愛の嵐


 
第21話


ひたすらにバイオリンを弾く。
ただただ、美しい音が聞きたくて。
あの頃よりも技術は向上しているはずなのに、聞こえてくる音は濁っているような気がして胸が苦しくなる。
どうして?
こんな音じゃないはずなのに。
もっと綺麗な音が出るはずなのに。
そう思って弾けば弾くほど、音はさらに濁っていく。
「・・・・っ!」
力いっぱい弓を引くと共に鈍い音がして、弦が切れて頬を掠めた。
託生は大きく息を吐くと、バイオリンを肩から外して、そのままそっとケースに横たえた。
ぴりっとした痛みを感じて頬に手をやると、指先が血で赤く染まった。
たいした傷じゃないだろうけれど、こういう傷はいつまでもじんじんと痛むのだ。
もう何度も経験しているか分かっている。
とりあえず水で流そうと思って、託生は防音室を出た。
洗面所に立ち、鏡に顔を映してみると、左の頬に細い傷がついていた。
冷たい水で傷を洗って顔を上げると、目の前の鏡にギイが映っていた。
いきなりだったので、託生は心臓が止まるかと思うほど驚いてしまった。
振り返ると、ギイが腕を組んで託生を見ていた。
「ギイっ・・・」
「何をそんなに驚いてるんだ」
「だって、急に後ろに立ってるんだから、・・・誰でも驚くよ」
タオルで濡れた顔を拭うと、ギイがふと何かに気づいたように託生の肩を掴んだ。
そのまま強い力で引き寄せられて、顔を覗きこまれる。
「どうしたんだ、その傷」
「え?ああ、さっきバイオリンの弦が切れちゃって」
「血が滲んでるじゃないか」
ギイが指先が託生の頬に触れる。
「大丈夫だよ」
その手から逃げるようにして、託生は洗面所を出た。
その後ろをギイもついてくる。
「ギイ、今日はずいぶん早いんだね」
「出張帰り。今日はもうオフィスには戻らなくていいっていうからさ、託生に早く会いたくて空港から直接来た」
そうなんだ、とうなづいてギイのためにコーヒーをいれようとキッチンに立った。
ギイはネクタイを結び目を緩め、上着を脱いで無造作に椅子の背にかけた。
そしてそのままキッチンへと入ってくる。
「託生、1週間ぶりだな」
後ろから抱きしめられて、耳元にキスされる。
「ギイ、邪魔しないで」
「んー、お前こそ邪険にするなよ」
相変わらず子供みたいに無邪気に笑って、ギイは託生の肩に顎を乗せた。
「いい匂い」
「ギイの好きなコーヒーだろ」
「託生も好きだろ?」
そうだね、と託生がうなづく。
初めて飲んだのは祠堂の寮だった。ギイがおみやげにと持って帰ってきたのがこのコーヒーだった。
あれ以来、ずっとこれは2人のお気に入りだ。
カップを手にして、一緒にリビングに戻る。
しばらく会えなかった1週間の出来事をお互いに話していたが、それが一段落すると、ギイはそうだ、と思い出したように言った。
「なぁ託生、今度の休日、一緒に旅行に行かないか?」
「え?」
ギイはうーんと伸びをすると、ソファの背にもたれて託生を見つめた。
「北海道。託生行ってみたいって言ってただろ?すごくいいホテルがあるんだけど、予約が取れそうなんだ」
今の季節は気持ちいいぞ、とギイが笑う。
レンタカーを借りてあちこち観光しよう、と言うギイに、託生はゆるゆると首を横に振った。
「・・・そういうのは・・・ぼくとじゃなくて、奥さんと行かなきゃだめだよ、ギイ」
「・・・・」
「そんな誘い、ぼくにしないでよ」
とたんにギイが怒りを顕にして託生の肩をつかんだ。
「いたっ・・・」
「何も変えるつもりはない、って言っただろ?」
「ギイ・・・っ」
「オレは今でも託生の恋人だろ?休日に、恋人と過ごすのは当たり前のことだよな?」
「だけど・・・」
逃げようとする託生に覆いかぶさるようにしてギイが詰め寄る。
「嫌がるオレに、結婚しろと言ったのは託生だ」
「・・・っ」
「結婚しても、オレとの関係を続けることを選んだのは託生だ」
「ギイっ!」
聞きたくないと、思わず託生が耳を塞ぐ。
「愛人でもいいって、託生が言った!」
「やめてくれよっ」
涙が溢れそうになって、託生はきつく目を閉じた。
ギイはそんな託生を無言で見下ろしていたけれど、やがて深く吐息をついて身を起こした。
「休みは来週の週末から。旅行の用意しておけよ、託生」
「ぼくは行かないっ」
「愛人と旅行だなんて、オレも出世したもんだよな」
皮肉気に言い捨てて、ギイは上着を掴むと部屋を出て行った。
ぱたんと扉が閉まる音に、託生は堪えていた涙を溢れさせた。
ギイの言っていることの方が正しいのだ。
あの時、確かに自分は愛人でもいいと言った。
そう言うしかなかったのだ。
でも、だからと言って本心だったわけじゃない。
こんな関係、やっぱり続くはずがないのだ。
本当ならギイが結婚する時にきっぱりと別れるべきだったのだ。
だけどギイのことが好きだったから。
どうしても離れることなんてできなくて、こんな形を選んでしまった。
自分の勝手な思いで、もっとギイを苦しめることになるなんて、あの時は考えられなかったのだ。
のろのろと起き上がって、託生は頬を濡らす涙を拭った。
自分には泣く権利などないのだ。
1週間もの出張で疲れていただろうに、労いの言葉さえかけることもできなかった。
空港から真っ直ぐに来たと言っていた。
自分に会うために。
そう思うとまた涙が溢れそうになって、託生は唇を噛み締めた。
その時、小さな音をさせて扉が開いた。
「・・・・・ギイ・・?」
怒って帰ってしまったとばかり思っていたギイがそこにいた。
涙を溜めた託生を見て、眉をしかめて大股に近づいてくる。
そして片手で託生を抱きしめた。
「一人で泣くなって言っただろ」
「・・・・」
「ごめん、言いすぎた」
泣かないでくれ、とギイが小さく小さくつぶやく。
せっかく泣かないでいようと思ったのにまた涙が溢れてくる。
このままじゃいけないと何度も思うのに、だけどこうして抱きしめられると、その腕を振り払うことができなくなる。
託生はギイに抱きしめられて、ごめんね、と謝った。
ギイのことを諦められなくてごめん、と。

                                                       第22話


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あとがき

ソープオペラは泥沼じゃなきゃ!