愛の嵐


 
第26話


汗ばんだ頬を風が撫でていく。
波の音に誘われてあてもなく歩き続けて、そろそろ30分ほどになるだろうか。
海沿いの道は時折車が通りすぎるだけで、すれ違う人もいなかった。
木々の緑が目に優しく、あまりに気持ちが良かったので、時間を忘れて歩き続けてしまった。
ちょっと疲れたなぁと思った頃に見晴らしのいい場所にたどり着いた。
目についた自販機で缶コーヒーを買い、ベンチに腰を下ろして一休みすることにした。
託生は目の前に広がる海を眺めて、大きく深呼吸をした。
ギイの元を去ってから、もう一ヶ月ほどになる。
恐らくギイは、託生がいなくなったことで、心当たりをしらみつぶしに探していることだろう。
まさか実家に戻るわけにもいかないし、友達のところへ行くわけにもいかない。
かといって、まったく土地勘のないところへ行くのは不安で、結局まだどこにも落ち着くことのないまま、まるで旅人のように彷徨っていた。さすがのギイも、こんな風に転々としていればそう簡単に見つけ出せるはずもない、と思っていた。
あの日、ギイの妻が託生の元を訪れてからすぐに心は決まった。
どれほど上手に嘘をついてもギイにはすぐに見破られてしまうので、その夜のうちに、必要なものだけをまとめてマンションを出た。
突然消えてしまった自分のことを、きっとひどいヤツだと思っているに違いない。
けれど、結局は時間がすべてを解決してくれるのだ。
ギイの元を離れてすぐは、寂しくて辛くて、どうしようもなくギイに会いたかったけれど、彼のことを思い出さないようにしようという努力は報われつつある。
いつかきっと、ギイとのことは思い出に変わる。
泣きたくなるほどの痛みだって消える。
あとに残るのはギイと過ごした優しい時間だけだ。
そう思っているのに、ギイを思うと胸が締め付けられて息ができなくなるほどだった。
「大丈夫」
何度も自分に言い聞かせるようにしてつぶやいた言葉をまた口にする。
できればちゃんと別れの言葉を言いたかった。
ありがとう、と何度言っても言い足りない思いをちゃんとギイに言いたかった。
ギイのおかげで今まで幸せだったと伝えたかった。
でも何も言えないままに出てきてしまった。
それだけが心残りだった。
缶コーヒーを飲み干してしまうと、また立ち上がって美しい景色を見ながら宿に戻った。
泊まっているのは町にある宿の中で一番小さな宿だった。ホテルというほどの規模はなく、旅館というほどの趣きもない。和風のビジネスホテルというのが一番ぴったりとくるだろうか。
この小さな宿に1週間も泊まっている託生はよほど物好きだと思われているのか、宿の人にはすっかり顔も名前を覚えられていて、散歩から戻ってきた託生に気づくとにっこりと笑った。
「おかえりなさいませ。葉山様、お客様がお待ちですよ」
「え?」
客?見知らぬ土地のこんな小さな宿に訪ねてきた人?
一瞬、ギイが来たんじゃないかと思って託生はどきりとした。
宿の人の示す方へと視線を向けると、ソファに座っていた人がゆっくりと振り返り立ち上がった。
背の高い優しげな笑みを浮かべるその人に、託生は目を見張る。
「・・・・島岡さん?」
「お久しぶりです、託生さん」
丁寧にお辞儀をしてくれる人は、ギイの秘書をしている島岡だった。

神妙な面持ちで俯く託生を目の前にして、託生に最後に会ったのはいったいいつだっただろうか、と島岡は記憶を辿った。
二人が祠堂を卒業して、一緒に暮らすようになる頃だっただろうか。
あの時のギイの幸せそうな笑顔がふいに浮かんで、胸が痛んだ。
島岡がギイと初めて出会った頃、彼はもう崎の家に引き取られてからずいぶんたっていた。
やがてFグループを率いる立場になるであろうギイのことを、最初は少し穿った目でみていた。
果たしてこの少年にそこまでの価値があるのだろうか、と。
けれどそんな島岡の杞憂はすぐに消えた。
ずば抜けたIQの高さは聞いていた。だからこそ引き取られたことも。それだけなら彼のことを軽んじる人もいたかもしれないが、それと相まった彼の見目の美しさに皆吸い寄せられるように好意を寄せた。
実際、ギイは誰に対しても陽気で明るく、機知に飛んだ話題と洒脱な話術で周囲の人を魅了した。
けれど、それらのすべてがギイの本来の姿ではないということに気づいている人はほとんどいなかった。
『オレは客寄せパンダみたいなものだよ』
ある日、ギイがそう言って笑った。
そうすることが彼に求められた役割であり、そうすることが引き取ってくれた親に対する義務なのだと、ギイはどこか諦めにも似た思いで甘んじていたのだ。
何不自由ない暮らしをして、誰からも愛されて、何の不安もない未来が用意されていて、すべてが満たされていると羨ましがられるギイだったけれど、それでも彼が幸せなのだとは島岡には思えなかった。
彼が本当に欲しいと思っているものは、誰も彼に与えることはなかったのだ。
そんなギイが祠堂で託生と出会う。
二人の間にどんな出来事があって惹かれあうようになったのかは島岡には知る由もない。
彼らが深く深く繋がりあうのに時間はかからなかった。
恐らく託生は、何の見返りを求めることなく、打算もなく、ギイが本当に欲しいと思っていたものを理解して、与えることができる唯一の人なのだ。
誰からも与えられなかった愛情。
ギイは託生と恋人同士になり、初めて愛されることの喜びを知ったのだ。
手離せるはずなどないということは島岡には痛いほど分かる。
できれば、二人で幸せになって欲しいと心から思う。
けれど、ギイの立場がそれを許すはずもなく、結婚が現実のものとなった時、
『託生とは別れないよ』
と、ギイは言った。
その意味が分からず黙り込む島岡に、ギイはどこか寂しそうに笑った。
『愛人でいいだなんて、ほんと馬鹿げてるよな』
結婚してからも、ギイが心を向けているのは託生だけだった。
それが本当に正しいことなのか島岡には分からなかったけれど、かといって別れた方がいいとも思えなかった。
そんなある日、託生が姿を消したと聞かされた。
そして探して欲しいと乞われた。
託生が何も言わずに出て行くにはそれなりの覚悟をしてのことではないかと思ったが、日々憔悴していくギイを見ていると、やはり放っておくこともできず、島岡は仕事の合間に託生のことを探し続けた。
思っていたよりも早く託生の所在は掴めた。
Fグループの力は侮れないなと苦笑するほどにあっさりと。
けれどそれをすぐにギイには告げなかった。
しばらく考えたあと、島岡はギイより先に、託生に会うことを決めた。

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あとがき

突然の第三者登場!これこそソープオペラ。