このお話は以前豆話で書いた「フランスにて」の続き(?)です。
でも未読でも問題ないと思います。 ギイと一緒に暮らすようになってしばらくたった頃、フランスにいるギイのお祖父さんのところへ遊びに行こうかということになった。 ギイのご両親にはもう挨拶済みで、ぼくとしては高い高いハードルはもう越えたつもりでいたのに、ここへきてまた新たなハードル登場である。 もちろん会いたくないということではなくて、単に緊張するから心の準備が必要なのだ。 ギイはクォーターで、お母さんはフランス人と日本人のハーフ。つまりお祖父さんはフランス人だ。 日本語だって怪しいとギイに言われているぼくがフランス語なんて話せるはずもなく、どうやってコミュニケーションを取ればいいのだろうかと悩んでいると、 「うちの祖父さん、日本語話せるから安心しろ」 とギイに笑われた。 「ねぇ、ギイとぼくが、その・・・恋人同士なんだってこと、お祖父さんは知ってるの?」 「知ってる。実はずいぶん早い時に、託生のことは話してたんだ」 ギイはちょっと困ったような笑みを浮かべた。 「託生のこと、ずっと好きだったことを知ってたのは佐智くらいなもんだけど、実は祖父さんには話してたんだ。小さい頃からオレのことはすごく可愛がってくれてたし、何ていうか、たいていのことは受け入れてくれる人なんだよ。オレのしたいことを否定したりしないし、かといって甘やかすっていうのとはちょっと違って、まぁ不思議な人なんだよ」 「・・・想像できないな」 「うん。だから会うのがいいかなと思って。祖父さんもずっと託生に会いたいって言ってたし、託生もきっと好きになるよ」 ギイが言うのならきっとそうなんだろう。 次の休みに行こうかということになり、ぼくたちは初めてギイのお祖父さんの住むフランスへと旅行がてら行くことになった。 「新婚旅行っぽいな」 「え?そうなの?」 今までだって旅行なんて何度もしてるし、今さら新婚旅行ってことはないだろう。 ていうか、別に結婚したわけでもないし。 いや、一緒に住むようになったのだからそういうことなのだろうか。 飛行機に乗ってる間中、ニヤニヤとしていたギイのことは放っておいて、ぼくはせめて挨拶くらいはフランス語で、と思ってずっとガイドブックを読みふけっていた。 長いフライトの末たどり着いた異国の地。 ぼくはフランスの地は初めてで、アメリカとはまた違う海外の雰囲気に圧倒されていた。 ヨーロッパの街並みはどこを見てもすごく素敵だ。 石畳の道も最初は歩きにくいなと思ったけれど、慣れると何だか楽しくなってくる。 フランス語はぜんぜん読めないから余計な情報が入ってこない分、自分の目で見る風景だけを楽しむことができる。 英語はもちろんフランス語も堪能なギイのおかげで何ひとつ不自由することがない、というのもありがたかった。何しろ通訳兼ガイドとして、ギイはほんとにパーフェクトなのだ。 ギイのお祖父さんはフランスの中心部からは少し離れた郊外に住んでいる。 車で1時間ほどだというので、レンタカーで向かうことになった。運転はもちろんギイだ。ぼくも免許は持っているけど、さすがに初めてのフランスで運転できるほど怖いもの知らずじゃない。左ハンドルというのも慣れないとちょっと怖いし。 ギイは海外での運転も慣れているので当然のように運転手を引き受けてくれた。 フランスの中心部から離れていくと何とも長閑な風景が広がる。日本と同じようでいて、やっぱり何かが違う。車窓から見る風景もどれもぼくを魅了した。 「気に入ったみたいだな」 「うん。フランスってすごく綺麗なところだね」 「そうだなぁ。ま、街中はごちゃっとしてるところも多くて東京と何も変わらないけど、地方の方がその国の色が残っているのかもしれないな」 小一時間ほど車を走らせると、お祖父さんが住んでいる町へと到着した。 パリとは違ってすごく静かな町で、家はどれも古いものばかりだけど、それもまた趣きがあって魅力的だった。 「綺麗な町だね。何だか絵本の中にいるみたいだ」 「田舎だけどな」 狭い路地を、ギイは危なげなく車を進めて、花でいっぱい飾られた小さな一軒家の前で車を止めた。 「ここだよ」 「うん」 超がつくほどのお金持ちのギイのお祖父さんだから、もっと豪邸を想像していたのだけれど、目の前に現れた家はいっそ質素と言っていいほどの家だった。 ギイは慣れた様子で門を開けて中へと入った。当然玄関から、と思っていたのにそのまま中庭の方へと歩いていく。 「ギイ、そっちでいいの?」 「いいのいいの。この時間なら庭で日向ぼっこだろ。こんにちわー」 ギイの後ろをついていくと、庭先に置かれた椅子に座っていた老人が顔を上げた。 (うわ、ギイのお祖父さんだ) 一瞬で分かるほどに、彼はギイに似ていた。いや、違う。ギイがお祖父さんに似ているんだ。映画の中に出てきそうなロマンスグレイという言葉がぴったり似合いそうなお祖父さん。 「おお、ギイ、きたか」 「久しぶり」 椅子から立ち上がったお祖父さんをギイがぎゅっと抱きしめる。 ぽんぽんと優しく背を叩き、お祖父さんは嬉しそうにギイを抱き返した。 ギイを同じくらいの背丈はあるけれど、もっとがっちりとしている。 日本だとお祖父さんくらいの年齢だとすごく小さいイメージがあるけど、ぜんぜん違うなぁと二人の抱擁を見ながら思った。 お祖父さんはギイとのひとしきりの抱擁のあと顔を上げると、ぼくを見た。 ぼくは慌ててぺこりと頭を下げた。 「じいさん、託生だよ。オレの大切な人」 「あ、はじめまして、葉山託生です」 飛行機の中で必死になって覚えた拙いフランス語で挨拶をしてみる。 するとお祖父さんは嬉しそうに頷いて、ぼくの方へと歩み寄り、そしてさっきギイにしたのと同じようにぎゅっとぼくを抱きしめた。 「よく来たね。遠いところ大変だっただろう」 日本語が話せるとギイが言った通り、流暢な日本語でそう言って、ぼくの背を優しくぽんぽんと叩く。 「さぁよく顔を見せておくれ」 お祖父さんはぼくから一歩離れるとそれこそ頭のてっぺんからつま先まで、うんうんとうなづきながら眺めた。 こんな風に誰かに見られたことなんて初めて何とも居心地が悪い。だけど決して嫌な視線ではなくて、どこか優しく照れくさいものだ。 「うん、そうか。きみが託生くんか。ずっと会いたいと思っていたんだよ。よく来てくれたね」 お祖父さんは嬉しそう笑った。ぼくもほっとして微笑んだ。 「とりあえず中入ろう。ばあさんは?」 ギイが二人を促して、庭から続く開け放しの窓から中を覗き込んだ。 こんなところからお邪魔していいのだろうかと思いつつ、お祖父さんに連れられて家の中へと入った。 中は綺麗に片付けられていて、可愛らしい小物がそこかしこに飾られている。 たぶんお祖母さんの趣味なのだろう。手作りと思えるものもあるから、そういうのが得意なのかもしれない。 「まぁまぁ、よく来たわね、ギイ」 キッチンらしき場所から現れたお祖母さんは見るからに日本のお祖母さんという感じだ。お祖父さんとは対照的に小さくてころっとしている。 お祖母さんはにこにこと優しい笑顔でぼくのことも歓迎してくれた。 どうやらお祖父さんにもお祖母さんにも受け入れてもらえたようで、まずは一安心。 ギイが祖父母に会うのも久しぶりだということで、しばらく3人は再会の喜びを分かち合っていた。 「日本からフランスまでは遠かったでしょ?おまけにここはパリからも少し離れているし」 お祖母さんが淹れてくれたコーヒーをご馳走になりながら、ぼくたちは一緒に暮らし始めてからのことや、仕事のこと、日々の暮らしでの出来事など、とりとめもない話を楽しく続けた。 お祖父さんはすでに仕事は引退していて、地域のボランティアなどをしているらしい。 お祖母さんは合唱団に入っていて、毎日のように仲間たちと集まって歌の練習をしているというから2人とも音楽が好きなんだなぁと少し嬉しくなる。 「託生さんはバイオリンを弾かれるんでしょう?ぜひ一曲弾いていただきたいわ」 「おお、それはいい」 お祖父さんもぽんと手を打つ。 「ギイは頭のいい子だけど、音楽に関しては全然ダメだものね」 お祖母さんがギイを見て揶揄う。 「いやいや、オレだってその気になればトライアングルくらいは演奏できる」 「トライアングルなんて叩けばいいだけじゃない」 「それがそうでもなくてさ、叩く場所によって音が違うんだよなぁ、な、託生?」 「うん、そうだね」 ずいぶん前に、ちょっとしたイベントに参加するためにみんなで練習したことのことを思い出して笑いが漏れた。耳だけはいいギイなので、トライアングルをあちこち叩いては音が違うといって首をひねっていた。 お祖父さんはそのまま立ち上がると隣室からバイオリンケースを手に戻ってきた。 「実は昔少しだけバイオリンを弾いていたことがあってね、だが才能がなくて上達しなかった。夢を娘に託したが結局あまり興味を持ってもらえなくて。じゃあ孫のギイにと希望を託したが、音楽の才能はまったくダメでがっかりしたものだよ」 「だからさ、きっと家系的に音楽には向いてないんだって」 ギイが苦笑してバイオリンを受け取り、そのままぼくへと差し出す。 ぼくがギイから永久貸与してもらっているストラドのような名器ではないけれど、お祖父さんのバイオリンは大切に使っていたことが分かる年代物だった。 「今でもたまに弾くから、メンテナンスはできているはずだよ」 「はい。すごく大切にされているのが分かります」 バイオリン自体は古いものだけれど、少しも傷んでもいないし十分弾ける状態にある。 お祖父さんは嬉しそうにうなづいた。 「託生さん、何か一曲弾いてくださる?」 「はい。えっと、それほど上手じゃないんですけど・・・」 あまり期待されてがっかりされるのも辛いので、一応最初に断っておいて、肩に当てて音を合わせる。 「じゃあ始めます」 ぼくは小さく深呼吸をして、音を鳴らした。 選んだ曲は「タイスの瞑想曲」。フランスの作曲家の名曲で、個人的にも好きな曲だ。 お祖父さんもお祖母さんも目を閉じて静かに曲に聞き入っていた。 何とか最後まで弾き終えると、ほぉと感心したようなため息とともに、大きな拍手をしてもらえた。 昔に比べれば人前で弾くことにさほど抵抗はなくなっていて、むしろ適度な緊張感が心地よくさえ思えてくる。ぼくはほっと力を抜いて、ぺこりとお辞儀をした。 「素晴らしい。自分で弾いてもこんないい音はしないのに、同じバイオリンだとは思えないな。やっぱり弾く人が違うとこんなに変わるものなんだなぁ。うん、よかった。とてもよかった」 「本当に。ギイは毎日こんな素敵な音楽を聞けるのねぇ、羨ましいわ」 「いや、そんな毎日は聞いてないって。だけど、オレも託生のバイオリンは大好きだよ」 賞賛の嵐にぼくは恥ずかしくて仕方なかった。そりゃあ一応音大を卒業して、今もバイオリンは弾いているのだから少しは人に聞かせることができるとは思うけれど、何しろここの人たちは佐智さんの音を聞いている人ばかりなのだから、浮かれてはいけないのだ。 そのあとは音楽談義に花が咲き、ギイは少しばかり仲間外れぽくなってしまって、おまけにギイも何か楽器でもやればいいのに、と3人から言われて辟易していた。 「託生さん、今日の夕食は楽しみにしていてね。腕によりをかけて美味しいものを作るから」 「あ、ありがとうございます」 今日は一晩ここに泊まることになっている。 宿をとっているパリとの間で日帰りすることもできたけど、ギイにしてみれば久しぶりに会う祖父母と積もる話もあるだろうし、ということで一泊させてもらうことになったのだ。 お祖母さんがキッチンに戻ると、男3人が残された。 リビングをぐるりと見渡すと、海外の家らしくあちこちに家族写真が飾られている。 「写真を見せていただいていもいいですか?」 「もちろん」 ぼくは飾り棚の上の写真を一つ一つ見ていった。 ギイのお母さんの小さな時の写真から、大人になった姿。結婚式の写真。 この家の歴史を物語る写真は見ているだけで微笑ましい。 そしてギイの写真。たくさんあって、ああすごく愛されてるんだなぁと思った。 「可愛い」 ギイは小さい時からすごく綺麗な顔立ちをしている。睫毛が長くて、肌が白くて、今よりもずっと髪の色は薄くて、女の子みたいに見える。 そして絵利子ちゃんと二人の写真。いくつくらいかな。10歳くらい?絵利子ちゃんもすごく可愛いし、これはきっと自慢の孫だったに違いない。 「ギイ、あとで写真を撮ろうじゃないか。託生さんもせっかく訪ねてきてくれたんだし、記念に4人で写真を撮ろう。とっておきのフォトフレームがあるからそこに飾ろう」 「そうだね」 お祖父さんの言葉にギイは頷いた。 ぼくも一緒でいいのだろうか。ギイを見ると、ギイは笑ってうなづいた。 祠堂にいた頃は極力写真を避けていたギイだけれど、成人してからはそこまでの拒否反応は示さず、少なくともぼくと一緒の写真はけっこう撮っている。 この家にある数多くの写真たち。 これはお祖父さんたちが過ごしてきた幸せな時間の証だ。 その中に、今度はぼくも入れてもらうことになる。 大切な孫であるギイの恋人として。 それはすごく嬉しいことだけど、何だかちょっと申し訳ないような気にもなる。 もしギイが普通に女の人と結婚していれば、この写真の中にはギイの子供が加わり、また歴史が続いていく。だけどぼくと一緒にいる限り、それは無理な話だ。そう思うと何だか切ない気にもなる。 もちろん今さらそのことを理由にギイと別れるなんて考えたりはしないし、ギイだってそれは同じだろう。 だけど、ぼくたち2人がそれでいいと納得していることでも、両親や祖父母にとってはそう思えないこともあるのだ。 いつもは忘れているけれど、何かの拍子にそんな小さな痛みに心が揺れる。 「託生、夕食まで少し部屋でゆっくりしよう。長旅だったし疲れただろう?」 ギイがそっとぼくの腕を引く。 お祖父さんもそうしなさいと言ってくれたので、ぼくたちは今夜泊めてもらう客間へと引き上げた。 「疲れたか?」 「うーん、そうでもないよ。お祖父さんもお祖母さんも素敵な人だね。優しいし、お祖父さんはギイとそっくりだね。びっくりした」 「だよな。隔世遺伝かな。オレってじいさんの血が色濃く出てるよなー」 ばふんとベッドに横になって、ギイは目を閉じた。 「ギイこそ疲れたんじゃない?休み前までずっと仕事だったから」 それなのにパリについてすぐに車でここまで運転してきたのだから。 ギイはうーんと低く唸った。 「いや疲れてはないけど、単に寝不足。ほら、飛行機の中でやってた映画見ちゃったからさ。あの時託生みたいにちゃんと寝てればよかったよ」 「はは、じゃあ少し眠れば?ぼくは適当にしてるから大丈夫だよ」 「そっか?退屈しないか?」 「大丈夫。ぼくだけでもお祖父さんは話し相手になってくれるかな」 「そりゃ大歓迎だろ。祖父さん、託生のことやっぱり気に入ったみたいだし」 そうかな。だといいんだけど。 ギイが眠ってしまうと、ぼくは音をさせないように荷物を片付けることにした。 荷物といっても一泊だけなので大したものはない。 洋服だけ皺にならないようにカバンから取り出して、クローゼットのハンガーにかけた。 夕食の時間までまだ少しありそうだなぁ、どうしようかなぁと思った。 窓の外を見て、少し散歩しようかなという気になった。 何しろフランスは初めての地だし、ここは長閑というかすごく景色も綺麗だ。 せっかく時間もあることだから地元の町並みを堪能してみよう。 ぼくはそう決めると、そっと部屋を出て階下へ降りた。 「おや、どうしたんだい」 ぼくの姿に気づいたお祖父さんが声をかけてくれた。 「あ、ちょっと近所を散歩してみようかと思って。すごく綺麗な町だし、ギイは寝不足みたいで眠っちゃったんで」 「ああ、そりゃあ退屈だな。じゃあ迷惑でなければ一緒に散歩に行こうか。これといった名所はないがそれでも少しは案内できるところもある」 「え、いいんですか?」 「もちろん。ああでも、託生さんと二人きりで出かけたなんて言ったら、ギイがヤキモチを妬くかな。まぁ妬かせておこうか。恋人を放って一人で昼寝なんてした罰だな、うんうん」 お祖父さんは茶目っ気たっぷりにウィンクした。 「あ、いや、放ってっていうか、ぼくが眠っていいよって言ったからで、べつにギイが悪いんじゃ・・」 慌てて言うと、お祖父さんは目を見開いてそれから楽しそうに笑った。 「いやいや、本当に託生さんは聞いていた通りの人だな。さ、じゃあ出かけようか」 お祖父さんはキッチンで夕食の準備をしているお祖母さんに一声かけ、ぼくの散歩の付き合ってくれた。 観光地というわけではないので特に見るべき建物などはないのだけれど、と前置きをしてお祖父さんはそれでも目に入るものを丁寧に説明してくれた。 「ギイは仕事ばかりして、託生さんを寂しがらせたりはしてないかな?」 「大丈夫です。日本とアメリカで離れていた時は分かりませんけど、一緒に暮らすようになってからは、ちゃんと休みも取っているし。逆に、ぼくのためにやりたいことをセーブしてるんじゃないかなって思うくらいで」 「日本人は働きすぎだから、もっと自分たちのために休むべきだと思うがね。人生は一度きりだし、仕事に追われて大切な人と過ごす時間を疎かにするのはもったいないことだよ」 確かにそうだなと思う。 ぼくはギイほど忙しい毎日を送っているわけじゃないけれど、やっぱり仕事優先になりがちだし、そういうのが普通だと思っている。 だけど、自分にとって大切なものが何なのかはちゃんと考えないといけないとも思う。 しばらく歩いていると、お祖父さんはカフェでテイクアウトのお茶を買ってくれた。 「託生さんのことはずいぶん前からギイから聞いていたんだよ」 少し休憩しようか、とお祖父さんは川沿いにあるベンチに腰を下ろした。 「ギイは小さい時は大人しい子でね、たぶん今の彼からは想像できないだろうが、どちらかというとすぐに人の後ろに隠れてしまうような子だった。今思えば、あんな小さな頃からでも、いろんなことを見えてしまっていたんだなぁと思うんだよ。頭のいい子でね、親の仕事のせいで幼い頃から大人の世界にいたし、見たくもない人の気持ちの裏まで感じとってしまってたんだろう。父親は出来のいい長男に小さい時から期待をしていたし、まぁその期待に応えられるだけのものはあったんだろうが、子供らしい子供でいて欲しいと思って、ここに遊びにきた時は彼の好きにさせていたよ。何も求めずにね。ある時、ギイがひどく興奮した面持ちで、日本で出会った子のことを話してくれた。エリーのことを助けてくれた子と友達になりたいけれど、どうすればいいかって。まぁ名前も知らない子にもう一度会えることすら難しいだろうとは思ったが、だけどもちろんチャンスはゼロじゃない。諦めたらそこで終わりだからね。まずは日本語をちゃんと学ぶこと。だって相手は日本人だからね。そして日本に留学したいのなら、さっさと必要な単位を取って自由な時間を手に入れればいいとも言ったよ。何しろギイの父親は、ギイに早く仕事を継がせたいと思っていたし、普通に学生時代を送っていては日本に留学なんてできないだろうからね。まぁあれこれと入れ知恵をしたわけだよ。うん、こうして考えると、ギイと託生さんの愛のキューピッドだな、私は」 はっはと笑って、お祖父さんはお茶の入ったカップを口にした。 ぼくの知らないギイの話は興味深かった。 ギイが小さい頃は大人しい子だったなんて、本当に信じられないことだ。今の傍若無人からは想像できない。 だけどぼくはギイのちょっと強引で我が道をいくところは嫌いじゃない。 ギイといると何でもできそうな気がしてくるからだ。 「目標ができたせいか、ギイはいろんなことに積極的になって、まぁ本来の性格をちゃんと表に出せるようになったんだろうな、明るい未来を想像して自分の人生を楽しめるようになった。それでも思う通りにいかないことや、辛いことがあると、いつもここへやってきていたよ。ギイにとっての唯一の逃げ場所だったのかもしれない。日本へもう一度行って、会いたい人に会うために、いろんなことを頑張っていたからね。たまには肩の力を抜ける場所が必要だったんだろう」 ぼくのために、ギイはずっと昔から努力をしてくれていた。 Fグループの跡取りで、親からの期待とか周囲からの羨望とか、全部ひとりで受け止めて、求められるものにはそれ以上の成果を出して、ギイは祠堂へ2年間留学するという自由を手に入れたのだ。 ぼくたのために。 そう思うと胸の奥が熱くなる。 「だがまぁ、これからはもうここへ来ることもなくなるんだろう。この先何か辛いことがあったとしても、ギイのそばには託生さんがいる。弱音を吐ける相手がいるというのはいいことだよ。そういう相手と巡り合えたことは感謝すべきことだ。男でも女でも、そんなことは関係ない。だからね、託生さん」 「はい」 お祖父さんはぼくの手を取ると、ぽんぽんと優しく叩いた。 「誰が何と言ったとしても気にすることはない。同性での恋愛はこのご時世であってもやはり眉を顰める人もいるだろう。だけど、ギイにとって、きみは唯一無二の避難場所なのだからね。そして託生さんに辛いことがあれば、ギイに逃げ込めばいい。あの子はちゃんと受け止めてくれる」 「・・・」 「ギイにとって、そんな場所ができて良かったと心から思っているよ。あの子がここにくるたびに、早く彼のすべてを受け止めてくれる相手ができればいいのにと思っていたからね。だから、託生さんがギイのそばにいてくれることは、とても嬉しいことなんだ」 「はい・・・」 「ギイのことをよろしく。喧嘩して家出したくなったらうちへ来るといい。ギイにお説教してやろう」 いたずらっぽい瞳もギイに似ている。 大きくて暖かい手を、ぼくも握り返した。 「ぼくはギイみたいにいろんなことができるわけじゃないけれど、ギイのことをこれから先もずっと大切にします。彼が辛い時にそばにいます。えっと、それくらいしかできないけれど、ぼくはギイのことが大好きだから、だから安心してください」 お祖父さんは満足そうに微笑むと、腕を広げてぼくをぎゅっと抱きしめた。 そして耳元で何か言った。 それはフランス語だったから、何を言ったのかは分からなかった。 戸惑うぼくに、 「ギイをよろしく頼むよ」 と日本語で言い直してくれた。 2人で散歩を堪能して家に戻ると、昼寝から起きたギイがお祖母さんと一緒に夕食の準備をしていた。 「お、やっと戻ってきたか。おかえり」 「ただいま。ギイ、ゆっくり寝れた?」 「お前なぁ、散歩に行くなら言ってくれれば良かったのに」 「だって気持ちよさそうに寝てたし」 「だからってじいさんと二人で行くってどうなんだ」 ぶつぶつと文句を言うギイに、お祖父さんとこっそりと視線を交わして笑いあった。 料理上手だというお祖母さんが作ってくれた食事はどれも美味しくて、なるほどギイがグルメになるわけだと納得した。今のギイを形成しているものがこの場所にはたくさんあるようだ。 10代の頃から付き合っていても、それでもまだ知らないことがあって、これから先も、こんな風にギイの新しい一面を発見できるのだとしたら、それはすごく楽しいことだ。 お祖父さんの秘蔵の本場の美味しいワインをしこたまご馳走になって、夜もすっかり更けた頃、ぼくたちはようやく客間へと引き上げた。 身体は疲れてはいたけれど少しも眠くならなくて、まだまだ起きていた気持ちでいっぱいだった。 子供みたいにふかふかのベッドの上に大の字になって寝転がって大きく息を吐いた。 「楽しかった。料理も美味しかったし、ワイン最高」 「はいはい。託生くん、ほら靴脱いで。シャワーは明日の朝でいいからもう寝ろ」 昼寝をしたせいでギイはちっとも眠くないらしく、かいがいしくぼくの世話を焼いてくれる。 「ギイ」 「うん?」 「ありがとう」 「パジャマ着せてやるくらいで?」 笑うギイに、ううんと首を振る。そうじゃない。 ギイには感謝をしてもしきれくれないほどの幸せをもらっている。 それなのに、 「ここに連れてきてくれて」 言うと、ギイはちょっと目を見開いて、それから照れたようにうんと小さくうなづいた。 お祖父さんとお祖母さんが暮らすこの家は、ギイにとっては、辛いことがあった時に、またもう一度気持ちを奮い立たせるために心を休める場所だったのだ。 きっと誰にも言わずに、そうやってギイは一人で頑張ってきた。 ギイは滅多に弱音を吐かない人だけど、誰にだって心が弱った時に逃げ込める場所というのは必要なのだ。 お祖父さんの家は、ギイにとってはそんな秘密の場所だった。 そんな場所に、ギイはぼくを連れてきてくれたのだ。 それが素直に嬉しい。 「ぼくはギイのそばにいるよ」 「・・・」 「これからはぼくが、ギイの秘密の場所になる」 何でもできる、何でも持ってるギイに敵うようなスキルは何も持っていないけれど、ただギイのことを大切に思う気持ちは誰にも負けない。 何も知らなかった高校生の時とは違う。 ぼくたちは大人になって、お互いのことを守れるくらいには成長している。 昔、ぼくが辛かった時にギイが手を差し伸べてくれたように、もしこれから先、ギイに辛いことがあれば今度はぼくが手を差し伸べよう。 ワインのせいで強烈な睡魔に襲われてもう目を開けていられない。 また明日。 お祖父さんからギイの子供の頃の話をもう少し聞いてみよう。 2人で暮らし始めたあの小さな家が、ギイにとって一番安らげる場所となるにはどうすればいいか、ぼくはこれからゆっくりと考えるんだ。 一緒に暮らし始めたあの家を、ぼくたちにとって最高の場所にしたいから。 時間はまだまだたっぷりある。だから大丈夫。 夢うつつの中でも、何だかとっても楽しいことを見つけたような気持ちになったぼくの髪を、ギイの手がさらりと撫でてくれたのを感じた。 幸せってこういうことなのかと改めて実感して、ぼくはギイに「ありがとう」と言ったつもりだけど、たぶんそれは寝言じみていてギイには届かなかったに違いない。 |