一緒に暮らそう
という言葉を最初に託生に告げたのは、もう10年以上前のことになる。 祠堂を卒業するときには託生の負担にならないように、冗談めかして。 卒業したあとは、おねだりするように。 なかなか実現しないことがわかってくると、半ば急かすように、同じ言葉を口にしてきた。 それは間違いなく実現することだとお互いに分かっていたものの、なかなかタイミングが合わずに、おまけに離れていても想いは変わることもなく、たまにしか会えないと逆に想いは深まり。 もしかして一生遠距離恋愛じゃないだろうな、とさすがに不安になったギイが、本気で託生に提案してみると、拍子抜けするくらい、それはあっさりと承諾された。 もともと託生も一緒にいたいと思っていたのだから、それは本当にタイミングの問題だけだったのだ。 とにかく10年来の願いがようやく叶うことになり、ギイは年甲斐もなく浮かれ気味だった。 けれど、それが問題だったのかもしれない。 時刻はすでに深夜に近いものだったが、ニューヨークの街はまだ宵の口とでも思えるほどに明るい。 車は人で溢れる中心部を滑るような滑らかさで走り抜け、見るからに高級マンションと思われる建物の前で静かに止まった。 車から降りたギイは、まだ中に残る島岡にお疲れ様と声をかけると、ひんやりとした空気の心地よさに小さく息をついて、エントランスへと向かった。 カードキィをかざして、直通のエレベーターで最上階まで上がる。 扉を開けると暗いと思っていた室内は明るく、ギイは一瞬足を止めた。 すぐに綻びそうなる頬を引き締めて、足早にリビングへと向かう。 「託生?」 けれど、そこに託生の姿はない。 コートを脱ぎソファの背にかけると、ネクタイの結び目に指を入れて緩めた。 少しの逡巡のあと、ギイはリビングをあとにした。 ギイと託生がニューヨークで一緒に暮らすようになった時、託生はバイオリニストとしてようやくその名が世間に知られ始めた頃だった。 井上佐智ほどのネームバリューがあるわけではなかったが、それでも目敏い音楽業界の人間の中には託生に注目している者もいて、日本を離れることを残念がる声もあった。 たぶん託生が持っているバイオリンがストラディバリウスということと、そしてその所有者がFグループの崎義一だということも注目された要因の一つだったのだろう。 けれど、そういうことを差し引いても、託生の音に魅せられる者は大勢いた。 ニューヨークで活動を始めると、少しづつ演奏の依頼が入るようになった。 大きなソロコンサートとまではいかない小さなホールでの演奏会はもちろん、ちょっとしたイベントのゲストなど、仕事の大小に関わらず、託生は誠心誠意の演奏をしたので、スタッフからの評判も良かったし、熱心なファンもつくようになった。 来週末には新鋭の音楽家たちが集まってのミニコンサートが開かれることになっていて、託生も出演することになっていた。 託生の他にも注目され始めたばかりのアーティストが出演するということもあって、コンサートのチケットはあっという間に完売したらしい。 その内の一枚はギイの手にあった。 『忙しかったら無理しなくていいからね』 そう言って、託生が用意してくれたチケット。 開催時刻が少し遅めの時間ということもあり、もちろんギイは仕事を終わらせて聞きに行くつもりをしていた。 ギイは寝室を覗いてそこに託生の姿がないと分かると、次にいつもバイオリンを練習している防音室を覗いた。 そこにも姿はなかったので、その隣の書斎の扉を開けると、背を向けていた託生が振り返った。 「あれ、ギイ、おかえり」 「ただいま」 ようやく目にした最愛の人の姿に、ギイはほっとした。 ここ数週間、託生はコンサートの準備で留守にすることが多く、家にいてもバイオリンのレッスンのため防音室に篭りきりだった。 ギイ自身も仕事に追われていて帰りは遅く、互いにろくに話もできない日々が続いていた。 今夜もすでに遅い時間だし、さすがにこの時間だと託生は戻ってはきているだろうが、もう眠っているに違いないと思っていたのだ。 別に起きて待っていて欲しいなどと考えているわけではなかったが、寝顔しか見れないと、やはり寂しい気持ちにもなる。だからこうして笑顔で迎えられると、ギイは本当に幸せな気持ちになれた。 「何探してるんだ?」 ギイが託生の背後に立ち、くしゃりとその髪を撫でる。 「んー、楽譜なんだ。友達に貸してあげる約束したんだけど、ずいぶん前に使ってた楽譜だし、どこかにあると思うんだけど・・・ないなぁ・・・」 山ほど詰まれた楽譜をぱらぱらとめくっては首を傾げる。 必死になって探しものを続ける託生は振り返ってもくれない。 ギイは託生の華奢な身体を後ろから抱きしめた。両腕を下腹部に回してそのまま引き寄せる。 託生は文句を言うでもなく、けれど相手もしてくれない。 やっぱりそれは面白くなく、ギイは託生を抱く腕に力を込めた。 「明日にすれば?」 「だめだよ。明日会うんだから」 託生のひんやりとした頬に口づけて、その肩に顎を置く。 「なぁ、まともに会うの、久しぶりのような気がするんだけどな?」 「うん、分かってるよ・・・あれ、おかしいなぁ」 託生がギイの手を解いて本棚へと向かおうとする。ギイはその腕を取って、もう一度引き寄せようと試みる。すると託生がぺちんとその手を叩いた。 「ギイってば、邪魔しないでよ」 「邪魔なんてしてない」 「あのさ、すぐ見つけるからちょっとだけ待っててくれないかな」 子供に言い含めるかのような託生の口調が面白くない。 2人きりで恋人らしい時間を過ごしたいと思っているのは自分ばかりで、託生はまったくそんな風には思っていないように思えてくる。 実際、ここのところ、託生の気持ちはまったくギイに向いていない。 そりゃあ確かにコンサート間近で、それどこじゃないのかもしれないが、少しくらい相手をしてくれても罰は当たらないんじゃないか? しかしそんなことを言えば、託生に何を言われるか分かったものじゃない。 「分かったよ。じゃ、先にシャワー浴びてくる」 「うん。ごめん、またあとでね」 あっさりと言って託生はまた探し物に没頭し始める。 何となく納得いかない気分のまま、ギイは書斎をあとにした。 これまでNYと日本との遠距離恋愛を何年も続けてきて、ようやく一緒に暮らせるようになってまだ1ヶ月と少し。 付き合い始めて10年以上ではあるけれど、言ってみればやっと新婚生活が始まったようなもので、ギイにしてみれば、毎日甘い生活を堪能したいと思っているのだが、実際には互いに仕事が忙しく、すれ違いばかりである。 もっと一緒にいる時間が持てると思っていたというのに、これでは遠距離恋愛をしていた頃と変わりがなく、何のために一緒に暮らし始めたのか分からない。 いや、むしろ一緒に暮らしていてすれ違うということの方が寂しさは倍増してしまう。 そばにいなければ我慢できていたことでも、なまじそばにいるだけに我慢できなくなってしまう。 思い描いていた生活との、ほんの少しの違和感。 どちらが悪いというわけではないけれど、どこか気持ちがすれ違っているような気がしてならない。 ここ最近、ギイはずっともやもやとした思いを抱えていた。 もちろん託生にそんなことを告げることはしなかったが。 『で?何が言いたいんだよ、ギイ』 受話器から聞こえてきたのはどこまでも冷たい相棒の声だった。 久しぶりに声が聞けて嬉しいとか、そういう気持ちがあってもいいんじゃないか?と思ったものの自分でもくだらない話をしている自覚はあったので、ギイは発言を控えた。 『あのな、ギイ』 「ああ」 『僕も暇を持て余してるわけじゃないんだぞ、さっさと用件を言え』 不機嫌そうな章三の声に一瞬怯んだが、誰かに聞いてもらわなければ、どうにも気持ちが落ち着かない。 昨夜もシャワーを済ませたギイはリビングで託生のことを待っていたのだが、どうやらそのまま眠り込んでしまったようで、気づくと朝で、寒くないようにと毛布がかけられていたのだ。 「何度も起こしたんだよ?だけどギイ、起きないし。ぼくの力でギイをベッドに運ぶこともできないから、どうしようかなぁってけっこう悩んで、しょうがないから毛布だけかけたんだ。ごめんね」 久しぶりの2人揃っての朝食時、そう言って託生に笑われた。 普段の疲れが出たとは言え、まさかソファで眠り込んでしまうとは。 こうなると、すれ違いの毎日については託生のことばかり責めることはできないのかもしれないが・・・。 ギイはくるくると指先でペンを回しながら言葉を選ぶ。 「だからな、章三。託生が忙しいのは別に構わないんだ。オレだって人のこと言えた義理じゃないし。仕事がようやく軌道に乗ってきて順調だっていうなら嬉しいことだ。だけどな、オレのこと放ったらかしにするのはどうかと思わないか?」 『放ったらかしって、別に喧嘩してるわけでもないし、無視されてるわけでもないんだろ?』 「喧嘩なんかするかよ。新婚だぞ?・・・って、おい、ため息つくなよ、章三」 ギイは受話器を肩で押さえて、島岡から渡された書類に目を走らせてサインをする。 真面目に仕事してください、と目で訴える島岡に片手をあげて椅子から立ち上がると、そのまま窓辺へと歩き出した。 日本は夜の10時頃だ。 仕事が終わって家で一息ついた頃を見計らって章三に電話をしてみたギイである。 ニューヨークではちょうど仕事が始まったばかりの時間で、当然ギイも会社に着いたとたんに次々に決裁待ちの書類が持ち込まれ、普通ならばこのまま夕刻まで息つく暇もなく働き続けることになるのだが、どうしてもここ最近の胸のつかえを誰かに聞いてもらいたくて、いつもの癖で章三にコールしてみたのだ。 祠堂を卒業してからも、もちろん章三との付き合いは続いていて、託生が日本にいる頃はよく3人で飲みにいった。不純同性交友などまったく認めちゃいないくせに、結局章三が最初から最後までギイと託生のことを支えてくれた。何かあるたびに、文句を言いながらもこうして愚痴だの惚気話だのを聞いてくれるのは章三だけだ。 ギイは窓辺に置かれたソファに座ると、眼下の街並みを眺めながら続けた。 「ずっと離れてたからさ、オレとしては託生と一緒に暮らせるってことだけでめちゃくちゃ嬉しかったんだけど、託生はそうでもないのかな、とかさ。まぁ、半ば無理矢理こっちに呼んだってこともあるし、慣れない土地でそんな余裕がないのかもしれないけど、だけど、普通ならそういう時にこそ恋人との時間を大切にするもんじゃないか?せっかく一緒に暮らしてるっていうのに、何ていうかなぁ、余所余所しいというか、甘い雰囲気になってくれないっていうか、まるっきり普通っていうか・・・」 『ギイ、お前まさか葉山といちゃいちゃしたいって言うんじゃないだろうな』 低く問われて、当然だろ、と即答する。 すると章三ははーっと大仰にため息をついた。 『お前なぁ、いったい何年付き合ってるんだよ。今さらいちゃいちゃしたいもないもんだろうが。そんな歳じゃないだろ』 「何で年齢が関係あるんだ?」 『・・・・あるだろ』 もう20代を半ば過ぎたというのにおかしいだろ、と章三が唸る。 「いくつになってもオレは託生といちゃいちゃしたいぞ」 『じゃあそれを素直に葉山に言えばいい。いくつになっても素直が一番』 「そんな簡単に言えたら苦労はしない。なぁ、章三、今度こっそり託生に・・・」 『嫌だね』 「まだ何も言ってないだろ」 おかしそうにギイが笑う。こういう阿吽の呼吸はやはり他の誰かとはできないわけで、もう10年来の相棒だからこそだな、とおかしな感心をしてしまう。 『お前の言いたいことくらいすぐに分かる。どうせ僕に葉山が何を考えてるのかこっそり聞いてくれとでも言いたいんだろう?あのな、ギイ、祠堂にいた頃から何かっちゃあ僕にそういうことばかりさせてるが、いったい僕のことを何だと思ってるんだ、ああ?』 「そりゃお前、無二の親友で、相棒だろ?」 あっさりと言われ、章三は思わず言葉に詰まる。 もちろんギイのことは一番の友だとは思っているが、それと同じくらい託生のことも大切な友人だと思っているのだ。どちらか片方にだけ肩入れはしたくない。 このあたり、どこまでも章三は公平な人間であった。 『わかった』 章三はやれやれというようにため息をついた。 『じゃあ、僕からちゃんと葉山に言ってやるよ』 「言うって、何を?」 『こんなくだらないことで仕事中に国際電話してくるような恋人にはさっさと見切りをつけて、早く日本に戻ってこい、ってな』 「おいおい、章三」 冗談だと分かっていても、章三の場合は本当にやりかねない、とギイが慌てる。 『とにかく、つまらないことで僕を巻き込むな、忙しいんだ。もう切るぞ』 章三がどこか忙しなく電話を切ろうとする。 そこでギイは、日本では今が金曜日の夜だということに気づいた。 ふうんと少しばかり意地悪く声を潜めて言った。 「章三、奈美子ちゃんに代わってくれよ」 『・・・・』 「そこにいるんだろ?週末だもんなぁ、恋人・・いや婚約者とゆっくりしてるとこ邪魔して悪かったな。一言お詫びをさせてもらうからさ」 章三はつい先日、幼馴染の奈美子と婚約したばかりだった。 休日前の夜ともなれば、当然一緒にいるだろうと踏んだのだが、章三が黙り込んだことで、その想像が当たったことを知る。 『ギイ、覚えてろよ』 揶揄した声色に気づいたのか、章三が低く唸った。 「はいはい。悪かったな、章三。ああ、そうだ。新婚旅行はニューヨークにしろよ。オレも託生も大歓迎するぜ」 『・・・考えとく。じゃあな』 まんざらでもないように言って、章三は電話を切った。 章三が、これから結婚式だの新居の準備だの、やらなくてはならないことが山積みだということをうっかり失念していた自分に、ギイは舌打ちしたい気分になった。 普段なら相手・・それも大事な相棒の状況をまず考えるというのに、そういうことさえ綺麗さっぱり消え去ってしまっていたのだから、よほど切羽詰っていたのだろう。 自分ではそうとは気づかないほどに。 「義一さん、10分後に会議が始まります」 「ああ、すぐ行く」 とりあえず今は仕事のことだけ考えようと、ギイは考えを切りかえた。 仕事に逃げても何の解決にもならないとは分かっているが、答えの出ない迷路のような思考からは一時切り離される。 それに相棒と話ができたことでほんの少し気持ちも浮上した。 つまらないことだと一刀両断され、弱気になっていた自分を立て直すことができた。 「コンサートが終わったら、ちょっと休みでも取るかな」 思わずつぶやいた言葉に、島岡が顔を上げたが、あえて何も言うことはなかった。 託生のことを縛り付けておきたいなんて気持ちはないはずなのに。 章三に情けなくも愚痴ったことで、少しは気持ちの整理はできたものの、理性と感情のバランスがどうにも上手く取れていない自分には気づいていた。 仕事のことならば、どれほど理不尽なことであろうと納得いかないことであろうと、自分の気持ちを押し殺して冷静に対処できるというのに、こと託生のこととなると、どうにも上手くいかない。 けれど、じゃあどうしたいんだ、と言われると、その答えもまた見つかってはいないのだ。 その夜は久しぶりに来社した日本支社の役員と食事をしていたため、また自宅に帰るのが遅くなってしまった。 いつも通りマンションの前で車を降りて、エントランスに入る。 託生は帰っているのだろうか、なんて思いながら歩き出すと、背後で車の止まる音がした。 何気なく振り返ると、ちょうど託生が車から降りてくるところだった。 左手に大きなカバンと、右手にバイオリンケース。 ずいぶん遅くまで練習してたんだな、とギイは足を止めて託生が入ってくるのを待った。 歩き出した託生が、ふいに後ろを振り返る。 たった今降りたばかりの車の中から女性が一人降りてきて、託生に何やら封筒を差し出した。 話し声は聞こえないが、2人の様子からして、どうやら託生の忘れものに気づいた彼女が追いかけてくれたというところだろうか。 同い年くらいの、日系の美人だった。 託生には遅くなったらイエローキャブなんて使わずに、必ず社の専用車を使えと厳命してある。 そんな贅沢、などと最初の頃こそ託生は渋い顔をしていたが、ニューヨークでどれほど事件があるかを懇々と説明し、いつでも何処でも電話一本で迎えにいけるように、専用の車が何台もあるのだから、遠慮することは何もないと言い聞かせて、ようやく首を縦に振らせた。 恐らく、帰りが遅くなったので言いつけ通り車を呼び、同じ方向の女性を乗せてやったのだろう。 そんなことはぜんぜん問題ない。 どう見ても同じ音楽仲間だろうし、託生にだって女友達くらいはいる。 それなのに、気持ちがざわめいてしまうのをギイは止められなかった。 何やら楽しそうに2人は言葉を交わし、別れ際、彼女は託生の頬にキスをした。 ギイはそのまま託生を待たずに足早にエレベーターに乗ると、託生よりも先に部屋に戻った。 (馬鹿馬鹿しい) 頬にキスなんて、アメリカじゃ普通の挨拶だ。 ギイ自身だって同じようにキスすることはある。 そこには何の感情もなければ意味もない。 それなのに。 「ただいまー」 ほどなく託生の声がして、すぐにリビングに姿を見せた。 ギイを見ると、託生はいつもと同じ笑顔を見せた。 「ギイ、今日は早かったんだね」 「たった今戻ったとこ。タッチの差だったな」 思わず口をついた小さな嘘に、ギイはきゅっと胸が痛むのを感じた。 いつもなら、さっきの光景を見たことを普通に口にして、慌てる託生をからかって、ヤキモチを妬いたふりをして甘えて見せるのに。 どうしてそんな簡単なことができないのか。 荷物を置いて、上着を脱いでいる託生を横目で眺めながら、何気ない風を装って声をかける。 「ずいぶん遅かったんだな」 「うん、他の人の演奏聞いてると勉強になるよ。ついつい時間忘れて話し込んじゃったらこんな時間でさ」 「飯は?食ったのか?」 「済ませてきた。ギイは?お腹空いてる?」 「大丈夫。オレも済ませてきたから」 ついつい固くなる口調に、託生がおかしいと思ったのだろうか。 ギイの正面に回りこむと、小首を傾げてギイを見上げる。 「ギイ、どうかした?」 「いや、どうして?」 「・・・・最近ちょっと様子をおかしいから」 10年になる付き合いだから、どれほどポーカーフェイスを装ったところで、託生を誤魔化すことはできない。 だが、今は託生を困らせるようなことは言いたくなかった。 仕事ばかりに熱中していないで、もっと自分にも目を向けて欲しいとか。 いくら仲のいい女友達でも、簡単に頬にキスなんてさせるんじゃないとか。 どれもこれもギイの勝手な言い分だ。 だいたい自分だって同じことをしているのに、どの口が言えるというのだ。 「大丈夫だよ。託生こそ、あんまり無理して身体壊すなよ」 「うん・・・あの・・ギイ?」 「ほら、先にシャワー浴びてこいよ。疲れただろ?」 くしゃりと髪を撫でて、そのまま背を向ける。 託生はまだ何か言いたそうにしていたけれど、ギイが振り向かないことで諦めたのか、そのままリビングを出て行った。 (何だか上手くいかないな・・) 離れていた時の方がもっと託生のことを近くに感じることができた。 祠堂で同じ部屋だった頃のような気持ちで、一緒にいられると思っていたのに、いったい何が違うのだろうか。 無理矢理託生をニューヨークへと呼んだことは間違いだったのだろうか。 そんなことを考えてしまう自分が嫌で、ギイは目を閉じた。 ギイにもこれが身勝手な我侭だということは十分わかっていた。 結局その翌日からコンサートまでの間、ギイは託生ときちんと向き合って話をする時間を作ることができなかった。 急な出張で3日も家に帰ることができなかったせいもあるし、託生もコンサートのことで頭がいっぱいのようで、以前にも増してギイに対しては素っ気無くなっていた。 目の前のコンサートを乗り切るまでは邪魔はしないと決めて、ギイもあっさりとした態度を決め込んでいた。 もちろん、胸に燻るもやもやは膨れ上がるばかりではあった。 「島岡、今日は6時には出るからな」 念のため、朝一番に島岡に釘をさす。 今夜、託生のコンサートがあることは島岡も知っていたし、ギイがどんなことがあっても行こうと思っていることも分かっていた。 「今日は長引くような会議もありませんし、定刻通りに退社いただいて構いませんよ」 「あっちはどうなった?」 「それもちゃんと調整しました」 「よし」 子供のような笑顔を見せるギイに、島岡はやれやれと肩をすくめる。 「義一さん、託生さんのコンサート、花を用意しますか?」 「あーどうかな。今日の会場ってコンサートホールじゃないライブハウスだって言ってたからな。花じゃなくて、差し入れにしよう。出演者とスタッフの人数分用意して届けてくれるか?」 「承知しました」 とりあえずコンサートが終われば託生ももう少し余裕がでて話もできるだろう。 一緒に暮らし始めてから感じている、原因の分からない不安について打ち明けてみてもいい。 託生がやけに素っ気無い理由を聞いてみれば、案外原因はギイにあるのかもしれないのだ。 だとすれば、さっさと解決してしまうに限る。いや、しなくてはならない。 ギイは時間通りに仕事を終わらせるために、島岡に促されるままに目の前に積まれた書類を片付けることに専念することにした。 おかげでその日は予定通りに仕事が片付き、早々にオフィスをあとにすることができた。 渋滞に巻き込まれ、コンサートの会場となるライブハウスに到着したのは、開演10分前だった。 指定された席につくと、すでに会場は演奏が始まるのを今か今かと待っている人たちの熱気で満ちていた。 ライブハウスなのでテーブルでドリンクを頼むことができ、ギイは軽めのワインを頼むと、相席となった人たちと少しばかり話をした。それぞれに目当てのアーティストは違ったが、託生の演奏を楽しみにしているという声を聞き、思わず笑みが漏れる。 やがて照明が落とされコンサートが始まった。 クラシックばかりのコンサートではないようで、ジャズピアノの演奏から始まり、サックスやトランペットなど、次々に新鋭のアーティストたちが音楽を奏でた。 どれもなかなか聞き応えがあり、曲が終わるたびに大きな拍手が送られる。 託生が舞台に上がったのは、ずいぶんと後半になってからだった。 こんな風に託生の演奏を聞くのは久しぶりだったな、とギイは思った。 それまではもっぱら日本で活動していたので、なかなかタイミングよく聞きにいけないことも多かったのだ。 託生はぺこりを頭を下げると、ざっと客席を見渡した。 ギイと目が合うとほんの少し微笑み、一つ深呼吸をしてバイオリンを肩に当てた。 託生の伴奏をするピアニストは、先日マンションの前で託生の頬にキスをした女性だった。 やはり同じ音楽仲間だったんだな、とギイはどこかほっとした気分になる。 そしてすぐに、別に疑っていたわけじゃないからな、と自分に言い訳をしてみる。 託生が彼女に目で合図をすると、静かに曲が始まった。 ギイはそれほどクラシックに詳しいわけではないので、それが何という曲なのかは分からなかった。 けれど、最後に託生のバイオリンを聞いた時よりも格段に音が違っていることは分かった。 何というか、やけに艶っぽい音がするのだ。 音楽にはそれが生まれた背景があって、作曲者の想いを自分なりに理解して、それを音にして表現するのだ、と以前託生が話していたのを思い出す。 だとすれば、この曲はきっと愛する人を想って作ったのだろう、とギイは思った。 目を閉じて心地よい音に身を任せる。 やがて曲が終わると、惜しみない拍手が沸きあがった。 託生はほっとしたように微笑むと、改めてバイオリンを構える。 ピアノの前奏が始まると、客席からは早くも歓声があがった。 その曲はギイもよく知っている映画の中の曲だった。ラブロマンスものは苦手なので観たことはなかったけれど、ずいぶんとヒットした映画なので誰もがその主題歌は知っている。 これこそまさに甘い甘いラブソングの代表曲とでも言えそうな曲に、その場の女性たちはうっとりと目を潤ませている。 「素敵ね」 同じ席の女性が託生を見つめながらつぶやく。 「彼、恋人いるのかしら」 隣の友人に内緒話でもするかのように囁く。 「いるんじゃないの?じゃなきゃ、あんな表情でこの曲は弾けない」 「羨ましい」 あの葉山託生にここまで愛されている恋人が羨ましい、と彼女たちは言う。 どれほど愛されているか、聞く人が聞けばすぐに分かるのだ。 知らず知らずに頬が熱くなるのに気づいて、ギイは手のひらでそっと頬を押さえた。 以前はよくバイオリンにヤキモチを妬いては託生に呆れられたものだけれど、今はもうそんなことはない。 託生がこれ以上ないほどに幸せそうな表情を見せてバイオリンを弾くときは、いつもギイのことを考えていると教えてもらってからは、おかしなヤキモチは妬かなくなった。 これほど心に響く演奏を・・・幸せそうな表情で甘いラブソングを弾く託生を目の前にして、それでもまだ託生がギイのことを蔑ろにしているだなんて思う方がどうかしている。 ちゃんと愛されているのだと。 誰よりも愛されているのだと。 そんなことは言葉で告げられるよりも明らかで。 まいったな、とギイは苦笑する。 これは絶対にギイに向けて弾いているのだと、うぬぼれではなく知ることができる。 口下手で滅多に愛してるなんて言わないくせに、託生は想いを伝える方法を持っていて、いつもいつもギイの心を溶かしてくれる。 最後の音が鳴り終わると、会場を割れんばかりの拍手が満たした。 託生はどこか恥ずかしそうに礼をしてステージから降りた。 しばらく幸せの余韻に浸っていたかったが、ギイは残りのワインを飲み干すと、そのまま席を立ってステージ裏へと向かった。 控え室となっている部屋がいくつかあって、廊下は関係者や友人などでごった返していた。 「託生」 ようやく一室にいた託生を見つけると、近づいて頬に口づける。 「ギイ、来てくれたんだね」 「ああ、素晴らしい演奏だった」 「ありがとう。あ、差し入れもありがとう。みんな喜んでたよ」 「どういたしまして」 もう帰れるのか?と聞くと、託生は少し考えるように、んー、と小さく唸った。 コンサートの打ち上げがあるだろうことは想像できた。これだけ大盛況なのだから、きっとみんなで夜の街へ繰り出して今日の成功を祝うのだろう。託生だって誘われているに違いない。 それなのに。 「待ってるから、一緒に帰ろう」 それが分かっていて一緒に帰ろうなどと口にする自分も自分で相当意地が悪いと、ギイは思った。 「じゃあ、もうちょっと待っててくれる?挨拶だけ済ませたら片付けるから」 あっさりと言った託生に、今度はギイの方が慌てる。 「おい、いいのか?」 「何が?」 「いや・・・だって・・」 「ギイ、帰ったらピザが食べたい」 「・・・・」 いきなりの託生の注文に、咄嗟に言葉が出ない。 「うんとミートなやつ」 「あー」 そりゃまぁ時間的には一番腹が減る時間だよな、と思う。おまけに演奏が終わるまでは緊張だってしていただろうし、ほっとしたらさらに腹が減るのもよく分かる。 それなら高級レストランでいくらでも美味いものがあるというのに・・・。 「一緒にフライドチキンも食べたい」 「はいはい、分かったよ。近くの店で手に入れておく。それ持って帰ろう」 「うん」 Fグループの次期社長にピザを買っておけなんて言えるのはお前くらいなものだ、とギイはふいにおかしくなって、にやける頬を何とか引き締めた。 ギイ相手に誰もできないであろうことを何の衒いもなくできるのは託生だからだ。 それは恋人だからということではなく、託生はギイを自分と同じ目線で見ていてくれているからだ。 「ピザねぇ、この辺に美味い店あったかな」 取り出したタブレットで、ギイは託生の希望を満たすべく情報を検索し始めた。 そして待つこと30分。 もちろんギイは託生が食べたいと言ったミートなピザを手にしていて、それを見た託生は満足そうにうなづいた。 マンションへと向かう車の中で、託生はずっと無言のまま流れる窓の外の景色を眺めていた。 半ば強引に一緒に帰ろうなどと言ってしまったが、本当は仲間たちと打ち上げに行きたかったのかもしれない。 そう思うと少し胸が痛んだが、けれど、どうしても今夜はちゃんと託生と向き合って話がしたいとギイは思っていた。 言いようのない不安や、それまで感じたことのない僅かな距離感を、何としても解消したかったのだ。 「託生?」 「うん?」 「疲れたか?」 「ううん。大丈夫。ちょっとまだ身体の中にいろんな音が残ってて、現実の世界に上手く戻ってこれてないだけ」 そう言って託生はギイを振り返ると小さく笑った。 ギイはそっと手を伸ばして、託生の指に自分のそれを絡めた。 きゅっと握り返してきた温もりに、ギイは泣きたくなるほどの愛しさを感じた。 マンションへ帰ると、温かいうちに食べよう、とめずらしく託生が食欲旺盛な発言をした。 たぶんコンサートの興奮がまだ覚めやらないのだろう。ギイは冷蔵庫からビールを持ってくると、グラスに注ぎ、一つを託生へと手渡した。 「コンサートの成功おめでとう」 「ありがとう、ギイ」 乾杯、とグラスを合わせて、お互いに一息でグラスを空ける。 ダイニングできちんと食事という感じでもなかったので、行儀の悪さは自覚した上で、ソファを背にして床に座り、二人の間にピザとグラスを置いて食べることにした。 「何だかまた階段を一つ上がったみたいだな」 「え、なに?」 もぐもぐとピザを咀嚼しながら、託生がギイを見る。 「託生のバイオリン、またちょっと音が変わった感じがしたから」 「うん、やっぱりいろんな人から刺激を受けたからかな。自分の中で化学反応が起こってる感じがしてるんだ。まだそれが形になるところまでは行ってないけど、何かに向かって動き出したのは感じてる」 才能ある者が多く集まるニューヨークで、託生には新しい出会いがたくさん待っていて、自分に足りないものを吸収して、新しい自分を見つけていくんだろう。 託生がどんどんギイの手の届かないところへ行ってしまいそうな気がして、少し怖くなる。 「ギイは耳はいいよね。音楽が苦手だなんてもったいないなぁ」 「託生の音楽がいつでも聞けるから、オレはいいんだよ」 ビールの缶を振って空になったことを確認すると、ギイはまだ飲むか?と託生に聞いて、キッチンへと向かった。 戻ってくると、託生は腹が満たされた満足したのか、気持ちよさそうに足を投げ出して、ギイが持ってきたビールを受け取った。 「ねぇギイ」 「うん?」 「何かぼくに言いたいことあるんじゃないの?」 上目遣いに見つめられ、ギイは視線を合わせるのを避けるために、ソファに座った。 気づかれないようにしたつもりだったが、そんな逃げの体勢のギイに気づいた託生が少しむっとした表情を見せて、同じようにソファに座りなおした。 「ギイ、何か怒ってるだろ?」 「いや、怒ってなんかないよ」 それは本当だ。託生に対して怒っているわけではないのだ。 託生はふうんと言って、少し考えるように空を見つめた。 「どうしてそう思うんだ?」 ギイが聞くと、託生は呆れたように瞠目した。 「あのさ、ギイ。ぼくたちもう10年も付き合ってるんだよ?ギイがぼくのことをよく知ってるように、ぼくだってギイのことはよく分かってるんだよ?知らなかった?」 「ああ・・・そっか、そうだよなぁ」 10年以上、お互いのことを見つめてきた。 互いのいいところも悪いところも。 何度も喧嘩もした。相手の譲れないことが何なのか、大切にしていることが何なのか、傷つくことは何なのか、そんなものはもう今さら考えなくても手に取るように分かる。 ギイと同じように、託生だって同じようにギイのことを見つめてきたのだ。 ギイのことなら何でも分かると言われても驚くようなことではない。 「あのさ、ギイ」 「うん?」 「考えたんだけど、やっぱりぼくたちが一緒に住むには・・・」 「待て」 一緒に住むには無理がある、と託生が言い出す前に、思わずギイがストップをかけた。 それが本心ではないにしても、同居は嫌だと言われることは絶対にごめんだ。 遠距離恋愛の時の方が近くにいられた、なんて一瞬でも思ってしまった自分に舌打ちしたい気持ちになった。 ついさっきのコンサートで、託生の気持ちは十分感じることができ、今はもうその気持ちを疑っているわけではないのだから、別居したいなんて言葉は聞きたくない。 「聞きなよ、ギイ」 託生はソファに両足を上げて、あぐらをかくようにしてギイへと向いた。 「ギイ、ぼくとギイが一緒に暮らすには、やっぱりルールが必要だと思うんだよ」 「ルール?」 何だその他人行儀な単語は。ギイはとたんに嫌そうに眉をひそめた。 結婚という形ではないにしろ、実質同じようなものだし、だとすれば夫婦も同然だというのにいったい何のルールがいるというのだ。 と、反論しかけたが、何とか思いとどまった。 「そう、ルール。例えば「相手の仕事が忙しいことに文句を言わない」「自分の仕事は最後まできちんとこなす、煮詰まっても相手に当たらない」そして「何があっても相手の気持ちを・・・愛情を疑わない」」 どれも耳に痛いことばかりで黙り込むギイに、託生はくすっと笑った。 「っていうのがね、ぼくがニューヨークに来るって決めた時に、自分の中で作ったルール」 「え?」 託生はギイの近くへと身体を寄せると、真剣な表情をしてギイを見つめた。 「ねぇギイ、ぼくはギイの専業主婦になるためにニューヨークへ来たんじゃないんだよ?」 「・・・っ」 「ギイが、ここ最近何を思ってるかは薄々気づいてたよ。本当はギイが帰ってきたときに、いつでもぼくが迎えてあげられたらいいと思う。休みの日にはずっと一緒にいられたらいいって思う。だけど、ギイも仕事が忙しくて、ぼくが一緒にいて欲しいって思ってもできない時もあるよね?そんな時に、ギイのことを責めたりしたくないし、逆に責められても困る。でも、我慢して相手の愛情を疑って気持ちが離れていくのも嫌だ」 「・・・・」 「だからぼくは、ぼくの中でルールを決めた。もちろん、あんまり仕事仕事で放ったらかしにされたら怒ることもあるかもしれないけど・・・でも、ギイと同じように、ぼくにも本気で取り組んでいる仕事がある。ギイに望まれても、仕事を優先させなくちゃいけないこともある。お互いに、それはもうどうしようもないことだから、そんなことで喧嘩したくないと思ったから、ルールが必要だなって思ったんだよ」 「託生・・・」 まさか託生がそんな風に思っていたなんて夢にも思っていなかった。 ただただ甘い新婚生活を夢見ていたギイとしては、子供っぽい我侭で一人で勝手に拗ねていたことが恥ずかしく思えて仕方がなかった。 祠堂のあの寮の部屋で過ごした時間があまりにも楽しかったから。 ニューヨークで、もう一度あんな風に2人で過ごせるのではないかと思い違いをしていた。 あの頃とは環境も立場もまるで違う。 世間から隔離され、互いのことだけを見つめていれば良かった頃とは違い、今では2人とも社会との関わりがあり、それぞれに違う世界を持っている。 重なる部分もあれば、どうしたって交わることのできない部分もある。 大人になるにつれ、そんな風に世界が広がるのは当然のことで、そうでなくてはならなくて。 学生時代から父親の仕事を手伝っていたギイは、祠堂にいた頃からそんな社会に片足を突っ込んでいた。けれど託生はいつまでもギイの中ではあの頃のままで、ギイだけを見つめている託生のままだったから、自分と同じように他の世界があって、それが生活の大半を占めていることに気づいていなかった。 いや、気づきたくなかった。 「ごめんな、託生」 「どうして?別に謝るようなことはしてないだろ?」 「いや、オレ、勝手に託生のこと決め付けてたんだなぁって。心のどこかで、オレのことだけ見てくれる託生を求めてたんだと思う。それが当たり前だって思ってたから、託生がオレに素っ気無いと寂しく思ったりさ」 「素っ気無くなんてしてないよ?」 「いや、したじゃないか」 いつしたっけ?と託生は本気で分からないというように考え込む。 「特別何かってことじゃなくて、こっちにきてからずっと、お前、あんまりオレといちゃいちゃしないっていうか、甘えてこないっていうか、ふつーだったじゃんか」 「え、いちゃいちゃ・・・したかったの?ギイ?」 心底驚いたように託生が目を見開く。 「したいに決まってるだろ!」 思わず叫ぶと、託生はまじまじとギイを見つめ、そしてくすくすと笑いだした。 「そっか、そうだよね、ギイってそういう人だった」 ふん、と拗ねるギイの腕に自分の腕を回して、託生はギイの手を握った。 ぴったりと肩をくっつけると、互いの温もりが伝わる。 「忘れてたよ。ギイって昔っからスキンシップの激しい人だった」 「普通だろっ、託生が淡白すぎるんだ」 「えー、ぼくの方が普通だと思うけどなぁ、だってギイ、もう10年も付き合ってるんだよ?今さらいちゃいちゃっておかしいよ」 お前まで章三と同じようなことを言うのか、とギイはがっくりとうなだれる。 こうなると自分の方がおかしいのかと思ったり、国民性の違いなのかと思ったり。 「ギイが好きだよ」 「・・・・」 「だからニューヨークへ来たんだよ。専業主婦にはなれないけどね、本当はギイのことを一番に優先できたらいいのになって思うこともあるよ。ギイもぼくのことを一番に優先してくれたらな、とか。でももうそんな風に過ごすには、ぼくたちはたくさんのものを手にしすぎている。ギイのために何もかも捨ててしまうことはできないし、そんなことギイにもして欲しくない」 「そうだな」 うん、と託生がうなづく。 「一緒に暮らすといろいろと見えてくるものもあるよね。だって祠堂で同じ部屋で寝起きしてた頃からもう10年以上たってるんだよ?ギイもぼくも、あの頃とまったく同じってわけにはいかない。いくら恋人でも自分以外の人と暮らすんだからペースを掴むまでには時間がかかるよ。嫌なところだって見えるだろうし、一人になりたいって思うこともあるかもしれない」 「あるわけないだろ。って、託生こそ、一緒に暮らしてみて、オレの嫌なとこが見えて一人になりたいって思ってるんじゃないだろうな」 「んーどうかなぁ。まだそういうことを感じたことはないけどな」 まだ、って何だよ、とギイが託生の肩を押し返す。 「ギイがあれこれと取り越し苦労したのはさ、きっとあれだよ、んー、マリッジブルー?」 「は?」 「幸せなはずなのに、本当にこれでいいのかなーって、結婚する女の人って思うらしいよ?ほら、今日ぼくの伴奏をしてくれた女の人が、結婚するときにやっぱりブルーになったんだって」 無邪気な意見にギイはあーあと思う。 あの女性、結婚してたのか、そうかそうかと内心安心しつつ、どこまでもお気楽な託生に、やっぱりいつも救われるんだなぁとギイは苦笑する。 でも確かに一緒に暮らすということに、気負いすぎていたのかもしれない。 別に今まで何も変わらないのだ。 託生のことを愛しているし、託生もギイのことを愛してくれている。 10年前からそれは変わらない真実だ。 あれこれと不安に思っていたことが、不思議と消えていくのを感じて、ギイはひっそりと微笑んだ。 「よし、じゃあオレも託生を見習ってルールを作るかな」 「ギイも?」 「ああ。そうだな・・・「出かける時と帰ってきた時には必ずキスをする」「週に2回・・・いや3回は一緒に夕食を食べる」それから「愛してるの言葉を出し惜しみしない」」 ギイのルールに、託生は目を見開く。 そのどれもが託生とはまったく性質の違うものだったからだ。 託生のルールは「してはいけない何か」というものだったのに、ギイのルールは「何かをしよう」という、どこまでも前向きなもので、その違いに託生は感動してしまう。 ギイはいつでもこんな風に託生のことを明るい方向へと導いてくれるのだ、と胸が熱くなる。 「どうだ、託生?」 「いいよ。じゃあ、それがギイのルールだね」 「オレの、じゃなくて、2人のルールだろ。託生の決めたルールも、オレ、ちゃんと守るからさ」 別に堅苦しいことは何もない。 2人のルールはどちらも相手のことを想う気持ちを形にしただけのことだ。 ギイは託生のこめかみにキスをすると、耳元で囁いた。 「なぁ、今夜は託生のこと抱きたいな」 突然はっきりと求められて、けれど託生は嫌がるでもなくしっとりと笑った。 「・・・偶然だね、ぼくもそう思ってた」 「・・・もしかして、最初からそのつもりで、打ち上げには行かなかったのか?」 まさかと思いつつギイが尋ねると、 「たまにはいいかな、って思ったんだけど?」 託生はいたずらっぽく、試すようにギイを見つめた。 そして目を閉じると、ギイからの口づけを唇に受けとめる。 昔から変わらない甘い花の香りに包まれて、そのまま2人してソファに倒れこんだ。 「しばらくご機嫌斜めだったギイのために、明日から1週間はオフにしたから」 優しく濃密な時間を過ごしたあと、ギイの腕の中でうとうととし始めた託生が、思い出したようにつぶやいた。 「え、オレも島岡に頼み込んで、2日間はオフにしてもらったんだぞ」 互いに顔を見合わせて、吹き出した。 考えることなんて同じなんだなぁと笑ってしまう。 「何だっけ・・・蜜月?しょうがないから付き合ってあげるよ」 「何だよ、そのしょうがないから、って」 ギイがぎゅっと託生の身体を抱きしめる。抱き合ったばかりの火照った身体に、また欲しくなる。 どうせ明日は休みなんだから、少々無理してもいいか、とばかりにギイが託生をもう一度組み敷いた。 「もう一回、託生」 「・・・・やだ」 「何だと」 「眠いんだよ」 さっさと背を向ける託生に、いったいどこが蜜月なんだとギイが文句が言う。 考えてみれば、こんな風にマイペースにギイのことを翻弄するところも10年前から変わっちゃいない。 いや、少しづつ少しづつ変わっていった部分もあるのだ。 2人が一緒にいるために、否が応でも変わらなくてはならなくてはならなかった。 いつか一緒に暮らそう 遠い昔に、交わした約束。 その時はまだ夢ばかり見ている子供で、そんなことは簡単にできるだろうと思っていた。 やがて、ただ一緒に暮らすということが、どれほど難しいことか身を持って知った。 長い年月をかけてようやく約束通りに一緒に暮らすことができた。 一緒に暮らすことができれば、それだけですべてが問題なく幸せになれるような気がしていた。 普通に考えればそんなことがあるはずもなく、それまで以上に互いのことを大切に思いやる気持ちがなければ上手くいくはずもないのだ。 我慢とか辛抱とかそういうことではなく。 もし何か問題が起きたとしても、2人でいることは当たり前のこととして、向き合おう。 離れることなんて考える必要はないのだから。 すやすやと安らかな寝息を立てる託生を背中から抱きしめると、託生は心地よさそうに小さく身じろいだ。 奇跡のように手に入れることのできた明日からの休日。 蜜月という名に相応しい過ごし方にするべく、ギイは目を閉じてあれこれとプランと立て始めるのだった。 |