窓の外、グラウンドからは賑やかな歓声や笑い声が絶え間なく聞こえてくる。
託生は窓際の席からぼんやりとその様子を眺めていた。 晴れた日は昼休みになるとグラウンドで身体を動かす生徒が多いのだけれど、今日はクラスの半数近くが外へと飛び出した。 理由は簡単だ。 ギイが声をかけたからだ。 『いい天気だし、サッカーでもやろうぜ』 たった一言で、普段なら面倒臭がって外へ出ようとしない連中までも、こぞって外へと飛び出した。 入学してまだ1ヶ月と少しで、ギイはその圧倒的な存在感とカリスマ性で、誰からも一目置かれ、生徒だけではなくて教師からも絶大な信頼と人気を集めていた。 フランス人とのクォーターで、すらりとした体躯や長い手足、色素の薄い肌や髪、日本人離れした容姿をしているくせに日本語は流暢で、とてもアメリカからの留学生とは思えない。 誰もがギイと友達になりたくて、サッカーだろうがバスケだろうが、ギイと一緒にできることなら喜んで参加しようとする。同級生のみならず、上級生からも声がかかるのはギイくらいなものだろう。 『葉山も一緒にどうだ?』 教室を出て行く間際、ギイは託生を振り返って誘いの言葉をかけた。 そのとたん、その場にいたクラスメイトたちは全員表情を曇らせた。 どうして誘うのだという疑問と、できれば参加して欲しくないという複雑な表情。 やがて、いつまでたっても答えない託生に対して苛立ちを隠せなくなる。 『ギイ、葉山はどうせ来ないから行こうぜ』 誰かの呼びかけにもギイは答えず、ただ真っ直ぐに託生の返事を待ってその場に留まっていた。 返事をしないことで託生が行く気がないことくらい分かるだろうに、どうして動かないのか。 やがて託生の方が我慢しきれずに、 『ぼくは行かない』 と言って、ようやくギイがそうか、とうなづいてその場をあとにした。 ギイを中心にした人の気配が遠ざかり、ようやく託生はほっと肩の力を抜いた。 ほとんど人のいなくなった教室に寂しさよりも安堵を感じる。そして、どうして彼は自分に構うのだろうかと不思議に思う。 ギイは何かあるたびに、必ず託生に声をかけてくる。 それが級長としての責任感からなのか、それともただのおせっかいなのか、正直なところ託生には分からなかったけれど、何にしても迷惑していることには違いなかった。 人間接触嫌悪症、とギイが名づけた通り、誰かと触れ合うことが嫌で、できれば誰とも話をしたくないのだ。 一緒にサッカーなどとても考えられなかったし、たとえ教室に一人で残ることになったとしても、むしろその方が託生にとっては喜ばしいことなのだ。 この一ヶ月で、託生の人嫌いは皆が知るところとなっていたし、ギイだって十分分かっているだろうに、どうしていつもいつも声をかけてくるのか。 いつだって素っ気無くギイの誘いを断っているのに、懲りずに声をかけてくるギイは、託生にしてみれば理解不能で本当に困ってしまうのだ。 グラウンドにはいつの間にかゲームを見るための生徒たちも集まっていた。 まるでアイドルを見つめるかのように、みな一様にギイに視線を向けている。あんなに注目されていて居心地が悪くなったりはしないのだろうか、と託生はぼんやりと思う。 自分ならあんな風に見つめられたら緊張してしまって、ろくにボールなど追いかけられないと思うのだけれど、ギイはあからさまな視線などまったく気にしていないようで、ごくごく自然にサッカーを楽しんでいる。 ギイの放ったシュートが綺麗な弧を描いてゴールに吸い込まれた。 「ナイス、ギイっ」 味方のクラスメートたちとハイタッチを交わし、また新しいゲームが始まる。 キラキラと眩しい光を浴びて笑うギイは、託生にとってはただただ遠い存在だ。 わけもなく惹かれていくのと同時に、絶対に近づきたくないという拒否反応が相まって、ギイを見るたびに、託生は言いようのない苦しい気持ちになった。 『葉山は自己表現がど下手だな』 クラスメイトと揉め事ばかり起こす託生に、ギイは怒るでも呆れるでもなくそう言った。 まるで託生の本来の姿を知っているとでも言いたそうなその目に、託生の気持ちはぐらりと揺れた。 あの時から、もしかしたらという馬鹿な考えが胸の奥に燻り始めた。 けれど、そうじゃないとすぐに否定した。 ギイは誰にでも優しいから。 あの言葉に深い意味などないのだ。 そう自分に言い聞かせて、託生はそれまでのように何かに期待することなどしないようにしていた。 完全に無視してくれた方がずっと気が楽なのに、ギイはいつも託生に声をかけてくる。 笑いかけてなんて欲しくない。 優しい言葉なんて聞きたくない。 中途半端に期待して、夢を見ることなどしたくなかった。 誰かを信じて裏切られて傷つくのはもうごめんだった。 ギイが自分のことを理解してくれることなどありはしないのに。 それなのに、どうして視線が彼を追いかけてしまうのか。 (眩しいな・・・) 綺麗な容姿も、屈託のない笑顔も、何もかもが眩しくて、思わず託生がギイから目を逸らした時、昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが鳴った。 その時になって、次の授業が移動教室だったことを思い出し、慌てて教科書をまとめて立ち上がる。 祠堂は山奥に建つ男子校で、その校内はだだっ広いため、移動の時間を見越して10分前に予鈴のチャイムが鳴る。今からなら移動しても十分間に合うだろう。 託生はさして急ぐこともなく廊下を歩いた。 同じクラスのクラスメイトたちも、託生の少し前をのんびりと歩いている。 追い抜くことも面倒で、託生はそのあとをのろのろと歩いた。 だから、聞くともなく彼らの会話が耳に入ってきてしまったのだ。 「ギイ、上級生から告白されたって本当か?」 「上級生どころか、いろんなヤツから告白されてるって噂だけどな」 「ひゃー、やっぱり男子校ってそういうの本当にあるんだ」 「いくらギイが綺麗でも男だぜ?」 「いや、でも高林みたいな美少女もいることだし」 「確かに高林は美少女だけど、何だよ、じゃあ高林相手なら、お前、できるのか?」 くすくすと秘めた笑いが聞こえる。 「男同士で?いや無理だろ、それ」 「俺は高林相手ならいけるかも」 「げっ、マジか?物好きだな。っていうか高林はギイにぞっこんじゃねぇか」 「ギイはぜんぜん相手にしてないけどな」 「そりゃそうだろ。何が悲しくて男相手にしなくちゃならねぇんだよ、男同士なんて気持ちわりぃ」 「けど、アメリカ育ちのギイならそういうの普通なのかもよ?」 「よせって、ギイなら可愛い女の子がより取り見取りだろ」 「そりゃそうか。どっちにしろ、男同士だなんて考えるだけでもごめんだね。ギイだってそうだろ?だから高林みたいな美少女から迫られても相手にしてないんだろうし。気持ち悪いって思ってるんじゃないの?」 「ま、ギイなら可愛い彼女だってすぐにできるだろうしなー。わざわざ男の相手なんてしないか」 やがて話題は違うものへと移っていく。 彼らの話を聞いていた託生の歩みは遅くなり、やがてぴたりと足が止まった。 (気持ち悪い・・・・) 貧血にも似た、すっと目の前が暗くなっていく感覚が襲ってきて、思わず壁に手をついた。 息が荒くなって、じわりと額に汗が滲む。 大きく肩で息をして、託生はふらふらと近くのトイレへと入った。 (吐きそう・・・・) 洗面台にすがりつくようにしてしゃがみこむ。 さっきのクラスメイトたちの会話なんて、男子校ではよくある下世話な話題だ。性的なことに一番興味のある年頃だから、深い意味もなく下世話な世間話としてそこかしこで聞こえてくる。 男子校で、男同士で付き合ってる人たちがいるとかいないとか。 託生にはまったく興味のないことで、どうでもいいことだったから、いつも右から左へと聞き流していた。 それなのに、さっきは会話の中にギイの名前が出てきたせいか、やけにリアルなこととして耳に入ってきてしまった。 ギイは同性を相手にすることなんて、きっと想像したこともないんだろう。 誰から告白されたところで、ギイがそれを受け入れることなんてありはしないのだ。 (男同士なんて気持ち悪ぃ) クラスメイトたちの言葉は、まるで託生自身のことを指していたかのような気がして、ずっと忘れようとしている兄との過去が否が応でも甦った。 肌を這い回る手の感触、耳元で聞こえる息遣い。 逃げたくても逃げられなくて、無理矢理押さえ込まれて熱を注がれた。 何度も許しを請うて、だけど許されることはなかった。 (嫌だ・・・思い出したくない・・・) 彼らの言う通り、普通なら男同士だというだけでも異常なことで、まして兄と関係を持ってしまった自分は誰から見ても穢れた存在だ。 (お前は卑しい人間なんだ・・・) 終わるたびに、兄にそう言われて詰られた。 どんなに嫌だと思っても、されれば感じてしまう。感じればそれなりに反応する。 心と身体は別のものだとどれほど言い聞かせてみても、どちらも自分には違いないのだ。 自分が今までしてきたことは、誰からみても気持ちの悪いことなのだ。 「う・・・っ」 込み上げる嘔吐感を堪えきれず、託生は昼に食べたものを吐き出した。 震える手で蛇口を捻って水を流す。 ごぼごぼと流れていく汚物は自分の身体の中から出てきたものだ。自分の中にはいったいどれほどの醜いものが溜まっているのだろうか。 どれほど吐き出しても、きっとそれはなくならない。 生きている限り、それは抱えていかなくてはならないものなのだ。 誰もこんな自分のことなど受け止めてくれるはずもない。 母親でさえ背を向けた。 「・・・はぁ・・・はぁ・・・」 きゅっと胃が縮む痛さに目を閉じる。 授業が始まるから行かなくてはと思っても、足が動かない。 まだ嘔吐感は残っていて、きっとすべてを吐き出さない限りはおさまらないだろう。 そう思っても簡単に吐くこともできない。苦しげな低い呻き声と、ざぁざぁと水が流れる音だけがトイレの中に響いた。 どうしよう、と朦朧とする頭で思ったその時、扉が開いて誰かが中に入ってきた。 「葉山?」 聞き覚えのある声。 恐る恐る視線を向けると、そこには同じクラスの赤池章三が立っていた。そしてその後ろにギイ。 顔を上げた託生を見て、章三が表情を変える。 「おい、大丈夫か?真っ青じゃないか」 章三が託生へと近づいてくる。 「・・・来なくていいっ」 叫んだつもりでも、その声は小さく震えていた。 とたんにまた吐き気に襲われて、託生は必死にそれを堪えた。 全身で拒絶反応を示す託生に、章三は呆れたようなため息をついた。 「まったく、体調が悪いときくらい素直になってもいいんじゃないか?」 どうしたものかね、と言わんばかりの声色で、章三がギイを振り返る。 託生はギイの視線から逃れるように洗面台についた手の中に顔を埋めた。 こんな姿、ギイには見られたくない。 早く出て行ってくれ、とひたすらに願う。 そんな託生の耳に、ギイの低く心地いい声が聞こえた。 「章三、オレが葉山を保健室に連れていくから、先生には授業には少し遅れるって言っておいてくれ。葉山は欠席だ」 章三の肩を叩き、ギイが託生へと歩み寄る。 「ああ、分かった。それ、貸せよ」 ギイが手にしていた教科書を受け取り、章三がまだ心配そうに託生の様子を伺う。親切をひどい言葉で拒否したというのに、それでもまだ託生のことを気にしてくれるのだ。 章三はギイの寮での同室者で、誰もが認めるギイの相棒だ。 風紀委員として他人にも自分にも厳しい男だけれど、同じくらいに誰にでも平等に優しく親切だ。 章三もまた、人の醜い部分など知らずに真っ直ぐに歩いていける人間なのだ。 ギイが章三を選んだのも納得できる。 「じゃあ先に行ってるからな」 「ああ」 章三がトイレを出て行く。残されたギイが託生のそばに立った。 「大丈夫か?まだ吐きそうか?」 「・・・・いいから・・・」 一人にして欲しかった。 残ってくれるなら、まだ章三の方がましだった。 こんな姿、ギイには見られたくなった。 「ほら、立てるか?」 ギイが託生の腕を取る。とたんに全身が粟立ち、また別の種類の吐き気が込み上がた。 いつもなら力いっぱい振り払うところだけれど、今は身体の力が抜けていて、それができなかった。 ギイに促されて立ち上がると、体勢が変わったことで堪えていた吐き気が一気に込み上げた来た。 「・・・っ」 咄嗟にギイを押しのけて、託生は洗面台に顔を埋めるようにした前屈みになった。 胃からせり上がってきたものを吐き出して、大きく肩で息をする。 ギイが労わるように何度も託生の背を撫でた。 「・・・よ、ごれるから・・・っ」 離して、とつぶやく託生に、ギイは背を撫でていた手を止めていきなり声を上げた。 「いい加減にしろっ」 まさか怒鳴られるとは思っていなかった託生が顔を上げてギイを見る。 「こんな時にそんなこと気にするな。どうして辛い時は辛いって言わない。オレに、そんな気を使ったりするな。・・・もっと頼ってくれていいんだ」 「・・・・」 「・・・友達だろ?」 静かな口調とは裏腹に、ギイはその表情に怒りを滲ませていた。 初めて見るギイの怒った顔を、託生は不思議な思いで見つめていた。 ギイもまた、章三と同じように託生のことを心配してくれているのだ。 ろくに話したことのないクラスメイトを簡単に友達だと言い、汚れるのも構わず手を貸してくれる。 そこには何の打算も下心もないというのに。自分はそれを素直に受け取ることはできない。 そんな自分がひどく小さな人間に思えて、託生はまた俯いた。 ギイの優しさは、どこまで託生を打ちのめす。 胃の中のものをすべて吐ききってしまうと、ようやく苦しかった嘔吐感から解放された。 水をすくって口をゆすぐと、少しすっきりした気分になった。 「歩けるか?」 「・・・」 うなづいて、託生はギイの手をそっと押しのけて歩き出した。 授業に出るのは無理だと思って、ギイに促されるまま保健室へと向かう。 ギイは無言のまま託生から少し距離を置いて隣を歩いた。 青い顔をしている託生を見ていると、腕を取って支えてやりたい気になったが、そんなことをすれば今度こそ託生は一人にしてくれと言い切るだろう。 「風邪でも引いてたのか?」 さっき思わず怒鳴ってしまったことで気まずくなった空気を何とかしたくて、ギイは普段と変わらない気安さを装って託生に尋ねた。 託生は小さく首を横に振ると、また黙ってしまう。 そっか、とつぶやいて、また二人は無言のまま廊下を歩き、建物の1階にある保健室の扉を開けた。 「あー、中山先生いないみたいだな」 無人の部屋にギイは舌打ちすると、勝手知ったる何とやらで、さっさとベッドを仕切るカーテンを開けた。 「横になるといい。まだ顔色悪いぞ」 「・・・うん」 託生は靴を脱ぐと倒れこむようにしてベッドに身体を横たえた。膝を折り小さく丸まろうとする姿に、ギイは目を細めた。まだ苦しいのだろう。ギイはベッドの脇に立つと、託生の首元に手を伸ばした。 「・・・・っ!」 はっとしたように託生が身を竦ませる。 そこにある種の怯えの色が滲み出ているのを感じて、ギイは一瞬躊躇した。 「・・・ネクタイ、緩めた方がいい」 ギイの言葉に、託生はほっとしたように身体の強張りを解いた。 「ああ・・いいよ・・・自分でするから・・・」 結び目を解こうとするギイの指に、託生の指が触れる。 その冷たさにギイは切なくなり、けれど託生の手つきがまだどこか覚束ないので、譲ることなく強引に結び目を解いた。 「ベルトも緩めて、少し眠った方がいい」 さすがにそこまで手を貸すようなことはせず、ギイが一歩離れる。 その方が楽だということは託生にも分かっていたので、素直に言われた通りベルトを外した。 ギイは気づかれないようにそんな託生を見ていた。 汗ばんだ頬や、いつもは見えない首筋、力なく横たわる華奢な身体を見ていると、不謹慎だとは分かっていても、鼓動が高鳴るのを止めることができなかった。 こんな形であっても、託生と二人きりになれたことが嬉しくて仕方がなかったのだ。 何となくバツが悪くてギイは視線を逸らした。 「・・・水、飲むか?」 保健室の片隅に置かれた小さな冷蔵庫を開けて、中からペットボトルを取り出す。 薬を飲む時用に常備されているのを知っているので、ギイは蓋を開けてコップに水を注いだ。 「ほら」 託生は片肘をついて上体を起こすと、差し出されたコップを受け取った。 その時、ギイのシャツの袖口が汚れていることに気づいた。 さっき嘔吐した時に汚してしまったのだ。 「崎くん・・・・」 「うん?」 託生の視線を辿り、ギイは汚れた袖口に気づいた。 「ああ、気にしなくていい。洗えば落ちる」 「・・・でも・・・」 汚してしまった。 自分のせいで、と思っただけで息苦しくなった。 じっと袖口を見つめ続ける託生に、ギイは困ったな、というように軽く肩をすくめると、備え付けの流しの前に立ち、蛇口を捻った。流れ出した水でさっさと汚れた袖口を洗い、軽く手首を振って水滴を飛ばす。 「ほら、もう綺麗になった」 「・・・・」 「あとでちゃんと洗濯もする。な?何も問題はないだろ?」 「・・・・ごめん」 珍しく素直に謝る託生に、ふっとギイが微笑む。 「なぁ葉山、オレにそんなに気を使わなくていいんだぜ?それに、言っただろ、体調の悪い時にあれこれ考える必要はない。葉山は他人に気を使いすぎだ。友達だろ?それともオレじゃ頼りにならないか?」 どこまででも優しく、ギイが言う。 そんなことはあるはずがない。 ギイは同い年とは思えないくらいによく気がついて頼りになる。 だけど、だからといって簡単に甘えることなどできなかった。 そんなことをすれば、きっと自分はダメになってしまう。 ギイは託生が飲み干したコップを受け取ると、流しのシンクへと置いて、閉ざされていた窓を開けた。 心地よい風に託生はほっと息を吐いた。 食べたものを吐くなんていつ以来だろう。 あんな風に急に気持ちが悪くなるなんて、自分でも驚いた。 「こういう時ってどんな薬飲むんだろうなぁ。胃薬とか?風邪じゃないのに風邪薬ってわけにもいかないしな。オレさ、普段あんまり体調悪くしたりしないから、よく分からないんだよな」 答えない託生に頓着することなく、どこまでも明るくギイが戸棚を覗き込みながら話す。 いつまでたっても教室へ戻ろうとしないギイに、もういいからと言いかけて、けれど何故か言えず、気づかれないようにギイの姿を目で追った。 後ろ姿くらいなら、見つめていてもきっと許される。 それくらいなら自分にも。 そう思った瞬間、託生はさっきのクラスメイトたちの会話が思い出した。 ギイは級長として、こんな風に優しく親切にしてくれるけれど、もし、託生が誰にも言えないでいる過去を知れば、さすがのギイもきっと軽蔑して嫌悪することだろう。 こんな風に優しく接してくれることもなくなる。 そう思ったら、またきゅっと胃が痛くなった。 (ああ、そうか・・・) 託生はじわりと溢れた涙で滲んだ視界の中にいるギイを見つめた。 別に何かを期待していたわけじゃないのに、ギイに嫌われてしまうことを想像したら怖くなった。 男同士でなんて気持ち悪いとギイが思っているとしたら、間違いなく託生のことも気持ち悪いと思うだろう。 そう思ったらすっと血の気が引いて、たまらない嘔吐感が込み上げたのだ。 (ぼくは、彼に嫌われたくなかったんだ) 好きになって欲しいと思っているわけではない。 自分とはまったく違う世界にいる手の届かない人だけれど、それでも嫌われるのは怖かった。 どうしてそんな風に思うのか、その気持ちを誰かに・・・自分にすら説明することはできないけれど。 それは自分とは違う綺麗なものに憧れているせいなのかもしれない。 その綺麗なものを、汚したくないと思ったからかもしれない。 ギイはこのまま憧れの人でいて欲しい。 遠くで見ているだけでいい。 だから、ギイ。 ぼくには触れないで。 眠りについた託生を残してギイは教室へと戻った。 結局その後の授業に、託生は姿を見せることはなかった。 心配をした片倉に簡単に事情を説明して、保健室に迎えに行ってくれないかと頼むと、片倉は二つ返事で引き受けてくれた。 自分が行くよりは片倉が行った方が安心するだろうと、ギイは思ったのだ。 どこまでもギイを拒否していた託生。 他人を近づけまいとするのはギイに対してだけではないのだと分かっていても、やはりそれなりに落ち込むものだ。 いったいどうしたらもっと託生に近づくことができるのだろうか。 自分と片倉とではいったい何が違うのだろうか。 どこか鬱々とした気分で寮の部屋に帰ると、すでに章三は戻っていて、机に向かって課題のテキストを広げていた。 章三の、いつもと何も変わらない清廉とした姿を目にすると、ギイは何となくほっと肩の力が抜けた。 「葉山は大丈夫だったのか?」 どうやら章三も託生のことは気になっていたようで、開口一番尋ねてきた。 「迎えは片倉に頼んだ」 「ああ、葉山は片倉とだけはまともに話をするからなぁ」 章三はテキストから顔を上げることなく、苦笑した。 ギイは荷物を机に置くと、そのままベッドに横になった。何気ない章三の言葉が、ギイの心を暗くする。 「それにしても、何だって葉山はあそこまで人を拒絶するんだろうな。入学して最初っからああだからなぁ、どうしてあそこまで人嫌いなのか分からないな」 「ああ、そうだな」 人間接触嫌悪症。 少しでも触れようものなら全身の毛を逆立てて威嚇する猫のような反応を返してくる。 そんな託生の反応を面白ってわざと触れようとするクラスメイトたちを、ギイはなるべく波風立てないように陰で牽制してきたが、四六時中一緒にいられるわけでもなく、ギイの知らないところで託生がどんな嫌がらせを受けているかは知る由もない。 今日も、トイレでうずくまる託生を目にした時には、もしかしたら誰かにひどいことをされたんじゃないかと、一瞬血の気が引いた。 けれど、ただ体調が悪くなっただけだと分かって安心した。 安心はしたけれど、そんな時でさえ託生はギイに助けを求めることはしなかった。 「なぁ章三」 「うん?」 章三は課題を考えているのかどこか生返事を返す。 「例えば、自分がすごく大事に思っている人が困っているとして、手を貸してやりたいって思うのはおかしなことなのかな」 「普通だろ」 何を聞くのやら、と章三が笑う。 「そうだよな、オレができることで、その人が少しでも楽になるんだとしたら、オレはどんなことでもしてやりたいって思うんだが、だけど相手から手を貸して欲しくないって拒絶されたら、お前ならどうする?」 そこでようやく章三はペンを置き、くるりとギイへと身体を向けた。 「ギイの助けをいらないって言う人間がいるのか?」 ニヤニヤと笑う章三に、ギイは少しむっとしたように章三を睨む。 章三はしてやったりと言う表情を見せたあと、少し考えるように視線を上向けた。 「ギイが手を貸してやりたいって思うのは、ギイの都合だろ?」 「え?」 「たとえ相手が本当に困っているとしても、助けてやりたいって思うのはあくまでギイの都合だよな。相手がそれを望んでいないのだとしたら、余計なお世話にすぎない。相手にしみてりゃ迷惑なことだってある。大切なのは相手が助けを求めてきた時に、手を貸してやることができるかどうかじゃないかと、僕は思うんだけどな。たとえその時、ギイが手を貸すことでギイ自身が困る立場になったとしても、だ。自分の都合だけで相手に手を貸そうなんて考えるのは傲慢だし、ギイにしてみれば親切のつもりでも、その気持ちは相手には伝わらないんじゃないかな」 「ああ・・・そうか・・・」 「それに、手を借りようって思うには、それ相当の信頼関係がないと難しいだろ」 「信頼関係?」 「手を貸す方も借りる方も、相手のことを信頼していないとそんな気にはならないんじゃないか?ギイが拒絶されるのだとしたら、それはまだその相手との間に信頼関係がないからなんじゃないか?」 「そうだな・・・」 章三の言う通りだ。 自分と託生の間には信頼関係どころか、友情の欠片だって生まれてはいないのだ。 そんな相手から頼りにしてくれなんて言われたところで、託生が素直にうなづくはずもない。 託生はギイのことを周りのクラスメイトたちと同じようにしか思っていない。 どれほど救いの手を差し伸べようとしても、託生が頑なに拒むのはそういうことなのだ。 (これは・・けっこうきついな) ギイの目には、託生が何かに苦しんでいるように見えて、少しでも楽になれるのであれば、何でもしてやりたいと思っていたけれど、それは思いあがった考えだったのだろうか。 ギイは勢いをつけて起き上がると、がしがしと頭をかいた。 「章三の言う通りだな。手を貸してやりたいって、何とかしてやりたいって、オレの勝手な都合を押し付けてるうちは前に進むはずもないよな」 「おや、今日はずいぶん殊勝だな。明日雨が降らなけりゃいいけど」 章三は驚いたように目を丸くして、けれどそれ以上は追求してはこなかった。 ギイが誰のことを言っているのか詮索されても仕方がないし、されたら適当に誤魔化すつもりだったが、章三はきちんと一線を守って、無駄に踏み込んできたりはしなかった。 章三のそういうところが好きだったけれど、どこか物足りなくも感じた。 けれど、どこまでもきちんとした章三の言葉で、それまでの鬱々とした気持ちは少しは晴れた。 無理矢理に、強引に、焦って託生に近づくのはやめよう、とその時ギイは思った。 ここまでたどり着くまでの時間を考えれば、今さら焦ってどうすると自分に言い聞かせる。 もちろん、かといって有り余るほど時間があるわけではない。むしろ限られた時間の中で、祠堂へ来た目的を果たしたい思いはある。 保健室で、ギイに怯えた表情を見せた託生。 あんな顔が見たかったわけじゃないのだ。 ただ、昔みたいな優しい笑顔が見たいだけだ。 もう一度あんな風に笑ってくれるなら、その笑顔を自分だけに向けてくれたら、どんなに幸せになれるだろう。 (片思いってのは、想像以上に苦しいな) 胸が焼けつくように締め付けられて、ギイはもう一度ベッドに横になった。 目を閉じて、遠い昔にギイの心をあっさりと奪った託生の笑顔を思い浮かべる。 柔らかな優しい笑顔。 思い浮かべるだけで、幸せな気持ちになれる。 いつか託生に思いを打ち明けて、もし受け入れてもらえたのなら。 託生が抱える悩みも苦しみも、全部分け合えるような、そんな関係をちゃんと築こう。 何があっても揺るがない確かな絆を、時間をかけてゆっくりでもいいから、ちゃんと築いていこう。 欲しいのは軽い恋愛関係ではないのだ。 もっともっと深いところで、託生とは繋がっていたいと思うから。 「ギイ、何か困ってることがあるなら相談に乗るからな」 章三がぽつりと言った。 面と向かっては言わない章三に小さく笑って、ギイはありがとな、と返した。 少なくとも祠堂で得たこの相棒との間には友情という絆が育まれつつある。 託生ともまずは友情から始めるべきなのか? そう考えて、やはりそうじゃないとギイは思いなおす。 最初は友達になれればと思っていた。けれど、それ以上を求めている自分に気づいて、今では例え友達になれたとしても、それだけでは満足できないことは分かっている。 今はまだ思いを告げるつもりはなかった。 追い詰めて、怯えさせたくはない。 (最初から長期計画になるとは思っていたけどな) だからと言って、あきらめるつもりは毛頭なかった。 いつか必ず、託生に好きだと言おう。 自分といれば必ず幸せになれると託生に信じてもらえるよう、その時が来るまでにもっと強くなろう。 そしてもう何度も思ったことを、ギイはまた思う。 ゆっくりと目を開けて、ギイはふっと息を吐いた。 「章三、飯に行こう」 「まだ早い」 「いいだろ。食堂一番乗り」 「一番乗りしたって別にいいことはない」 「そんなことはない」 呆れる章三を強引に誘って、またいつもの日常へと戻っていく。 心に強く思ったことは必ず現実のものになるというから。 そうなるように強く強く心に願うから。 だから、託生。 オレのことを好きになれ。 |