第25話
2日ぶりに開けた扉の向こうには暗闇だけが広がっていた。 灯りをつけると、そこにはまるで最初から誰もいなかったかのような不思議な静けさがあった。 もともと男二人しかいない部屋はそれほど散らかりはしないのだけれど、今はすべてが綺麗に片付いていて、モデルルームのように生活感が感じられない。 「託生?」 嫌な予感がして、次々と部屋の扉を開けてみる。 けれど、どこにも託生の姿はない。 この時間に部屋にいないなんてことは今までなかった。友達と食事にでも行っているのか? けれどそれなら予定があると話してくれているはずだ。 最後に会ったのが2日前。 あの時、託生の様子に変わったところは何もなかった。 託生がバイオリンの練習をしている防音室に入ると、正面のピアノの上にいつも使っているバイオリンが置いてあった。 それを目にしたとたん、足元がぐらりと揺らいだような気がして、ギイは壁に背をつけた。 「・・・・どこへ行った?」 ここに託生がいないことは疑いようのないことだ。 突然消えてしまった理由なんて一つしかない。 自分との関係を終わりにしたかったからだろう。 大切にしていたバイオリンを置いていったことが、託生の決意の強さを表しているような気がして急に託生がいないということが現実のものとなってギイを打ちのめした。 けれど、どうして突然? 託生が今の関係に満足しているなんて思ってはいない。もちろんギイ自身だって納得しているわけではない。それでもお互い諦めながらも選んだ道だったはずなのに。 一緒にいることのできる、唯一の手段だったのではないのか? 今になってどうして? ギイはずるずるとその場にしゃがみこむと、しばらくぼんやりと空を見つめていた。 本当に何も考えることができなくて、ただ時間だけが過ぎていく。 やがてギイはのろのろと立ち上がると、上着を脱いでソファへと放り、そのまま寝室へと向かった。 ひんやりと冷えた寝室もまた、ぞっとするほどに綺麗に整えられていた。クローゼットを開けてみると、中のものはほとんどそのままだった。 託生は、ここにすべてを残して出て行ったのだ。 ギイはベッドに横になると、小さく息を吐いて目を閉じた。 もしかしたらこのまま探さない方が託生のためなのかもしれない。 どれほど愛していると言ったところで、託生が欲しいと思っている形での幸せを与えてやることはできない。 どんな言い訳をしてみても、そのどれもがギイ自身の理由で託生にはまったく非がない。 一緒にいたいというギイの我侭に、託生がどれほど辛い思いをして我慢をしてくれているかくらいギイだってちゃんと分かっている。 託生に、本当に幸せになってほしいと思うのなら、このまま自由にしてやった方がいいのではないか。 今ならまだ間に合う。 追いかけたりせずに、手を離してしまえば・・・ 「・・・・・」 ギイは勢いよく起き上がると、そのままリビングへと戻り、上着のポケットから携帯を取り出した。 メモリーボタンを押してコールすると、すぐにラインが繋がった。 「・・・・ああ、島岡、悪い、こんな時間に・・・ちょっと頼みたいことがあるんだ」 『どうされました?』 島岡はギイが物心ついた頃からそばにいる一番信頼できる人間だった。 今では仕事でも有能な片腕として、ギイを助けてくれている。 ギイが唯一偽らずに本心を曝け出せる相手で、彼もまた、ギイのことなら何でも知っている。もちろん託生のことも。 ギイは一瞬の躊躇のあと、搾り出すようにして告げた。 「人を・・・探して欲しいんだ」 『人?』 「ああ、託生がいなくなった」 電話の向こうで島岡が黙り込む。 『義一さん・・・』 「どんな手を使ってもいい、必ず探し出してくれ」 用件だけを手短に告げ、まだ何か言いたげな島岡を遮ってギイは電話を切った。 結婚が決まり、けれど託生とは別れないと島岡に告げたとき、彼は特に驚きもせず、「そうですか」と一言言っただけだった。たぶん、何を言ったところで、ギイが託生と別れるはずがないと分かっていたのだろう。 ギイのことを本当に心にかけてくれている島岡でさえ、打つ手がなかった。 それでも、二人のことは誰にも知らせることなく、黙って見守っていてくれた。 島岡ならば、力になってくれるだろう。 ギイは携帯をテーブルに滑らせて、思い出したようにチェスとの引き出しから煙草を取り出した。 テラスへと続く窓を開けてフローリングに腰を下ろす。 託生が嫌がるから最近ではあまり吸わなくなっていた煙草の火を点け、深く吸うと、久しぶりの苦味のある酩酊感が身体を満たしていくのを感じた。 風に流れることなく真上へ立ち上っていく煙を眺めていたら、自然と笑いが洩れた。 託生は本気で自分から逃げられると思っているのだろうか。 どれほど遠くへ逃げようと、Fグループの息のかかった企業は日本中、いや世界中にあって、ギイが一言かければすぐに情報は集まってくる。 そして島岡のことだから、多少時間がかかったとしても必ず託生のことを見つけ出すだろう。 ギイはふいに焼け付くような痛みが込み上げるのを感じて目を閉じた。 可哀想なことをしているという自覚はある。 いっそ結婚と同時に自由にしてやれば、託生だってもっと楽に生きることができたに違いないのに、どうしても別れることはできなかった。 愛人でいいなんて馬鹿げた提案を受け入れてしまったのも、どんな形でもいいから託生のそばにいたかったからだ。 今も、自由にしてやろうと思った瞬間、やはりそれはできないと思ってしまった。 (託生を見つけて、連れ戻して、そしてまた前と同じように一緒にいたいと話をして・・・) それは、恐らく無理なことではないだろう。 どれほど託生が抵抗しても、上手く言い包められる自信はある。 けれど、何か大切なことを見逃しているような気がしてならなかった。 結婚の話が出た時からずっと、どこかボタンをかけ違えたまま、ここまできてしまったような気がする。 (本当にそれでいいのか?) こんなことをしても、お互いの気持ちがどんどんすれ違っていくような気がする。 誰よりも大切で、愛しているという気持ちは嘘じゃないのに、何を見逃しているのだろう。 (託生、今どこで何してる?) 真っ暗な夜空を見上げて、ギイは愛しい人を思った。 第26話へ |