前向き前進金曜日 翌日、託生は昨日引っ叩いてしまった相手に素直に謝った。 謝られた当人はまさか託生が謝ってくるなんて夢にも思っていなかったようで、それでもしどろもどろと託生にも謝った。 「俺もごめん。葉山が去年みたいに過剰反応しないってみんなが言うからさ、本当かなって、ちょっと試してみたくなったのもあってさ」 「うん・・・あの・・突然だったから、条件反射みたいに手が出ちゃって、ぼくの方こそごめん」 「いいっていいって。ごめんな、葉山」 今までなら託生の方から謝るなんてことがなかったから、誰もが不満を持ったまま空気が悪くなっていったのだけれど、託生が一言ごめんといえば、みんなそれ以上根に持つようなことはないのだ。 人に触れるのが苦手なんだと言ったところで、そこまで奇異な目で見られることもない。 こんなに簡単なことが、どうして今までできなかったのか。 「不思議だな」 「何が?」 昼食は外で食べようと託生を誘った。 外でなんか食べたことないという託生をお気に入りの林へと連れていくと、託生はすっかりそこが気に入ったようで、今までにないリラックスした様子を見せた。 2年になってから、昼はいつも章三と連れ立って三人で食べているが、周りからすれば不思議な組み合わせに見えるらしく、いつでもどこかからの視線を感じてしまう。 無遠慮な視線に慣れているオレや、少々のことには動じない章三とは違い、託生はそれがどうも居心地が悪いらしくて、いつも落ち着かない様子だった。 悪意に満ちた視線なら平気なくせして、不思議だなぁとは思うのだが、そういうところも託生らしいといえば託生らしい。 だから今日は誰からの視線も気にせずにゆっくりと2人で昼食をと思ったのだ。 足を投げ出して、売店で買ってきたおにぎりを口にする。 「何が不思議だって?」 「だって去年とはあまりにも違うから」 「うん?クラスの連中の態度が?」 「そうじゃなくて、ぼく自身が」 託生は投げ出していた足を抱え込んで膝の上に顎を乗せた。 「春休みが明けただけなのに、まるで世界が180度違ってるように思えるんだ。今までは腹を立てるなら立てればいいって思ってた。嫌われたって誰にどう思われたって平気だったし、むしろ近づかないで欲しいって思ってた。だけど、すごく不思議なんだけど、今はそんな風には思わないんだ。ごめん、ってたった一言すら口にできなかったのに、今は普通に言うことができる。声をかけてくれるのが嬉しいなって思うし、友達になれたらいいなって思う。嫌悪症も、このままなくなればいいのになって。そんなこと思う日が来るなんて思ったことなかったのに・・・」 「それは、託生が変わったからだよ」 「ぼくが?」 「柔らかくなったからな、最近の託生は」 オレの言葉に、託生は少し考えるような素振りを見せた。 もともと託生はほんわかとした優しい顔立ちをしているし、ちょっとおっとりとした言動と相まって、どこか守ってやりたくなる雰囲気がある。 まぁ実際は頑固で怖いもの知らずなところがあって、守って欲しいだなんてこれっぽちも思ってないだろうけど。 「みんな最初から託生のことを嫌ってたわけじゃないからな。託生の頑なな態度に触発されて、みんなちょっと意地を張ってただけだろ。普通にしてれば何も面倒なことなんて起こらないさ」 「うん。でもきっとそれはギイのおかげだよね」 「オレ?」 うん、と託生が手にしたペットボトルのお茶を一口飲んだ。 「ギイ、ぼくがクラスになじんで、みんなと溶け込めるまでは、って思ってずっと一緒にいてくれてるんだろ?」 「・・・・」 「大丈夫だよ。ギイがいなくても、もう喧嘩なんてしたりしないから」 「あのな、一緒にいるのはそういう理由じゃないんだけどな」 「違うの?」 やれやれ、こいつは全然分かってないじゃないか。 まぁそういう理由が全くないってわけじゃないが、それはメインじゃない。 一緒にいたいのは、そりゃ好きだからに決まってるだろうが。 長かった片思いに終止符を打って、ようやく相思相愛になれた相手と片時も離れていたくないっていう気持ちがどうして分からないんだろうな、こいつは。 もしかして託生はオレと一緒にいたいって思ってないのだろうか。 「なぁ託生」 「うん?」 「お前、オレと一緒にいるの嫌か?」 「・・・そんなこと、ないよ」 「ほんとか?」 一瞬の間が気になるじゃないか、とオレが託生に詰め寄る。 「う・・ん、ギイといると目立つから、ちょっとそれは恥ずかしいって思う時もあるんだけど、でもよく考えたら誰もぼくのことなんて見てるわけじゃないし、ぼくだってギイのこと無意識のうちに見ちゃうことあるし」 「へぇ、託生、オレのこと見てるんだ」 はっとしたように託生が唇を尖らせてそっぽを向いた。 オレはじりじりとそんな託生へと近づいた。 「託生、もしかして前からそんな風にオレのこと見てた?」 「何だよ、そんな風って」 「ギイってカッコいいなーとか、そういう風に、さ」 「ばっ・・・自分でそういうこと言うなよ、自意識過剰!」 「そうかそうか、嫌われてたわけじゃなかったんだなぁ、良かった良かった」 よしよしとオレがうなづくと、託生は呆れたような視線を投げかけ、そしてちょっとしょうがないなというように笑った。 「ギイって、いつでも前向きだよね」 「うん?」 「音楽堂でも言ってくれただろ。諦めたらそれで終わりだって」 「ああ」 「すごいなって。そんな風に考えたことなかったから。諦めた方がずっと楽で、何かを諦めずに手に入れようなんて思ったことがなかった。思わないようにしてた。だけど、ギイのあの一言で、変われるかもしれないって思えた。変わりたいって思った。すごく単純だなって思うんだけど、ああ、そんな風に思えるようになりたいなった思ったんだよ」 託生はそう言って、照れたように微笑んだ。 オレの言葉に何か感じるところがあって、それが託生が変わろうと思ったきっかけになったのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。 オレが焦がれていた、あの優しい笑顔がもう一度見られるのだとしたら、あの決死の告白も実を結ぶというものだ。 オレこそが諦めなくて良かったと思っているのだ。 「いろいろあってもさ、気持ちだけでも前向きでいるって大切だよな」 「うん・・・」 「欲しいものはずっと願い続けていれば叶うものだなって最近思うからさ」 オレが言うと、託生はすっと表情を変えた。 以前の冷たい横顔にはっとした。 「そうかな・・・どんなに願っても、手に入らないものってやっぱりあるよ」 「託生?」 「ギイは・・・そういうこと、ないよね・・・」 それまでの明るい表情は一変して、何かを諦めたような冷めた目をして託生が遠くを見つめた。 それはオレが初めて見る託生の表情だった。 怒っている顔も、辛そうにしている顔も、最近は笑った顔も、いろんな顔を見てきたつもりだったけれど、こんな風に寂しそうな顔をする託生を見るのは初めてで、オレは声をかけることができなかった。 そういえば託生の嫌悪症の原因は何なのだろう。 祠堂で託生と再会して、昔とはまったく違う様子の託生に驚いたりしたものの、その驚きの方が大きくて、どうして変わってしまったのかまで突き詰めて考えることはなかった。 目の前にいる託生がすべてで、その託生にどうすれば好きになってもらえるのだろうとばかり考えていた。 けれど、よく考えてみれば物事にはすべて原因があるのだ。 聞けば、託生は答えてくれるだろうか。 知ってしまえば、何だそんなことかと思えたりするのだろうか。 (怖いな・・・) 昼休みに見せた託生の表情を思い出すと、それは聞いてはいけないことのようにも思えた。 聞けば、託生を傷つけてしまうんじゃないかと、そんな予感が胸を掠めた。 嫌な話、その気になれば託生の過去を調べることは簡単だ。 初めて出会ったあの日から再会するまでの間、どこで何をしていたかを詳細に調べれば、託生が変わってしまった原因だって見つかるだろう。 きっと思っているよりずっと簡単に。 けれど、そんなことはしたくない。 好きな人のことを、そんな風に暴くなんて何があってもしたくない。 「どんなに願っても手に入らないもの、か」 託生にとって、どんなに願っても手に入らないものというのはいったい何なのだろう。 オレではそれを与えてやることはできないのだろうか。 託生が望むなら、それがオレにできることなら、何だってしてやれるのに。 だけどきっと、託生はそんなことは望まないんだろうなとも思う。 去年だってどんな窮地に陥っても、決して助けを求めたりしなかった。 優しげな雰囲気とは裏腹に、託生は案外頑固で強気だ。手を差し伸べなくても大丈夫だと思う反面、本当はひどく脆い一面も持っているのではないかとも思う。 嫌悪症はその現れだ。 託生の本当の笑顔を知っているオレとしては、もう二度とあんな風に痛々しい託生は見たくはない。 基本的には自分は自分、他人は他人というのがオレのスタンスのはずなのに、託生のこととなると理性がきかなくなる。 託生が辛い思いをするのは自分のこと以上に胸が痛くなる。 「よしっ」 オレはぱんと頬を叩いて気合を入れた。 何ごとも前向きに。 どんなに不安なことがあっても、託生が好きだと言ってくれたオレでいられるように。 託生のことを何があっても支えられるように。 いつか託生がその胸の内を打ち明けてくれた時に、それがどんなことであっても逃げずにちゃんと受け止めることができるよう、オレは、託生が好きだと言ってくれたオレでいよう。 NEXT DAY |