第24話
ギイが結婚しても、託生の生活が何か変わるわけではなかった。 まるで何もなかったかのように、ギイは託生の元を訪れたし、結婚相手のことなど一言も口にはしない。 政略結婚だと陰では囁かれていたようだけれど、ギイはまったく気にしている風もなく、前よりもいっそう仕事に没頭するようになっていた。 そして夜になると託生の元を訪れる。 ギイが結婚したことなど時折忘れそうになるほどに、ギイは以前と何も変わらなかった。 だから、ギイの結婚相手がどんな人なのか、託生は知ることはなかったのだ。 あの日、ギイの妻だと名乗る人が訪れるまでは。 何の前触れもなくやってきたその人は、想像していたよりもずっと綺麗な人だった。 「崎義一の妻です」 と玄関先で告げられ、託生は頭の中が真っ白になった。 まさか彼女がここにやってくるとは夢にも思わなかったのだ。 いつまでも玄関先に立たせているわけにもいかず、託生は彼女の中へと招き入れた。 「どうぞおかまいなく」 リビングのソファに座る彼女にお茶を勧めると、彼女は丁寧に頭を下げた。 託生もまた彼女の前に座ると、そっと彼女を伺い見た。 品のいいブルーのワンピースに綺麗に整えられた爪。華美なアクセサリーは身につけていなかったけれど、どう見てもセレブなお嬢様にしか見えない。 託生とギイとのことを知り、別れろと言いにきた、というところだろうか。 たった一人で会いにくるなんて、優しげな雰囲気に相反して勝気な性格なのかもしれない。 それとも、ギイに話をして、聞き入れらなかったから託生のところに来たのだろうか。 常識的に考えて、託生がしていることは間違っているのだから、直接乗り込まれたとしても文句など言えないけれど、もし目の前で泣かれたりしたらどうしたらいいんだろう。 息苦しい空気にそろそろ耐え切れなくなった頃、ふっとその場の空気が緩んだ。 「私、あなたに一度お会いしたかったんです」 「え?」 視線を上げた託生に、彼女は微笑んだ。 「ギイに恋人がいるってことは知ってました。結婚する前から、彼には恋人がいて、私とは結婚するつもりはないってはっきり言ってましたから」 「・・・・」 「結婚したあとも、あなたとの関係が終わってないことも知ってます」 淡々と告げられて、さすがの託生も驚いた。 ギイと託生のことは知らないのだとばかり思っていたのだ。 知ったのだとしてもそれは最近のことで、だからこそこうして託生に会いにきたのだと思っていたのに、彼女は結婚する前から託生のことを知っていたと言う。 いったいそれがどういうことなのか、どれだけ考えても託生には理解できない。 「最初からはっきりとギイには言われてました。愛してる人がいる。別れるつもりはない、と」 「ギイが・・・」 まさかそんなことになっているとは思わなかった。 結婚相手にそんなことを言われて、それでも結婚するなんて、彼女はそれほどまでにギイのことが好きだということなのだろうか。 困惑する託生に、彼女はくすりと笑った。 「そんなに不思議ですか?もともと家同士のつながりのためだけの結婚ですし、別にいいんです、そんなこと」 そんなこと? では、ギイのことを好きだというわけでもなく、彼女は結婚したというのか。 だから自分の夫に愛人がいても平気だと、彼女は言うのだろうか。 「あの・・・」 「私、邪魔されたくないんです」 「邪魔?」 託生には彼女の言う意味が分からなくて、怪訝な顔をしていたのだ思う。 その様子に彼女はほんの少し眉をひそめた。 「私はただ、今の生活を壊されたくないだけなんです。ギイは経営に関しては優秀な人だし、彼がいれば、これからますます会社は発展していくと思います。何不自由ない生活を、あなたの存在で壊されたくないんです」 「おっしゃってる意味がよく分からないのですが」 「あなたのことがゴシップ記事に載るようなことがあれば困るんです。愛人の一人や二人いたところで別に誰も驚きはしないけれど、それが同性だとなるとさすがに興味本位で嗅ぎ回る人も出てきます。実際そんな噂を耳にしました。それで、不躾とは思いましたけど、お伺いしました。ギイは今一番注目されている青年実業家ですから、やっかんで足を引っ張りたいと思っている人もいるんです。あなただって、彼の立場はお分かりでしょう?」 「・・・・・」 ゴシップ記事が困るなんて、託生の住む世界とはまったく違う世界でギイは生きているのだと、こういう時に思い知らされる。 彼女が言っていることは実感としては少しも伝わってこなかった。 まるでテレビの中のドラマのようにしか感じられないのだ。 今、こうして彼女と向き合っていることさえ、作り物の世界のようだった。 黙り込む託生に、彼女は身を乗り出した。 「失礼ですが、生活の援助であれば、私にもできます」 「・・・援助?」 「ギイと別れていただきたいんです。そう言われるだろうことは、あなたも分かっていたとは思うんですけど、こんな風にずるずると関係を続けたりしないで、きっぱりとギイとは別れてください」 託生は大きく深呼吸をした。 気持ちが乱れていることを知られたくなくて、真っ直ぐに彼女を見据えた。 「本当はこのままギイがあなたと続いていても良かったんです。誰にも知られないのであれば、何の問題もありません。でもそういうわけにはいかなくなってきたので、こうして直接お願いにあがりました。ここを引き払うにしてもまとまった資金が必要でしょうし、これからの生活費も必要だと思います。すべて私の方で用意させていただきますので・・・」 「ちょっと待ってください」 「あなたに拒否する権利なんてないんです」 きっぱりと言われて、なるほど、と託生は思った。 彼女の言う通りだ。愛人である自分に、彼女の言うことを嫌だと言う権利などない。 「気持ちの整理も必要でしょうし、今すぐにとは言いません。でもできるだけ早くギイの前から姿を消していただけますか?まともに別れ話なんてしたって、ギイは絶対に納得しないでしょうし、あなたも別れられるはずはないでしょう。何も言わずに姿を消すのが一番いいと思います」 さすが形だけとはいえギイの妻だけあって、彼の性格をよく分かっている。 別れ話など、ギイが結婚する時にさんざんしたのだ。今さらそれを受け入れるようなら、あの時受け入れていただろう。それができなかったから、こんな関係を続けているのだ。 彼女は言いたいことはすべて言い終えたのか、すっと立ち上がると一つお辞儀をした。 「突然お伺いして申し訳ありませんでした。失礼します」 来た時と同様、彼女はさっさと挨拶だけすませて帰っていった。 それまでのやり取りを思い返してみても、彼女から嫉妬めいた感情はかけらも感じられなかった。 本当にどうでもいいのだ。 なるほど、政略結婚というのはこういうものなのか、とある意味感心さえしてしまう。 だから、ということではなかったが、ギイの妻だという彼女に、託生もまた嫉妬めいた感情を持つことはなかった。 良かった、と思った。もし彼女がギイのことを愛しているとでも言えば、たとえそれが形だけのことであっても、妻という立場にいる彼女に対して、きっと醜い感情を持ってしまっただろう。 「拒否する権利はない・・・か」 もし、別れて欲しいという彼女の話がどこまでも自己中心的な理由だけだったなら、託生はそれを受け入れることはなかっただろう。 拒否する権利がないにしても、非常識だと罵られても、彼女のためにギイと別れる気にはなれなかった。 けれど、自分の存在でギイの立場が悪くなるというのであれば話は別だ。 それがたとえ仕事上のことであっても、ギイの邪魔にはなりたくない。 彼女がいたのはほんの30分ほどだったけれど、ぐったりと疲れてしまった。 ひどい疲労感が体に残っていて、託生はソファにもたれて目を閉じた。 結局、どれほどギイのことを愛していても、無理なのだ。 やっぱり間違っていた。 ただ好きなだけではどうにもならないことが、この世にはあるのだ。 (しょうがない・・・いつかこんな日が来るって、ぼくはどこかで思っていた) それまでずっと避け続けていた結末をようやく受け入れる日がきたのだと、託生は思った。 第25話へ |