していたのかもしれない。
嫌われたくないという思いもあったのかもしれない、
高校一年の時に別れようと矢倉に言われて、自分の気持ちを素直に言えずに別れてしまった。
もうあんな風にはなりたくない。
八津はそっと手を伸ばすと、矢倉と手を繋いだ。
驚いた様子の矢倉に微笑んだ。
「そうしたいなって思ったんだよ」
「珍しい」
「そうしたいって思った時に、ちゃんとそうしようって決めた」
手を繋ぎたいと思った時にそうすることも、思いを伝えることと同じくらい大切なのだ。
これからも好きでいるためには、きっとそういうことが大切なのだ。




「仲直りできたんだな」
次の日、いつものように作りすぎたおかずを持って、八津の家を訪れた橘は開口一番そう言った。
出来立てほやほやの豚の角煮は本当に美味しそうで、いけないと思いつつもしっかりと受け取ってしまった。
「だから、喧嘩してたわけじゃないから」
「で、やっぱり別れる気にはならなかった?」
「だから、そんなつもり全然ないし」
「何だよ、残念だなぁ。八津が矢倉と別れたら、もう一度矢倉にアタックしてみるかーって思ってたのになー」
「・・・・」
「冗談だよ」
橘がにやりと笑う。
いったいどこまでが本気なのか冗談なのか分からない、と八津が肩を落とすと、橘はそれまでとは違う真面目な口調で言った。
「安心していいよ、俺、ちゃんと好きなヤツいるからさ」
「・・・男の人?」
遠慮がちに聞いてみると、橘はうんとうなづいた。
「そうだよ、俺、女の子には性的興奮覚えないんだよ。気づいたのは中学の時で、初めて好きになったのが矢倉だった」
橘は勝手知ったる人の部屋といった感じでフローリングの上に座ると、気持ちよさそうに大きく伸びをした。八津が向かい側に座ると、昔を懐かしむように話し始めた。
「あの頃はさ、男しか好きになれない自分にまだ悩んでる時だったけど、でも矢倉のこと好きになって、どうしても気持ちを抑えきれなくなって、告白しにいった。寒い夜でさ、もし矢倉に笑われたり嫌悪されたら、そのまま帰らず凍死しようかと思ってた。だけど矢倉は俺の告白を普通に聞いてくれて、普通に女の子に告白された時みたいに向き合ってくれた。バカにしたり、気持ち悪がったりせずに、真面目に話聞いてくれた。何ていうか、ちゃんと人間相手に向かい合ってくれたっていうか。男だからって理由で断られてももぜんぜん良かったんだよ、それが普通だし。矢倉は俺の気持ちを馬鹿にはしなかった。そのあともそれまで何も変わらず接してくれた。たったそれだけのことだけど、俺は矢倉にけっこう救われたんだよ」
「・・・・」
「その矢倉が選んだ相手がどんな人間なのか、すっげぇ興味あったよ。男には恋愛感情は持てないと思うなんて言ってたくせに、たった3年でどういう心境の変化だよってちょっと腹が立ったのもあるんだけど。でも八津と一緒にいて、矢倉が八津のことを好きになった気持ちはよくわかったよ。一緒にいてほっとするっていうか、力抜けるっていうか」
「それ、褒めてるの?」
「はは、もちろん。まぁ今でも矢倉のことは好きだけど、付き合いたいとかそういうんじゃなくて、初恋の甘酸っぱい思い出っていうか、そういうのだからさ。八津は間違っても矢倉みたいに見当違いなヤキモチを妬いてくれるなよ」
ヤキモチ、というのは橘が矢倉のことをまだ好きじゃないかと疑って、そのことについて妬いたりということだろうか。
もし橘がまだ矢倉のことが好きなのだと言われても、だからといって八津にはどうすることもできない。
誰かが誰かを好きになる気持ちはとめようがないのだから。
だけど、矢倉の気持ちだけは。
彼の気持ちだけはどこへも行かないでいて欲しい。
女々しいなと思うけれど、それが偽りのない本心だ。
「何はともあれ、これからもよろしくな、八津」
「こちらこそ」
「同じ男を好きになったヨシミで」
橘の言葉に思わず吹き出した。
矢倉が必死にバイトをしていた理由を橘に話すと、
「あいつは余裕ないなー」
と大笑いされた。
余裕がないのは八津も同じなのだけれど、そんな余裕のなさを味わえるのも今だけだろう。
思ったことはちゃんと伝えあおうと約束した。
それで喧嘩することもあるだろうけれど、たぶんもっとお互いのことを知ることができるはずだ。
一緒に暮らすようになる二度目の春が来る頃には、絆はもっと深まるだろう。



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あとがき

八津くんちの母親もハードル高そうだな。がんばれ矢倉。