涙に濡れた木曜日 新学期も始まり、ようやく新しいクラスにも慣れ、すべてが順調に進んでいた。 託生はぎこちないなりにも去年までとは全く違う態度で、すんなりとクラスにも馴染んでいるように見えた。 オレのこともようやく躊躇することなくギイと呼ぶようになった。 それでも時折、崎くんと言いかけて慌ててギイと言い直す。 託生がオレのことをギイと呼び、オレが託生のことを託生と呼ぶのを知り、周囲の連中にはオレたちが親しい仲になりつつあるという認識ができ、一緒にいることにも違和感を抱くこともなくなった。 これはなかなかいい傾向だ、とオレは一人悦に入っていた。 けれど、そうそう簡単にコトは運ばないもので。 放課後、皆が荷物をまとめて寮へ戻ろうとざわつく教室の片隅で、大きな叫び声と共に肌を打つ音が聞こえた。 一瞬にして教室の中が静まり返り、その場にいた全員の視線が物音がした方へと集まる。 そこには託生がいて、睨み合うようにして同じクラスの生徒が立っている。 それは去年まで頻繁に見かけられた光景で、誰しもが「ああ、またか」と思ったに違いない。 青ざめた顔をして立ち尽くす託生は、相手を引っぱたいたのだろう。 右手を胸の前で握り締めて、動けないでいる。 「何だよ、叩くことないだろうっ!」 叩かれた側が何をしたかは知らないが、当然と言うべきのように憤慨していて今にも託生に掴みかかりそうな勢いだ。 オレは一呼吸置いたあと、ゆっくりと2人に近づいた。 「どうした、何か揉め事か?」 なるべく平静を装って尋ねると、ここぞとばかりに叩かれたヤツが息巻いた。 「ギイ、葉山が突然俺のことを引っぱたいたんだ」 ああ、何だか去年に戻ったようだなと思ったが、一つ違うのは、託生が俯いたまま小さく震えていることだった。 それまでなら絶対に目を逸らすことなく相手を睨みつけていた。それがまた生意気だと言われて、相手の怒りに火をつけることになっていたのだが、今はどちらかと言えば託生が被害者のようにさえ見える。 「託生、何があった?」 「・・・・」 「託生?」 託生は机の上にあった鞄を掴むと、そのまま脱兎のごとく教室を飛び出した。 「託生っ!」 「いいよ、ギイ、俺もちょっと・・・悪かったし」 追いかけようとするオレを、叩かれた生徒が制した。 寮の部屋に戻ると託生はちゃんと戻っていて、ベッドにうつ伏せになっていた。 扉を閉めて、そのままベッドの端に腰かける。きしっとオレの体重の分だけベッドが沈み、気づいた託生がオレから逃げるように身を丸くして背を向けた。 「託生」 「・・・・・」 「なぁ、こっち向いてくれないか?話がしたい」 「・・・・あっち行ってくれよ、ギイ」 話しかけるなと。触ったりしないでくれと全身で拒否されてる気がして、オレは何とも言えない気持ちになった。 今までなら仕方がないと引いていたが、もうそんなことはしない。 ここで、はいそうですかと引く恋人がどこにいる? 「何があったかは聞いた。あいつ、いきなり託生の髪に触れたって?」 「・・・・・」 「そりゃ誰でもびっくりするし、条件反射でひっぱたいても仕方ない」 オレが言うと、託生はゆるく首を振った。 「・・・普通は叩いたりしないよ。・・・そりゃあ突然触れられたら誰でも驚くだろうけど、だけど髪に糸くずがついてるって言って取ってくれようとしたんだ。そんな相手を叩いたりはしないだろ?」 オレに背を向けたまま、託生が小さくつぶやく。 もしかしてまた嫌悪症が再発したのか、とひやりとする。 もちろん今でも完治したとは思っていない。かろうじてオレとの接触は、前もっての覚悟があれば受け入れてくれてるけれど、それもいきなりだったらひどく驚いて身を震わせることもある。 オレでさえそうなのだから、まだそれほど親しくないクラスの誰かに触れられれば以前と同じ反応が出てもおかしくはない。 託生が嫌悪症を治そうと頑張っていることは知っている。 けれど、もしかしたらオレが思っている以上に、託生は無理をしていたのだろうか。 「・・・やっぱり駄目だよ、ギイ」 「うん?」 「嫌悪症は・・・きっと治らない」 「・・・・」 「ギイといると、もしかしてもうあんな風にはならないのかもしれないって思えたんだ。普通に誰とでも気軽に肩を叩いたりできるのかなって。急に触れられも鳥肌立てずにいられるかなって、そうなりたいって、思ったんだよ。だけど・・・」 オレは小さく息をつくと、そっと託生の肩に触れた。 びくっと身を震わせ、けれど託生は何も言わない。 「ほら、ちょっとこっち向けよ」 しばらくすると託生はのろのろと起き上がった。涙で濡れた睫がやけに色っぽく見えてしまうのはどうしようもなかったけれど、オレはベッドへと乗り上げて、託生と向き合うようにして座りなおした。 俯く託生をまっすぐに見据える。 「なぁ、オレ、託生に無理させてたか?」 「何が?」 「副級長にしたりさ。オレの自分勝手な思いだけど、一緒にいたいって気持ちがあって半ば無理矢理副級長に指名した。だけど、お前が少しでもクラスになじめればいいなとも思ってた。嫌悪症、まだ完全に治ってないのに、無理させてたか?」 託生はオレの言葉に首を振った。 「そんなことないよ。ギイのせいとか、そうじゃなくて、ぼくが・・・ぼく自身が治したいって思ったんだよ。それは・・ギイが背中を押してくれたから・・だけど」 ぽつぽつと説明する託生に、オレはうんとうなづいた。 だけど駄目なんじゃないかと思っている。 ままならない自分をもどかしく思っている。 そんな託生が愛おしくてならない。 「治るよ、託生」 「・・・・」 「嫌悪症は必ず治る。オレが治してやるよ。約束する」 「無理だよ・・・そんな適当なこと言わないでくれよ」 「適当なことなんかじゃない。託生の嫌悪症、ちゃんと治ってくれないと、オレだって困る」 「・・・どういうこと?」 そろりと託生が視線を上げる。 「だってオレ、もっと託生に触れたいし、キスもしたい。抱きしめたいし・・・」 その先だって、本当はしたいけれど、さすがにそれを言うのは思いとどまった。 託生はそういうこと、どう思ってるのだろうか。 そういうこと、まさか知らないわけじゃないよな。 キスのその先、オレと同じように少しはしたいって思ってくれてるのかな。 託生はためらいながらも、うんとうなづいた。 「ぼくだって・・・治したいって、思ってるよ・・・」 「それ、オレとキスしたいってこと?」 「ち、違うよっ!」 「そんなきっぱり否定しなくても」 がくりと肩を落とすと、ようやく託生の表情が和らいだ。 オレは右手を差し出すと、ほら、と託生を促した。 「なに?」 「手、重ねてごらん」 「・・・・」 託生はオレの手のひらを、何か怖いものでも見るかのようにじっと凝視する。 それは、もし触れて嫌悪症が出たらどうしようかとでも思っているようにも見えた。 「大丈夫だよ。ほら」 もう一度促すと、託生はおずおずと右手を伸ばして、オレの手に自分のそれを重ねた。 じんわりと手のひらが温かくなる。 まるで初めて好きな人と触れた時のように、心臓がきゅっと痛くなるような気がして、くすぐったいような幸せな気持ちになった。 しばらくそうして手を重ねていると、やがて託生はふっと息をついて、強張っていた身体の力を抜いた。 「ほらな、大丈夫だろ?」 「うん」 オレは指を絡める、いわゆる恋人繋ぎをして託生の手をさらに強く握った。 慌てて指を解こうとする託生を逃がさずに握り締める。 「ギイ・・・っ」 「震えてないし、気持ち悪くもないだろ?」 「だけど・・それはギイだから・・・」 「はは、嬉しいこと言ってくれるんだな」 託生は赤く頬を染めて黙り込んだ。 「もうちょっと試してもいい?」 「え?」 オレはそのまま身を寄せて、もう片方の手で託生の肩を抱き寄せた。そっと、怖がらせないように慎重に。託生は息を詰めてされるがままに大人しくしている。 腕の中でふわっと体温が上がった気がして、オレはらしくもなく心臓が激しく鼓動するのを感じた。 「大丈夫?」 「うん・・・」 「なぁ、こんな風にオレに抱きしめられるのって、どう思ってる?」 「どう、って?」 「嫌だなぁとか気持ち悪いなぁとは思わない?」 託生は顔を上げて、言っている意味が分からないとでもいうように小首を傾げた。 「思わないよ・・・あの・・ギイはそう思ってるの?」 「まさか。好きな相手を抱きしめるのに、どうして気持ち悪いなんて思うんだよ」 「じゃあぼくだって・・・」 言って、託生ははっとしたように口を閉ざした。 そうか、オレばかりじゃなくて、託生だってオレのこと好きだって言ってくれたんだよな。 オレ、もっと自信持っていいのかな。 「じゃあもうちょっとだけ試させて?」 ゆっくりと顔を近づけて、こつんと額をくっつける。 「キスしてもいい?」 「・・・・」 「気持ち悪かったら殴ってもいいからな」 そっと唇が触れる程度のキスをする。 あの音楽堂の夜には一瞬後に突き飛ばされたけど、もう託生はそんなことはしなかった。 握り締めた指をもう一度強く握ってみる。 一瞬の戸惑いのあと、託生も同じように、握り返してくれた。 「大好きだよ、託生」 「・・・・っ」 「何も心配しなくていい。大丈夫。託生は大丈夫だから」 「うん」 どこかほっとしたように託生が笑う。 それはオレが愛してやまない優しい笑顔だった。 NEXT DAY |