7通の手紙 8 

日曜、街へ下山するためのバスの中で、ぼくは昨日のギイとの喧嘩のことを考えていた。
ギイと小さな喧嘩をすることなんてしょっちゅうあるけど、それは喧嘩なんて呼べるような大層なものではなかった。
大概が、ギイにしつこくからかわれて、ぼくがそれに怒って、ちょっと言い争いになって、そしてすぐに仲直りして終わりだ。
だいたいギイを相手に喧嘩をしたって、勝てるはずがないのだ。
勝ちたいとも思わないし。
窓の外をぼんやりと眺めながら、ぼくは細く息をついた。
ギイが言うことはよく分かる。だけど、ぼくは自分の気持ちを変えるつもりはなかった。
だからこうして一人でバスに乗っていることを後悔なんてしていない。
唯一、後悔しているとすれば、もっと落ち着いて、ちゃんとギイに自分の考えを伝えればよかったということだけだ。
 
(だけどギイだっていけないんだからな)
 
いつもなら、上手く言葉にできないぼくの気持ちをちゃんと汲み取ってくれて、形にしてくれるギイが、昨日は何だか別人のように冷たかった。
それが嫌で、ぼくは「もう話したくない」と言ってしまった。
だけど、あんな風に一方的に話を終わらせるべきではなかった。
上手く言葉でにできない想いを、ギイなら分かってくれるだろうなんて、ずいぶんと自分勝手な考えだ。
お互い別の人間なのだから、そりゃ考え方なんて違うに決まってるけど、それでも
ちゃんと最後まで話をするべきだった。
背中を向けてしまっては、分かり合うことなんてできやしない。
 
(とりあえず帰ったらもう一度会って話をしないと)
 
こんなことで喧嘩したままなんて嫌だった。
それでなくても滅多に会えないのに、たまに会える時間を喧嘩で過ごすなんてばからしい。
 
(よし、いくら怒られても、もう絶対に逃げたりしないからな)
 
小さく決意した時、バスは街の駅前の停留所に到着した。
岡本に指定された待ち合わせの場所はここからすぐのところで、ぼくは自分が緊張していることに気づいた。
ずっとギイのことばかり考えていたので忘れていたけれど、ぼくはこれから見知らぬ女の子と会って話をしなくてはならないのだ。それもあまり楽しくはない話だ。
緊張しないわけがない。
ぼくが時間通りに店の前に立っていると、やがて一人の女の子が真っ直ぐに僕へと向かってきた。
「葉山さん、こんにちわ」
「あ、こんにちわ・・」
「山本結です。えっと、すみません、せっかくのお休みの日にわざわざ・・・」
結ちゃんは岡本が言っていた通り、とても可愛い子だった。
ショートヘアで、利発そうな瞳をしていて、友達がたくさんいそうな、そんな感じの子だった。
結ちゃんはぼくを見て、ほっと胸をなでおろした。
「良かった、ちゃんと会えて。岡本くんは大丈夫だって言ってたけど、やっぱり来ないってこともあるんじゃないかなぁって思ってたから」
「そんなこと・・。あ、実は、もらった手紙のことなんだけど・・・」
「葉山さん、喉乾いてませんか?私、緊張してたからすごく喉渇いてるんです。冷たいもの飲みませんか?」
言いかけたぼくを遮るように、結ちゃんは目の前の店を指差した。
そして先に中へと入っていく。ぼくは慌ててそのあとを追いかけた。
確かにぼくも緊張から喉が渇いていたので、二人してアイスコーヒーを注文してその流れで空いた席に腰を下ろした。一気に半分ほど飲み干して、お互いに顔を見合わせ
少し気まずく笑みを浮かべた。先に話し出したのは結ちゃんだった。
「私、去年の文化祭で葉山さんと会ってるんですけど、覚えてないですよね?」
「あー、ごめん。ほんとに記憶がなくて」
「ふふ、岡本くんが『あいつはしょうがないやつだよなー』って」
「ごめん」
「ううん。あんなにたくさん人が来てたら、そりゃ覚えてないだろうなって思ってたから。私が一方的に葉山さんのこと見てただけだし。で、いいなぁって勝手に思って勝手に好きになっただけだから」

(うわー、照れるぞ。これは)

ギイに同じような台詞を言われても照れるんだけど、もうけっこう慣れてきた感がある。
去年さんざん、好きだの愛してるだのと囁き続けられ、もうそれはほとんど挨拶のようになっているのだ。
まあ、それでも言われればやっぱり照れるんだけど。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
ちゃんと言わないといけないことがあるんだ。
「あの・・・手紙のこと、なんだけど」
「あ、はい」
とたんに結ちゃんは顔を赤くしてうつむいた。
ぼくはアイスコーヒーを一口飲むと、深呼吸して静かに言った。
「手紙、ありがとう。返事すぐに出せなくてごめんね」
「いいえ」
「ぼくのことそんな風に思ってくれて、嬉しいんだけど・・・ごめんね、ぼく、好きな人がいるんだ」
真っ直ぐに結ちゃんの目を見てはっきりと言った。
結ちゃんも真っ直ぐにぼくを見ていた。
そしてにっこりと笑った。
「葉山さん、私、お願いがあるんです」
「え?」
 
 
静かなフロアに、ほとんど人はいなかった。
ガラスケースに並んだバイオリンを見ながら、結ちゃんはその奥のコーナーへと歩いていく。ぼくもそのあとをついていく。
ここの楽器店はぼくもよく来る店で、どこに何があるかはよく知っている。
この先にはバイオリン用の楽譜があるのだ。
結ちゃんのお願いは、一緒に楽譜を選んで欲しいというもので、どうしてそんなことを言い出したのか理由の分からないぼくは、思わずきょとんとしてしまった。
そんなぼくの様子に、結ちゃんは吹き出した。
「葉山さんて、ほんと正直な人だなぁ。どうしてそんな?って顔してる」
「うん、そう思った」
結ちゃんはあのね、と続けた。
「私が葉山さんを初めて見たのは楽器店だったの。楽譜売り場で、すごく真剣な顔して選んでるなぁって。ほら、若い男の子がバイオリンの楽譜見てるのなんて珍しいから、ついじっと見ちゃって。葉山さんは私のことなんてぜんぜん気づいてなかったけど。葉山さん、好きな曲の楽譜を見るとすごく表情が優しいの。指が勝手に動いてるし」
「え、そうなのかな・・」
そんなの意識したことなかった。そんなとこ見られてたなんて、恥ずかしいな。
結ちゃんは、赤くなってるだろうぼくを見て小さく笑った。
「何かそういうのいいなぁって。私、友達でもバイオリンやってる子いないし、まして男の人でなんてもっといないし。もし葉山さんと仲良くなれたら、音楽の話できるのかなぁなんて想像したりして」
確かにピアノを習ってる人は多くても、バイオリンってなかなかいないから、結ちゃんの気持ちはよく分かる。
「で、久美と一緒に遊びに行った祠堂の文化祭で葉山さんと偶然会って。うわー、運命の出会いだーなんて勝手に盛り上がったりして。そのあとも何回か街で見かけたし。葉山さんのこと、ぜんぜん知らないのに、勝手に理想像作って、好きになって。でも何ていうか、彼氏として付き合いたいというよりも、友達になっていろいろ話してみたいなぁっていう感じだったのかも、あ、ごめんなさい」
「ううん」
自分の気持ちを正直に話す結ちゃんに、ぼくは何だか胸が温かくなるのを感じていた。
結ちゃんは、少し恥ずかしそうにうつむいた。
「手紙のことは、本当に気にしなくていいから。あれは、何ていうか、ファンレターみたいなものなの。もちろん、葉山さんのこと好きだなぁって思う気持ちは本当だけど。でも誰かを好きになるのって、やっぱり特別なことでしょ?だから、こうして会えた記念にっていうのも変だけど、何か思い出に残るものが欲しくて」
「で、楽譜?」
「うーん、ほんとは映画見たり、ウィンドウショッピングしたり、デートっぽいデートで思い出作って、とも思ったけど、葉山さん、そういうの苦手そうだし」
「あー、うん、そうだね」
ギイとなら何でもないことでも、さすがに他の女の子とするのにはちょっと抵抗がある。
「だから葉山さんから強引にプレゼントもらっちゃおうって」
「プレゼント?」
「あ、買って欲しいってことじゃなくて。思い出になるような曲を選んで欲しいなって。そういうのだめですか?」
女の子らしい発想だなぁとぼくは感心してしまった。
その曲を聴けば、好きな人のことを思い出す。自分だけの特別な曲。
そんな思い出が欲しいという結ちゃんの願いをもちろん断ることなんてできず、ぼくは一緒に楽器店に来ていた。
「結ちゃん、バイオリン習って長いの?」
「幼稚園の頃からかな。まだまだ下手なんだけど。葉山さんも習ってるんですよね?」
「いや、ぼくは今は寮にいるから先生についてるわけじゃないんだ。でも、練習はしてるよ」
「聞きたかったなぁ。葉山さんのバイオリン」
「え、下手だし・・」
慌てるぼくに、結ちゃんは疑わしそうな視線を向けた。いや、ほんとに人様に聞いてもらえるほどの腕はまだないんだよな。使っている楽器はとんでもないものだけど。
「葉山さん、何かお勧めの曲を選んでください」
「あ、うーん、そうだなぁ・・・」
好きな曲はたくさんある。けれどこんな風に、誰かのために選ぶなんて今まで経験がない。
先生が生徒に「次はこれ」と選ぶのともまたちょっと意味合いが違う。
ぼくは山ほどある楽譜を一つづつ手にとっては眺める。
頭の中で音楽が流れ出し、ついその中にどっぷりと漬かりそうになって、慌てて意識を元に戻す。
ぼくはじっくりと迷ったあと、結ちゃんのために一曲を選んだ。






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