愛するということ


初めてギイに抱かれた夜、ぼくは本当に久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
兄の命日が近づくにつれ次第に眠りが浅くなり、雨が降り続くようになると、今度は雨音が耳についてさらに眠れなくなった。
眠らなくては、と思うのだけど、嫌な夢を見るとわかっているから眠るのが怖かった。
そんな日々が続き、章三と話をしている途中で貧血を起こした時には、体力的にも精神的にも限界がきていたのだ。
1年の時はそこまでひどくならなかった。
2年になってギイに告白されて、彼のことをどんどん好きになっていって。
兄とのことをいつまでも隠してはいられないと思うと、毎日が苦しくて仕方なかった。

すべてを打ち明けて、ギイを嫌われてしまったら?
ギイを失うことになったら?

もしそんなことになったら、ぼくは自分がどうなってしまうか想像もできなかった。

ギイは唯一無二の人だったから。
だから失いたくなかった。

そう思っていたのに、ぼくの話を聞いたギイはそれまでと何も変わらなかった。
「ぼくを嫌いになった?」
という問いかけに、ギイは少し呆れたような表情を見せて
「オレ、愛してるって言わなかったか」
と笑った。
その言葉に、ぼくは体中の力が抜けていくような気がした。
もしぼくがギイの立場だったら、あんな話を聞かされたらやっぱりいい気はしないだろう。
だって、過去に付き合っていた人がいたという単純な話ではないのだから。
狭いベッドの中で、ギイはぼくの身体が落ちないようにと抱きしめてくれている。
その体温に、ぼくは眠りに落ちていきそうになるのを必死で堪えていた。
「ギイに、嫌われるかと思った」
ギイの肩先に顔を埋めてぼくがそうつぶやくと、彼は笑って頭のてっぺんにキスをした。
「そんなこと心配してたのか?」
「うん・・・だって・・」
ギイはやれやれというようにため息をついた。
「なぁ、何があっても、オレは託生のことを嫌ったりなんかしないよ。ずっと好きだったんだ。お前が去年、オレのことさんざん毛嫌いしてた頃だって、オレ、へこたれなかっただろ?」
「毛嫌いなんかしてないよ」
「いや、してたね。あれだけ冷たくされても諦めずにずっと思い続けて、やっと両思いになれたっていうのにどうしてそう簡単に嫌いになんてなれるんだよ」
ギイはぼくの額に、瞼に、頬に、こめかみに、何度も小さな口付けを繰り返した。
くすぐったいような心地よさに、ぼくはこれ以上ない幸せな気持ちになる。
「・・・怖かったんだ」
「でも大丈夫だっただろ?」
ぼくはもう声を出すのも億劫なくらいに眠くて、うなづくのがやっとだった。
ギイが少し身体をずらして、ぼくが苦しくないようにと体勢を変えたようとした。
ギイが離れていく気がして、思わずぼくが目を開けて彼を見ると、ギイは大丈夫だよ、というようにキスをしてくれる。
それでまた安心してぼくは目を閉じた。
お互い何も言わずにしばらくそうしていて、ぼくがもう眠りに落ちる寸前、ギイがぽつりと言った。
「託生・・・」
「・・う・・・ん・・・?」
「なぁ、忘れるなよ?・・・ても・・オレは・・」
低く甘いギイの声が遠くで聞こえる。
そのままぼくはゆっくりと眠りに落ちていった。

その夜は、本当に久しぶりに何の夢も見ることなく、朝までぐっすりと眠れた。




ギイに背中を押されて、ようやく行けた兄の墓参りをきっかけに、ぼくはそれまで心の奥に深く深く抱え込んでいたひんやりと冷えていた気持ちが綺麗に消えていくのを感じていた。
あれほど重症だった嫌悪症さえ、嘘のようになくなった。
まるで魔法のように、ギイはぼくの心を軽くしてくれた。
けれど、ギイはまた別の意味でぼくの心を重くし、悩ませることになったのだ。

晴れて身も心も(?)本当の恋人同士になったのだから、ぼくとしてはこれでギイとの関係が少し落ち着くかなと思っていた。
何しろそれまで、ギイはぼくに対して「愛してる」のバーゲンセールだったのだ。
それは、ぼくがまだ嫌悪症を引きずっていて、ギイに触れられることを少しばかり躊躇っているということもあったし、もちろんキス以上なんてとんでもないことだったので、プラトニックな関係からぜんぜん先に進まなかったせいもあった。
つまりはすべてぼくのせいだったと思う。
好きな相手に手も出せずに平気でいられる男はいない、と断言するギイなので、きっと、ぼくの態度をもどかしく思っていたに違いない。
おまけにギイはぼくのことを相当どんくさいと思っている節があって(ほんと失礼だ)何を心配してるのか、片時も離れたくないとでもいうように一緒にいたがった。
まぁ好きな人と一緒にいられるのは嬉しいことには違いないけど、それでもきっと周りから見れば、かなり不思議な関係に見えただろう。
そりゃあ、本気でぼくたちが恋人同士だと思っている人間はほとんどいないだろうけど、疑われてもおかしくはないほどに、ギイの態度はあからさまだった。
ぼくはあんまり自分の思いを口にしない方だから、まぁギイの気持ちも分からないではなかったけれど、けれど、何ていうか・・・つまりちゃんと関係を持ったわけだから、ギイも「ほんとにオレのこと好きなのか?」なんていう見当違いな心配はしなくなるだろうなぁと思ったのだ。
愛してるのバーゲンセールもなくなるだろうし、必要以上にぼくと一緒にいるようなこともなくなるだろう、と。
そうなれば、ぼくはもうちょっと自分の気持ちに向き合って、これからどんな風にギイと付き合っていくか、ちゃんと考えられると思っていた。
けれど、そんなぼくの考えは間違っていた。
あの夜以来、ギイはそれまで以上にぼくに構うようになった。
そして、それはぼくのことを深く深く悩ませるようになっていったのだ。



その夜も、あまりにべたべたとくっついてくるギイに、ぼくはやや辟易して
「ギイ、そんなにくっついていたら、周りの人におかしく思われるよ」
と忠告すると、
「ここにいるの、オレとお前だけじゃんか。誰にも見られたりしてないだろ?」
「そう・・だけど・・・・」
「だいたいな、お前、もう名実ともにオレの恋人なんだぞ、分かってるのか?」
と、逆に言い返されてしまった。
「分かってるのか・・・って何が?」
ぼくが聞くと、はぁとわざとらしく大きくため息をついて、ギイはぼくを横目で見た。
「あのなぁ、ずっとプラトニックなお付き合いしてたけど、晴れて結ばれたわけだろ?オレたち」
「結ばれたって、恥ずかしい言い方するなよ」
ぼくは顔が熱くなった気がした。
どうしてギイはこういうことさらりと言えるのか不思議でならない。
育ちの違い?それとも生まれつきの性格なのだろうか??
ギイはまったく気にした風もなく、飄々と続ける。
「だからさ、今は蜜月なわけだろ?」
「蜜月?」
「そ。やっと本当の恋人同士。めちゃくちゃ幸せに浸っていい時期だよな?」
ギイがぼくの手を取って、その指先に口づける。
さながら童話の中の王子様のようなその仕草に、うっかり見惚れてしまったけれど、ぼくははっと我に返って、手を引っ込めた。
「だ、だけど・・・」
その時になって、やっとぼくは305号室が妙に甘い雰囲気になっていることに気づいた。
ぼくはベッドの上に座っていて、ギイは片膝を乗り上げ、ぼくへと身体を寄せている。

(ちょっと・・・これはまずいんじゃ・・・)

ギイの手がぼくの肩に置かれ、そのままゆっくりと押し倒される。
ぱたりとベッドに横たわったぼくの真上にギイの顔。その綺麗すぎるほどの造詣が近づいてくる。

(うわ・・・)

ぼくは思わずぎゅっと目を閉じた。

「・・・・・」
「・・・・・」

しばらくの沈黙。
おそるおそる目を開けると、ぼくの両脇に手をついたギイが、じーっとぼくを見つめていた。
「ギイ?」
「何でそんなに緊張するんだよ?」
「え、そんなこと・・ない、けど・・・」
「ふうん」
ギイの指先がぼくの前髪を払い、そのまま頬を滑った。シャツの襟元を撫でて、ボタンを外す。
「ギイ・・・ちょっと・・ま・・・っ・」
ぼくは慌ててギイの肩に手を突っ張る。けど、その手首は簡単に取られてシーツの上に押し付けられた。
馬鹿力のギイにはとても抗えない。
ぎしりベッドが軋んだ音を立て、体重をかけないようにしてギイがぼくの上に覆いかぶさってきた。
「なぁ、あれからもうどれくらいたったと思う?」
耳元にふわりとキスされて、ぼくは思わず身を竦めた。
「あ、あれから、って?」
「初めての夜から」
低く囁かれて、ぼくは一気に体温が上がったような気がした。
ぐるぐると考えて、
「・・・い、一週間・・・かな?」
小さく答えると、ギイは正解と笑った。
ぺろりと耳朶を舐められて、そのまま濡れた感触が首筋を這う。
ギイの冷たい指先がシャツの裾から潜り込んできて、ぼくは慌ててその手を掴んだ。
「やだ、ギイ」
「・・・・何で?」
「だって・・・まだこんな時間だし」
「消灯してからじゃたいして時間ないじゃん」
「でも廊下に人がいるし、誰か訪ねてくるかもしれないし、それに・・それに・・・」
必死に言い募ると、意外なことにギイはあっさりとその身を起こした。
「・・・しょうがないなぁ」
軽く肩をすくめると、苦笑しつつもギイはベッドから離れていった。
このまま強引に進められてしまうと思っていたぼくとしては、若干拍子抜けしたというかほっとしたというか。
何なんだろう、このもやもやとした気持ちは。
ギイは机の上に置かれたテキストを手早くまとめると、そのまま扉の方へと歩き出した。
「ギイ?」
「ちょっと出てくる。消灯までには戻るから」
「うん・・・」
彼が部屋を出ていってしまうと、ぼくは安堵感から思わずため息をついてしまった。
たぶんギイは外に用なんてないんだ。
気まずい状況をクールンダウンするために席を外してくれたのだ。それくらい鈍いぼくにだって分かる。
ぼくは両腕で身体を抱きしめて、ぎゅっと目を閉じた。
初めてギイに抱かれた夜から1週間。
その間、それまで通りキスをすることはあっても、その先へと進むことはなかった。
なかった、というか、進まなかったのはぼくがそれを拒んでいるからだ。
あの夜以降、ほとんど毎晩のように誘いをかけてくるギイから、ぼくはその都度逃げていた。
4月にギイに告白されて、表面上は恋人同士となったあとも、ぼくが一線を超えることを躊躇っていたのはギイに兄とのことを知られるのが怖かったからだ。
知られて、ギイに嫌われたらどうしようと思ったからだ。
けれど、すべてを打ち明けたあともギイの態度は変わらなかった。
過去もすべて含めて、ギイはぼくのことを愛していると言ってくれた。

その一言で、ぼくはそれまで抑えていた想いが一気に溢れてしまったのだ。

もう何も心配することなく、ギイを好きになっていいんだと思うと、それまで自覚していなかったギイへの想いを、嫌と言うほど思い知らされるようになってしまった。

そして怖くなった。

こんなにギイのことが好きで、ギイじゃなくちゃだめで。
自分の気持ちを隠そうとしないギイに呆れた顔を見せながら、だけど本当はぼくの方こそ呆れるくらいにギイのことを求めているのだ。
このまま、求められるままにギイのことを受け入れてしまったら、ぼくはきっとおかしくなってしまう。
触れられたら、あんな風に優しくされたら、もっともっとギイのことを好きになってしまう。

これ以上好きになったら、ぼくはいったいどうなってしまうんだろう。

こんなに誰かのことを好きになったのなんて初めてだったから、どうしていいか分からなかった。
すべてを受け入れてくれたギイのことが大切で、絶対に離れたくないと思い始めてて、失いたくないって、前にも増してそう思うようになってて。

ギイのこと、信じてないわけじゃないのに、それなのに、もしギイを失うことになったらどうしようと思う自分がいる。ギイはぼくから離れることはないんだって知ったばかりなのに、だからこそ失うことが怖くて、これ以上好きになることにセーブがかかる。

そんなことを考え出すと、とてもじゃないけど簡単に二度目をするような勇気は持てなかった。
すごく矛盾していると思う。だけど、まるで自分の心がコントロールできなかった。

「ギイ・・怒っちゃったかな・・」
初めての時はかなり強引にぼくのことを抱いたギイは、どういうわけかそのあとはぼくが嫌だというと、それ以上無理強いをすることはなかった。
いい加減呆れてるだろうなとは思うけれど、これ以上好きになるのが怖くてできないなんて、とてもじゃないけど口には出せなくて、ここ1週間、ギイに誘われるたびに、ぼくはいつも適当な言い訳をしては逃げていた。
もうそろそろ断る理由も尽きようというものだ。
たぶん、ギイも気づいている。
でもきっと、本当の理由には気づいていない。
ギイに好きだと言われるたびに、ぼくは嬉しくて、幸せで、そして少し怖くなるのだ。
「どうしよう・・・」
このままいつまでも何もしないわけにはいかないのだ。
わかってはいるけど、でもどうしていいか分からなかった。


消灯少し前に、言葉通り戻ってきたギイは、ぼくと目が合うとどこか気まずそうに視線を逸らした。
「おかえり、ギイ」
「ああ・・シャワー浴びる。先寝ろよ、託生」
「・・・うん」
「・・・・・」
浴室へと歩き出したギイだったけれど、扉の前で足を止めると、ゆっくりとぼくを振り返った。
そしてそのまま大股でぼくへ近づくと、ひどく真面目な顔で言った。
「託生、オレとセックスするのは嫌か?」
「えっ!!」
いきなりの直球の質問に、ぼくは一瞬その意味が分からなかった。一瞬後に理解したときはあまりにあからさまなその質問に、言葉を失った。
ギイはどこまでも真面目な表情で、ぼくの返事を待っている。
「嫌なのか?」
「・・・・あの・・・」
嫌じゃない。
だけどそう言えば、ギイはどうして自分を拒むのだ、と聞くだろう。
今の僕にはギイを避けている本当の理由を、ギイに分かってもらえるように説明できる自信もなくて・・・。

好きだから、これ以上好きになるのが怖いから・・・・

そんなこと面と向かって言えるはずもない。
言っても理解してもらえないかもしれない。
呆れられて愛想尽かされてしまうのは、すごく怖い。
ギイは小さく息を吐くと、黙り込むぼくの髪をくしゃりと撫でた。
「分かったよ。変なこと聞いて悪かった」
そしてそのまま浴室へと姿を消した。

(何が分かったんだよ?)

まるで突き放したようなギイの口調に不安と同時に憤りを感じてしまう。
だけど、それはぼくのせいだ。ギイは、何も悪くない。
悪いのはぼくの方だ。
わかっているのに、素直に・・・正直に自分の気持ちをギイに伝えることができない。


その日から、ギイはぼくに触れようとはしなくなった。


大喧嘩をしたわけじゃないので、ぼくとギイは傍から見ればいつも通りに見えたんじゃないかと思う。
朝一緒に登校して、昼食を共にして、放課後は別行動だけど、夜もまた一緒に食事をする。
何てことのない会話をして、笑って、ふざけて。
だけど、ぼくは2人の間にある違和感に気づいていた。

ギイはぼくに触れようとはしない。

まるで少し前の嫌悪症時代のぼくを扱うかのように、ギイは意識してぼくに触れようとはしてこない。
最初は気のせいかなと思った。けれど、それまで必要以上にくっつきたがっていたギイからは考えられないその態度に、やっぱり気のせいではないのだと気づいた。
夜もまるで何もなかったかのように、誘いをかけるわけでもなく、ギイはごくごく普通にぼくにおやすみと言って自分のベッドで眠った。
そんな日が数日続き、ぼくはますますギイに気持ちを伝えにくくなってしまっていた。
いつもならギイが絶妙のタイミングでぼくに声をかけ、それとなく思いを聞きだしてくれるのに、今回はそんな素振りはまったく見せない。
自分が悪いのだとは分かっていたけれど、ぼくは何となく気持ちが落ち込んでしまった。


「よ、葉山。何だ、一人か?ギイはどうした?」
顔を上げると、章三が夕食のトレイを手に立っている。ここいいか?と聞くと同時に前の席に腰を下ろす。
「赤池くん・・・」
「どうした、ぜんぜん食べてないじゃないか。今日のメニューは葉山の好きそうなものばかりだろ?」
「うん」
何となく食欲なくて、と言うと、章三は少し眉を顰めたけれど、特に理由を聞こうとはしなかった。
ということは、だいたいの予想はついているということだろう。何しろ章三はギイの相棒だ。時々羨ましくなるほどに、ギイとはツーカーの仲だ。
とはいうものの、さすがに今回のことはあのギイでも章三に話したりはしていないだろう。
何しろ章三は筋金入りのストレートで、ぼくとギイとの仲については一応反対の立場を表明しているのだ。
けれど、いつもぼくたちのことを心配してくれる。
言葉にしなくても、何があったかを察してくれて、救いの手を差し伸べてくれる。
ぼくも章三くらいに機微に聡ければ、こんな風に悩んだりせずに、ギイと気持ちが通じ合うことができるのだろうか。
「そういやもう体調はいいのか?」
「え?」
章三が夕食のハンバーグを口にしながら、ふと思い出したように聞いてきた。
「僕の目の前で倒れておいて、忘れたとか言うつもりじゃないだろうな」
「ああ、うん。もう大丈夫。ありがとう」
そうだった。眠れない日が続いて、ぼくは章三の前で貧血を起こしたのだ。
そのあと、ギイと・・・・。
思い出したら、急に恥ずかしくなってしまった。
別に章三が知っているわけでもないというのに。
「あの日からずいぶん元気になったと思っていたのに、最近元気がなさそうだから、また何かあったのかと思ってさ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫だっていうわりには顔色が良くないな」
「赤池君て、ほんとよく人のこと見てるよね」
「・・・・」
「何?」
章三がやれやれというようにぼくを軽く睨む。
「あのなぁ、僕だって別にそうしたくてしてるわけじゃないんだぞ。だいたい、ギイが・・・」
言いかけて、章三はしまったというように口を噤んだ。
「ギイが、どうしたの?」
「いや、気にするな」
「するよ」
ギイがいったい何なのだ?
「ギイに何か聞いたの?」
誤魔化されないぞ、と身を乗り出すと、章三は諦めて口を開いた。
「いや別に。ヤツからは何も聞いちゃいない。けど、お前ら2人を見てたら、つまらないことで喧嘩でもしたんだろうなってことくらい嫌でも分かる。二人とも妙にお互いを意識してるっていうか。犬も食わないから放っておくつもりだったが、ギイがな、妙に落ち込んでるから、もしかしたら意外と喧嘩の原因はヤツにあるのかと思ったり。そのくせ、自分から葉山に歩み寄る素振りは見せないし。ま、相変わらず葉山の心配ばかりしてるけどな」
「ぼくの心配?」
「葉山が最近元気ないから、だろ。心配してるわりに自分じゃどうしていいか分からないみたいで、僕に気をつけてくれってさ。あいつは僕のことを何だと思ってるんだろうね」
章三は心底うんざりしたような口調でそう言うと、温かいお茶を一口飲んだ。
「まったくお前らも痴話喧嘩なら他人を巻き込まずにやれよな」
「ごめん」
「素直だな。まぁいい。さっさと仲直りしてくれ」
「そうだね。でも・・・難しいな」
「?」

難しいよ。

恋愛って、こんなに難しいものだったんだ。
ただ好きってだけじゃだめなのかな。
ギイのこと、好きになればなるほど、ぼくは彼から離れていってしまうような気がしてならない。

そう思った瞬間、胸の奥がきしりと痛んだ。

だったらしょうがない、って昔のぼくならそう思ったに違いない。
何もかも諦めることが、ぼくが生きていく術だったから。
でも、もうそんな風に何かを諦めたくはない。
ギイのことを諦めてしまいたくない。
このままギイを失うのは嫌だ。
だけど、どうすれば・・・

「葉山」
「え?」
呼ばれて顔を上げると、章三がじっとぼくのことを見つめていた。
「前にも言ったけどな、ギイはお前さんが思っている以上に、ちゃんと葉山のことを想ってると思うぜ。一時の感情に流されて、葉山のことを好きになったわけじゃないと思うしな。僕たちの年齢じゃ考えられないような愛し方するから、葉山にしてみりゃ重いのかもしれないが、諦めろ」
章三はあっさりとそう言った。
「どうせヤツからは逃げられないぞ。ギイは葉山のこと、好きで好きでしょうがないみたいだからな。ほんと、僕には理解できないけれど、ギイが心底幸せそうだし、そんなヤツを見てると何を言っても無駄だろうなって思うしな。まぁ、僕が文句を言う筋合いでもないんだが」
「幸せそう?」
「どう見ても馬鹿みたいにな」
「・・・」
「どういうわけか今回はギイは仲直りするタイミングを逃してるみたいだし、たまには葉山から歩み寄ってやればどうだ?怒ってるわけじゃないんだろ?」
「うん・・・」
ぼくはうなづいた。怒ってるとすれば、それはぼくじゃなくて、ギイの方だろう。
章三はそんなぼくに笑った。
「ギイはさ、怖いくらいよく気がつくし、特に葉山のことに関しちゃ何でも先回りして答えを準備して、葉山が困らないようにするとこあるだろ?」
「うん」
「そういうの、慣れちまうと楽かもしれないけど、下手すると自分から動けなくなっちまうぜ。与えられた答えの中から選ぶんじゃなくて、葉山は葉山が考えたことで動かないとな」
「どういうこと?」
「だから、ギイにどう思われようと、葉山は自分の意思で動けってこと。大丈夫だよ、ギイは少々のことじゃ葉山に愛想尽かしたりしないから」

その言葉に、ぼくは瞠目する。
そうだった。
ぼくの過去を知っても、ギイは変わらなかった。

ずっと打ち明けられずにいた過去に比べたら、今ぼくがギイに対して考えていることなんて、ほんとにたいしたことないはずだ。

このまま、ぼくが動かなければきっと何も変わらない。
失うのが怖くて黙っていたら、結局彼を失うことになる。

ぼくが、ぼくの意思で動かなければ、いつまでもギイには気持ちは伝わらないのだ。
ぼくがどれくらいギイのことが好きか、きっとギイは知らない。
話してみようか。
ちゃんと、ギイに。上手く説明できる自信なんてない。だけど、笑われても、呆れられても、ぼくから動かなければきっとこのまま何も変わらない。

「ありがとう、赤池くん」
「さて、僕は何かしたか?」
わざとらしく章三は腕を組んで首を傾げる。
「ぼくにとってギイがどれくらい大切な存在かを思い出させてくれた」
「ふうん」
「赤池くんて、ほんとギイのいい相棒だよね」
ギイが困っているのを黙って見過ごすことなんて絶対にしそうにない。
こうやって知らないところで、きっと章三はギイのためにあれこれと動いているんだろう。
「別にギイのためだけにやってるわけじゃないぜ」
「え?」
章三は食べ終わったトレイを手にして立ち上がった。
「葉山のことも大切な友達だって思ってるよ」
「赤池くん・・・」
じゃあまたな、と章三は食堂をあとにした。
まさか章三がそんな風に考えてくれているなんて思ってもみなかったので、ぼくはぼんやりと章三の背中を見つめてしまった。
そして、彼の言葉が嬉しくて自然と笑みがこぼれた。
ほんと、ギイはいい相棒を持っている。



ちゃんとギイに自分の気持ちを伝えようと決めたぼくは、夕食もそこそこに食堂を出ると急いで305号室へ戻った。
けれど、当然というべきか、部屋にギイはいなかった。
いつも神出鬼没なギイだけれど、ぼくとぎくしゃくし始めてからは、さらに部屋にいない日が続いている。
ギイがどこにいるか、心当たりなんてまったくなくて、仕方がないのでこのまま部屋で彼が戻ってくるのを待つことにした。
待つ時間というのは実際の時間よりも長く感じるもので、ぼくは何度もくじけそうになる気持ちを奮い立たせなければならなかった。
大丈夫だって思ってるのに、それでもやっぱり好きな人にどう思われるかっていうのは・・・それもつまり、そういう行為について口に出して話をする、っていうのはぼくにはハードルが高すぎる。
そんなことをぐるぐる考えていると、やはり消灯間際になってギイが部屋に戻ってきた。
ぼくが風呂にも入らずにいることに、ギイは少し驚いたようだった。
「どうした、もうすぐ消灯だぞ?」
「ギイもね」
「確かに」
笑って、ギイはぼくの横を通り過ぎようとする。
ぼくは慌ててその背に声をかけた。
「待って、ギイ!」
「うん?」
答えるけれど、振り返りはしない。
ぼくは彼に歩み寄り、その腕を掴んだ。
「ギイ、ちゃんとこっち見て」
「託生・・・?」
ギイは不思議そうにぼくを見る。
「ギイ、話があるんだ」
「・・・ああ・・でも今日はもう遅いし、また明日にでも・・」
そっとぼくの手を解こうとするギイに、ぼくは説明のできない感情が一気に押し寄せてきた。
どこまでもぼくと距離を置こうとするギイに、息をするのも苦しいくらいに胸が締め付けられる。
そりゃ悪いのはぼくの方だけど、だけど話くらい聞いてくれたっていいじゃないか。

それともギイ、もう話もしたくないほどに、ぼくのことが嫌いになった?

「わかった」
「託生?」

ギイが訝しげにぼくを見る。

「分かったよ。もういい。もういいから」
ぼくは掴んでいたギイの腕から指を解いて、そのまま足早に305号室の扉へと駆け出した。
「おい、託生っ」
引き止めるギイの声をさえぎるようにして、開けた扉を勢いよく閉めた。


ぼくは、やみくもに廊下を走り、階段を降り、ホールを抜け、寮の外へと出た。
大きく肩で息をついて、暗闇の中、そのまま校舎の方へと歩き出す。
もちろん教室に用があるわけじゃなく、いずれぼくを探しにくるであろうギイから逃げるためならどこでも良かったのだ。

(何だよ、ギイの馬鹿。ぼくの気持ちも知らないで)

夜の校舎は当然施錠されていて中には入れない。
ぼくは入口への上がり階段に腰を下ろすと膝を抱えた。
「ギイの馬鹿」
口にして、だけどすぐに後悔する。本当は馬鹿なのはぼくの方だ。
分かってる。そんなこと百も承知だ。
最初にギイを怒らせたのはぼくの方だ。
ぼくの方から謝らなくてはいけなかったのに、あんな風に中途半端にギイのことを突き放してしまった。
ちゃんと話をしようって思っていたのに。
なのに、ギイに避けられて、ようやく奮い立たせていた勇気もまたなくなってしまった。
今度こそ、ギイに愛想尽かされても仕方がない。
抱えた膝に顔を埋めて溢れそうになる涙を堪えていたとき、
「こんなところで何やってるんだ、葉山」
懐中電灯の眩しい光がぼくを捉えた。
目を細めて見上げると、そこには階段長の奈良先輩と吉野先輩がいた。
奈良先輩はギイが尊敬している先輩の一人だ。
それまで直接話をしたことはなかったけれど、ギイと一緒にいる時にちょくちょく会うようになり、そのうち言葉を交わすようになり、今ではギイと一緒でなくても会えば話をするようになっていた。
年齢こそ一つしか違わないけれど、すごく落ち着いた雰囲気の人で、階段長として後輩たちからとても頼りにされ、信頼もされていた。
「こら、葉山。もう消灯してるんだぞ、こんなところで何やってるんだ?」
もう1人、荒っぽい口調の吉野先輩は、一見強面な人だけどとても気安くて、奈良先輩に負けず劣らずの人気のある先輩だった。吉野先輩もことあるごとにぼくに声をかけてくれる人なので、ついぼくは「先輩たちこそ、消灯後に何をされているんですか?」と聞き返してしまった。
すると奈良先輩と吉野先輩は互いに顔を見合わせて、ニヤリと笑った。
「デートの途中だ」
「えっ!」
想定外の返事にぼくがうろたえると、すぐに吉野先輩が吹き出した。見ると奈良先輩も笑いをこらえてぼくを見ている。どうやらからかわれたらしい。
「葉山は素直だなぁ。冗談だよ、どうして俺が奈良とデートなんかしなくちゃならねぇんだよ」
「それはこっちの台詞だ」
吉野先輩はひとしきり笑うと
「階段長の仕事の一つだよ。消灯後にふらふらしてるヤツを厳重に処罰するために、こうして抜き打ちで見回りをしてるんだよ」
と教えてくれた。
「そんな仕事があるんですね」
祠堂は良家の子息が集まるお坊ちゃん学校だが、何といっても年頃の男ばかりの寮生活だ。時々ハメを外して夜中に寮を抜け出して騒いでいる生徒たちもいるらしい。もちろん噂でしか聞いたことはないし目撃したこともないけれど。
「狙い目は土曜の夜だな。門限破りの連中がぞろぞろ捕まる」
どこか楽しそうな吉野先輩の言葉に、奈良先輩がしょうがないなというように肩をすくめる。
何となく和んだ雰囲気に、ぼくは少し気持ちが落ち着いてきた。そんなぼくの肩を、吉野先輩がぽんと叩いた。
「ということで、葉山は捕獲な」
「えっ!」
「奈良、お前、ゼロ番で説教してこい。見回りの続きは俺がしておくから」
「分かった。さ、行こうか、葉山」
「え、えっと」
どうしよう。まさかこんな抜き打ちチェックで捕まってしまうなんて思ってもみなかった。
かといって逃げ出すわけにもいかず、ぼくは3階のゼロ番へと連行されてしまった。

階段長の部屋は個室で、生徒たちからも相談にも対応できるようにと、部屋には小さいながらもソファセットが置かれている。初めて足を踏み入れたゼロ番は、ぼくたちの部屋とはまったく違う雰囲気で、ぼうは少しばかり怯んで戸口で立ちすくんでしまった。
「そこに座って。消灯すぎてるからコーヒーじゃない方がいいな」
奈良先輩はそういって、温かいお茶をもってきてくれた。
「ありがとうございます」
おずおずと受け取ると、奈良先輩は自分用のカップを片手に向かい側のソファに座った。
「そんなに緊張しなくても説教なんてしたりしないよ」
「え、だって・・」
「あんな泣きそうな顔して暗闇に座ってたら、誰だって心配になる」
「あ・・・」
そうか。だから吉野先輩もあんな風に・・・
なるほど。階段長に選ばれる人というのは、こういうことが普通にできるから、なんだ。
「ご心配かけてすみません・・・。あの・・・大丈夫ですから・・・」
「崎と喧嘩でもした?」
「・・・・っ!」
ずばりと言い当てられて、ぼくは一瞬言葉に詰まった。そしてそれを見逃すような奈良先輩ではなかった。
「珍しいな、喧嘩するなんて」
「そう、ですか?」
確かに大喧嘩はしたことないけれど、小さい口喧嘩なんてしょっちゅうだ。ギイはいつだってぼくのことをからかうのだから。
奈良先輩は自分用にと淹れたお茶を一口飲んだ。
「何が原因で喧嘩したんだ?」
「いえ・・・喧嘩じゃないです」
「じゃ崎に告白でもされた?」
「えっ!」
さらりと恐ろしい台詞を言われ、ぼくは今度こそ本当に言葉に窮した。
まさかギイとぼくとの関係を知った上での台詞なのだろうか。それともまたからかわれているのだろうか。
下手に答えるとまずのではないか、とさすがのぼくでも思った。そんなことを考えて黙っていたのだけれど黙り込むということは、それを認めることになるらしい。
「なぁ、葉山」
「はい」
「俺たちが階段長になって、一番最初に思ったことは何だと思う?」
「え?えっと・・・」
急に話を変えられて、ぼくは首を傾げた。階段長がいったいどういう仕事をするのか、正直言ってあまりよくわかっていなかった。こんな風に見回りをしていることだって、今夜初めて知ったのだ。
「階段長は、新学期が始まる時に一足先に寮の部屋割りを教えられるんだ。誰と誰が同室なのか、ってね。崎と葉山が同室だって知って、俺たちはみんなちょっと期待したんだよ」
「期待、ですか?」
「そう。もしかしたら葉山は変われるんじゃないかって。もちろんいい方向にね」
「・・・」
「葉山は一年の頃、不良ではない問題児としてみんなから距離を置かれていて、そんな葉山をどういう風に対応すればいいか、俺たち階段長はみんなで相談していたんだよ。新入生が入れば、葉山も先輩という立場になる。手本を示す立場の先輩が、集団生活を乱すようなことをしていれば後輩にも示しがつかない。俺たち階段長も能無しだと思われる。さてどうしたものか、ってね」
「す、すみません」
まさかそんなことが、知らないところで話し合われていたなんて、恥ずかしくて仕方ない。
「だけど、葉山の同室者が崎だとわかって、俺たちはもしかしたら、って思ったんだ。崎が級長体質で面倒見がいいからじゃない。あいつが葉山のことを本気で好きなんだろうなって思ったからだよ」
ぼくははっとして顔を上げた。
奈良先輩はギイとぼくとのことを知っている?
ぼくたちの関係がバレれば退学ものなわけで、ぼくは多分顔色が変わったんじゃないかと思う。
それを見て、奈良先輩は「葉山のせいじゃないよ」と小さく笑った。
「崎のやつ、一年の頃は頑張って気持ちを表に出さないようにしてたみたいだけど、二年になって同室になってからの浮かれようは見てて恥ずかしいくらいだったしな。だから葉山のせいでバレたわけじゃないよ」
それは安心していいのか悪いのか。
そりゃああれだけ人前で好きだの愛してるだの口にしてればバレない方がおかしいけど。
それでも大半の人は、ギイ独特の冗談だと思って受け流しているのだ。
いくら男子校だからといって、そうそう簡単にカップルができるとは誰も思っていない。
「崎を見てれば、どれほど葉山のことを大切にしてるかよくわかる。実際、新学期が始まって、葉山は変わった。人を寄せ付けない雰囲気もなくなって、よく笑うようになった。それまでのことなんて嘘みたいで、いったい崎はどんな魔法を使ったんだ、って階段長の間では笑い話になっている」
「・・・・」

(ほんとに魔法のようだよ、ギイ)

もう誰のことも愛せないと思っていたぼくに、ギイはそうじゃないと教えてくれた。

「崎に好きだって言われた?」
聞かれて、ぼくはこくんとうなづいた。
それは今夜の話ではないけれど、奈良先輩はきっとそれが原因で、ぼくが飛び出したと思ったんだろう。
ぼくがギイの告白にショックを受けたと思われたのかもしれない。
「葉山も崎が好きなんだろう?」
奈良先輩の言葉に、校則違反だと分かっていたけれど、ぼくは小さくうなづいた。それを見て、奈良先輩は安心したように優しく笑った。
「相思相愛。それなのに、あんな不安そうな顔をして部屋を飛び出すなんて、いったいどうしたんだ?」
どこまでも優しく、奈良先輩が聞いてくる。興味本位からではなく、心底ぼくたちのことを心配してくれていると分かったから、ぼくは素直に気持ちを打ち明けた。
「分からなくて・・・」
「うん?何が?」
「大切にされればされるほど、怖くなっていくんです。好きだって言われるのはすごく嬉しいのに、触れられるのも嫌じゃないのに、ギイがくれる愛情が真っ直ぐすぎて、どうしていいか分からなくなるんです」
ぼくはそんな風に誰かを愛したことがないから。
そんな風に誰かを愛せる自信もないから。
それがギイに悪い気がして。
ぼくの過去を知っても、変わらずぼくを愛していると言ってくれたギイ。
それまでの不安がすべて消えて、ぼくは前よりももっともっとギイのことを好きになっている。
それなのに、過去を知られてギイを失ったらどうしようと不安だった頃と同じように、ぼくはこんなに好きになった人を失うことがあったらどうしようと不安に思ってしまう。
ギイに抱かれると、好きの気持ちにさらに拍車がかかる。
これ以上好きになるのが怖い。
馬鹿みたいだ。
そんなことで悩んでいて、ギイに呆れられて嫌われたら、結局彼を失うことになるのに。
「まぁ、崎は何をするにもストレートなヤツだからなぁ。葉山がそれについていけなくて怖く感じるのも分からないではないかな」
奈良先輩は楽しそうに笑う。ぼくの気持ちが重くならないように、わざと軽い口調で言ってくれるのがわかって、ぼくは少し気が楽になる。
「なぁ葉山」
「はい」
「俺の立場で、校則違反を激励するのもどうかとは思うけど、校則なんてどうせここにいる間のことだからこの際考えないことにするとして、崎の葉山への気持ちは本物だと思うし、葉山だって同じだろ?でも、お互いに気持ちが通じ合っていても、相手のすべてを理解するのにはやっぱり時間がかかると思う。どう頑張ったって、相手は自分じゃない。育ってきた環境も考え方も違う他人なんだ。だけど、相手のことを大切だと思うなら、時間をかけてもちゃんと向き合って知ろうとしないとな。もし今、葉山が不安に思っていることがあるなら、ちゃんと崎に伝えなくちゃ。あいつはたとえ自分と考えが違ったとしても、簡単に突き放したりしないよ、特に相手が葉山ならなおさらだ」
「そう・・・ですね・・・」
うん、と奈良先輩はうなづいて、少し考えたあと静かに言った。
「こんなに広い世界の中で、ただ一人の人と出会えたことはすごい確率だよな。自分が好きになった人が自分のことを好きになってくれるなんて、奇跡みたいなことだと思わないかい?」
奈良先輩の言葉に、ぼくは胸の奥が熱くなるのを感じた。
ギイは、ぼくとは住む世界が違う人だった。
一年前のぼくは、まさかギイとこんな風に付き合うことになるなんて夢にも思わなかった。
ギイと出会えたことも、ギイのことを好きになったことも、ギイがぼくのことを好きだと言ってくれるのも、どれも奇跡に近いことだ。
「葉山は葉山なりに精一杯、相手のことを大切にして、好きになればそれでいいんじゃないのかな。葉山は崎じゃないんだ。どんなに考えたって、崎と同じにはなれないよ。同じになる必要もない。未来のことなんて誰にも分からない。ただ、あとで後悔しないように、好きだって気持ちを大切に、相手にちゃんと伝えるだけでいいんじゃないかな」
「だけど・・・」
「うん?」
「好きに、なりすぎたら・・・」
ぽつりと言ったぼくの言葉に、奈良先輩は楽しそうに笑った。
「何だ、そんなノロケが言えるくらいなら大丈夫だな。心配して損したかな」
そんなつもりじゃ、と言い掛けたとき、どんどんとゼロ番の扉が音を立てた。
奈良先輩がどうぞ、と声をかけると、勢いよく開いた扉の向こうに、ギイがいた。ぼくの姿を見ると、ほっとしたように肩で息をつく。
やっぱり探してくれていたんだ。
そう思うと、胸がぎゅっと痛くなった。
「こら崎、もう消灯してるぞ。何か用か?」
「吉野先輩に、ここだって聞いて」
そう言ってぼくを真っ直ぐに見つめる。
ギイは大きなストライドで部屋を横切ると、何の迷いもなくぼくの腕を掴んだ。
「ギイ・・・?」
「帰ろう、託生」
ギイらしくない、どこか自信なさそうな声色に、ぼくは自分がずいぶんとギイを心配させてしまったこと知る。
うなづくぼくの腕を引き上げると、ギイは奈良先輩を振り返った。
「託生は連れて帰ります」
「いいよ。もう話は終わったから」
「お邪魔しました。失礼します」
先輩への礼儀を忘れずに、ギイは頭を下げた。ぼくもそれにつられて頭を下げる。
「崎」
出て行こうとするギイに奈良先輩が声をかける。
ギイはぼくの腕をつかんだまま、振り返った。
「そんな怖い顔してたら、また葉山に逃げられるぞ。仲直りしたいなら、その眉間の皺、何とかした方がいい」
「・・・・失礼します」
大丈夫だよ、というように奈良先輩がぼくに片手を上げてみせる。
ギイに引きずられるようにして、ぼくはゼロ番をあとにした。
消灯後の寮は静まり返っている。暗い廊下を突き進み、305号室の扉を開けた。
「ギイ・・・離して・・・」
強くつかまれた腕が痛くて、ぼくはギイにそう言った。
ギイはゆっくりと手を離すと、大きくひとつ深呼吸した。
「お前・・・あんまり心配させるなよ・・・」
「あ、えっと・・・ごめ、ん・・・」
きっとあちこち探してくれたんだ。
ギイならそうするだろうって、分かってたのに。
「託生・・・オレ、怖い顔してるか?」
「え?」
さっき奈良先輩が言ったこと。確かにゼロ番に乗り込んできたギイは、怒った表情をしていた。
だけど今は、泣き出しそうな、そんな顔をしている。
「そんなこと、ないよ」
ぼくが言うと、
「そっか・・・」
と、ギイはほっとしたようにうなづいた。
ギイはぼくの手を引くと、彼のベッドに並んで座るようにぼくを促した。
顔も合わせずに、お互いがお互いの様子を伺うように二人して黙り込んでいた。
ぼくが意を決して口を開くのと、ギイがこっちを向くのが同時だった。

「ごめん、託生」

まっすぐに見つめられて、ぼくは言葉を失う。

「ごめんな」

気づいたら、ぼくはギイに抱きしめられていた。
甘い花の香り。
ぼくはゆっくりとギイの背中に手を回した。確かめるように彼のことを抱き返す。するとさらに強い力でギイが抱きしめてくれる。
久しぶりに感じる彼の体温が心地よかった。
そう思ったら、やっぱり馬鹿みたいにほっとして、どれだけギイが好きなのか思い出した。
触れられないことが寂しかったのだと思い知らされた。

「ギイ・・謝るのは・・ぼくの方だよ・・」
勝手に一人で考え込んで、ギイに何も告げずに彼を拒んで。
愛想つかされても仕方ないけど、でも・・
「託生、オレに話があるって言っただろ?」
「うん」
そっと身体を離して、ギイがどこか辛そうにぼくの瞳を覗き込む。
「それって、もしかして・・オレと別れたいとか・・そういう話だったりする?」
「え?」

別れたいって?
思いもしなかった言葉に、ぼくはしばし思考が止まる。

「ギイ・・・何、それ?」
「・・・違うのか?」
「・・・ギイこそ・・・もうぼくのこと・・・嫌いになったんじゃないの?」
「何で?そんなことあるわけないだろ?」
「・・・・・」
「・・・・・」

何だか良く分からないけど、お互いに微妙に話がずれているような気がする。
ギイもそれに気づいたみたいだった。
もちろん先に立ち直ったのはギイで、困ったな、と小さくつぶやくと、さらりと前髪をかきあげた。
「ギイ・・・どうしてそんなこと思ったの?」
別れたいだなんて、ぼくがそんなこと思うはずないのに。
ギイは信じられないものでも見るかのように、ぼくを凝視した。
「どうして?って、そりゃあれだけ避けられまくったら、誰でもそう思うだろ?お前、オレのことめちゃくちゃ避けてたじゃないか」
「え、あ、うん・・・そう、なんだけど・・・だけど、ギイだってずっとぼくのこと避けてたじゃないか。さっきだってぼくの話を聞こうとしなかったし」
「別れたいって言われるんじゃないかって思ったら、話なんて聞く気にはなれなくてさ・・・」
ギイはあらぬ方を見つつ小さくつぶやく。
「そんなこと言わないよ・・・もしそうだとしても、話を聞こうとしないなんてギイらしくない」
「あー、そうだよな、うん・・・託生の言うとおりだな」
ギイは深々とため息をつくと、ぼくから視線を外して少しの逡巡のあと口を開いた。
「あの夜からさ、オレ、相当浮かれてて、毎晩託生に誘いかけてただろ?何ていうか、オレにしてみりゃそれが普通っていうか、晴れて恋人同士になれたんだから、そりゃもう毎晩でも託生に触れてたいっていうか・・。はしゃぎすぎだって分かってても抑えがきかなくってさ・・・」
「・・・・」
「でも託生にずっと拒まれて、もしかしたらオレ、身体目当てで託生に手を出したって思われてるんじゃないか、って不安になってさ」
「え?」

何だか、今おかしな単語を聞いた気がする。
身体目当て、って何だ?

「それだけが目的じゃないか、って託生が思ってて、それで嫌がられてるのかなって。だってお前オレとセックスするの嫌いかって聞いたときも黙ってたし。だから、そうじゃないって分かってもらうためにも、しばらく託生に触らないようにしようって思って。そのせいで託生に嫌われたくないしさ」
何とも言えない複雑そうな表情をしたギイが伺うようにぼくを見る。
ぼくはそんなギイの頬を、ぺちんと両手で挟みうちした。
いきなりのぼくからの攻撃にギイが大きく目を見開く。
「・・・っ、託生?」
「あのさ、ギイ」
ぼくはギイの頬に触れたまま、まっすぐに彼を見つめ返して強い口調で言った。
「女の子じゃないんだから、身体目当てじゃないかなんて思わないよ」
「・・・」
「そんなこと、一度だって考えたことない」
「・・・託生」
いつも自信満々で、怖いものなんてこの世にないかのように見えるギイが、まさかそんなことを考えているなんて思いもしなかったから、ぼくはてっきり嫌われてしまったかと思っていた。
「馬鹿だ、ギイ・・」
「・・・じゃあ託生は、どうしてオレのことあんなに避けてたんだよ」
そっとぼくの両手を外して、今度はギイが憮然とぼくを見つめ返す。
「それは・・・」
「それは?」
逃げるのは許さないとばかりにギイがにじり寄る。
「ギイ・・・怒らない?」
「・・・怒らないよ」
「呆れたり、笑ったり、それから・・・」
「呆れたりも笑ったりもしないから、ちゃんと説明してくれ、託生」
ぼくはうんとうなづいて、それでも少し考えたあとに思っていたことを口にした。
「だって・・ギイのこと・・・もっと好きになっちゃうから・・・」
「・・・・」
「・・・・」
「はい?」
さすがのギイでもすぐには理解できなかったようで、瞬きを繰り返す。
ぼくはかーっと顔が火照るのを感じながら、それでも頑張って気持ちを伝えようと言葉を選ぶ。
「だから・・・っ、ギイにとっては、ぜんぜん普通のことかもしれないけど、ぼくはギイと・・・した・・・こと・・・で・・・世界が180度変わったから。ギイのこと、前よりもっと・・好きになって。気持ちに歯止めがきかなくて。どうしたらいいか、分からなくて・・・。それなのに、またギイとそういうことしたら、今よりもっと、ギイのこと好きになってしまうから・・・、もっともっとギイのこと欲しくなって、おかしくなりそうで、そんな風になって・・・それなのにもし、ギイを失うことになったら、って思ったら、・・・怖くて・・・どうしたらいいか分からなくて・・・だって、ギイのこと・・・っ」
「託生・・・」
自分でも言ってることが支離滅裂で、こんなんじゃとてもギイに分かってもらえない、と思うと知らないうちに涙があふれた。
泣き顔を見られるのが嫌でうつむいたぼくの額に、ギイがこつんと自分の額をぶつける。

「なぁ託生、オレのこと好き?」
「・・・好、きだよ」
「オレとキスするのは好き?」
「・・・うん」
「じゃあオレとセックスするのは、嫌いじゃない?」
「・・・っ」
優しい声に、ぼくは小さくうなづいた。

嫌いじゃない。

ギイに触れられることも、キスすることも、肌を重ねることも、誰よりもギイを近くに感じられるから。
だから嫌いじゃない。

「それなのに、何で悩むのかなぁ、託生くんは」
好きな人と触れ合いたいって、すごく単純で簡単なことなのに。
どこか楽しそうな声色で、ギイがぼくの濡れた頬に触れる。
「いいじゃん。オレのこともっと好きになれよ。オレのこと、もっともっと欲しいって思ってくれよ。どれだけ託生がオレのこと好きになっても、オレはそれ以上に託生のことが好きだから。オレのこと失うかもしれないなんて思う必要ないんだよ。そんな心配、これから先だって必要ないんだよ。オレが託生から離れることなんて絶対にないんだから」
「でも・・・」
「愛してるって言っただろ」
ぼくはゆっくりと顔を上げた。

愛してるって、どういう意味が分かるか?

以前、ギイが言った言葉。
あの時のぼくにはよく分からなかったけれど、今は少し分かる気がする。

一度キスしたら二度目が欲しくて。
一度一緒に夜を過ごしたら、もう次が待ち遠しくて。

その声を聞くだけで幸せになれて、視線があうだけで身体が熱くなって。
もっともっと好きになって、自分でもどうしようもなくなる。

そういうのが誰かを愛しているということなんだと、今なら分かる。

溢れる涙を見られないように、ぼくはギイの首に両手を回しその肩先に頬を寄せた。ギイはぼくをぎゅっと抱きしめて、ぽんぽんと背中をたたく。しばらくそうして抱き合って、濡れた頬を拭ってくれたギイは、少し決まり悪げな表情を見せて、早口で言った。
「オレも悪かったよ。託生には託生のペースがあって、いろいろ考えることもあるもんな。だけど、見当違いな心配をして一人で勝手に悩んだりするなよな」
「・・・うん」
ぼくはうなづく。
よし、とギイはいつもの笑顔を見せて、ぼくの頬をきゅっと抓んだ。
「オレもちょっと浮かれすぎてたって反省したよ。だめだよなぁ、託生のことになるとどうも余裕がなくなるっていうか何ていうか・・・」
「そうなんだ」
くすっと笑ったぼくに、ギイもまた笑う。
くすぐったいような、それでいてちょっと照れくさいようなそんな気持ちで胸がいっぱいになる。
「愛してるよ、託生」
ギイがそっとぼくに口づける。
「何があっても、オレは託生のことを愛してるから」

だから何も心配しないで、もっとオレのこと好きになって

そんな言葉が、ふいに何の前触れもなくよみがえった。
それは初めてギイに抱かれた夜、眠りに落ちる寸前にギイが言った言葉。

忘れるなよ。

そう言われたのに。
それなのに。

「ごめんね、ギイ」
何も心配しなくていい、って、ちゃんとギイはそう言ってくれていたのに、ぼくは覚えていなかったんだ。
覚えていたら、こんな風にすれ違うこともなかったのに。
やっぱりすべての原因はぼくにあったのかと思うと、ほんと自分が嫌になる。
「・・・・・」
「ギイ?」
ギイは片手で目元を隠すと、低く唸った。
「あー。いま理性と戦ってるところ。頼むから、そういうぐらぐらくるような目でオレを見るな」
我慢できなくなるから。とため息をつく。
ぼくはちょっと言葉に詰まって、でも勇気を出してそっとギイの肩に手を置いた。
「えっと・・・ギイ・・?」
「うん?」
「我慢・・・しなくてもいいから・・・あの・・・二回目・・・しよう・・・」
声が知らずに小さく小さくなってしまうのは、もうしょうがないことで。穴があったら入りたいっていうのはこういうことだろうけど、でもたぶん、ぼくから言わなければ始まらないのだ。
これはぼくの意思。
何も心配しないで好きになっていいと教えてくれたギイのため、ぼくはギイのことが大好きなんだと伝えなくちゃいけないんだ。 

「・・・好きだよ、ギイ」

ギイはぼくの言葉に一瞬瞠目して、そして綺麗に微笑んだ。






ギイと過ごした二度目の夜は、ぼくにとっては忘れられない夜になった。
初めての時以上に、大切に大切に愛されたぼくは、やっぱりもっとギイのことを好きになっていくのをとめることはできなかったけれど、もう怖いと思うことはなかった。

あれほど不安に思っていたというのに、すごく不思議だなぁと思ったけれど、たぶん、ぼくがおかしなことを考えると、ギイまでおかしなことを考えてしまうのだということが分かり、「二人して共倒れにならないように気をつけよう」なんてギイが冗談めかして言ったことで、気持ちがすとんと落ち着いたからだと思う。 

誰かを好きになるということの意味を、ぼくはまだちゃんと分かっていないのかもしれない。

ギイは「何があっても、オレは託生のことを愛してる」と言った。
実際、ぼくの過去を聞いても、ギイは逃げなかった。
ギイの言葉に嘘はない。
それがギイにとっての愛してるということなのだろう。

じゃあぼくは?
ぼくにとって愛するということはどういうことなのだろう、と考えたとき、答えはたった一つしか思い浮かばなかった。

ぼくは、そんなギイを、何があっても信じよう。
愛しているというギイの言葉を、何があっても信じよう。

不安も心配もしなくていい。

ぼくはただギイのことを信じる。

それがぼくの、愛するということ。



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あとがき

初めてよりも断然恥ずかしい二回目の夜ってのをがっつり書こうと思って書き始めたお話だったのに、結局そこは書かずじまい。  おまけ→豆話「その朝」