春が来る前に



このお話は、再会捏造話その3「思い出になる前に」の続きです。
できれば先にそちらからお読みいただければと思います。

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強くなるっていうのは…
迷わないことが強さじゃなくて、
怖がらないことが強さじゃなくて、
泣かないことが強さじゃなくて、
本当の強さって、どんなことがあっても、
前をむけることでしょ。
前をね。               (By リトルミィ)





高校卒業を待たずに姿を消したギイと託生が再会したのは3ヶ月ほど前のことだった。
変わらない思いを確認しあって、もう一度2人で一緒にいることを迷わず選んだ。
8年の間に、お互いに新しい生活を始め、仕事をして、住む場所も変わり、さてどうしたら一緒にいられるのだろうかと考えなければならなかった。
ギイは現在、仕事の中心はヨーロッパで、託生は日本にいる。
すぐにどちらかの生活を変えることもできず、しばらくは遠距離恋愛になることは仕方のないとだった。
もちろんずっと遠距離でいるつもりはなかった。
とりあえず、ギイは2週間おきに託生に会うために日本へやってきて、週末を一緒に過ごすようになった。
どちらかと言うと、決まった休みなどない生活を送っていた託生も、それに合わせて週末は休みをとるようになった。
一緒に過ごせる時間は僅かだったけれど、まったく会えなかった8年を思えば、話ができて、笑いあい、夜を過ごすことができるのだから、やはりそれは嬉しいものには違いなかった。
金曜日、2週間ぶりにギイが日本にやってきて、いつものホテルに入り、夕方になってから託生が合流した。
ホテルの部屋の扉を開けたギイは、予定の時間より1時間も早くやってきた託生に笑顔を見せた。
「早かったな、託生」
「うん、思ってたより早く仕事が終わったから。ギイ、シャワー浴びるとこだった?」
素肌にシャツだけひっかけた状態のギイの姿に、託生は首を傾げた。
「託生が来る前にさっぱりしておこうかと思ったんだ。移動のタクシーの中が暑かったんだよ」
「そうなんだ。入ってくれば?まだ早いし、待ってるから」
「そうする。ああ、そうだ。託生、アレ、集めておいたから、待ってる間に見ておいてくれ」
「あー、うん」
よろしくな、と託生の頭をぽんと叩いて、ギイは浴室に入っていった。
ほどなくしてシャワーの音が聞こえてくる。
託生はツインルームの奥へと足を向けると、デスクの上に置かれた茶封筒を手にした。
そのままベッドに腰を下ろして中のパンフレットを取り出す。
「うわー、けっこう集めたなぁ」
やるとなったらとことんやるのがギイだった、と今さらのように思い出す。
気合入ってるなーと苦笑しながら、託生は手にしたパンフレットを一枚づつ目を通していった。
ギイが最近託生と会う時に必ず持ってくるのは、日本で一緒に暮らす家を決めるための物件パンフレットだ。
ギイは秋からは日本で仕事をすることが内々に決まっているようで、どうせ出張ベースでしょっちゅう日本へ来るようにもなるから、それなら一緒に暮らす家を決め、同居しようということになった。
託生もすでに実家から離れているし、同居すること自体は特に問題はないと思っていたのだが。
「家賃月40万?!あり得ない。却下。こっちは・・・月50万・・・って、何考えてるんだよ」
2人で住むだけなのにどうして4LDKもの広さがいるのか。
コンシェルジュがいるようなマンションも必要ないし、駐車場に月5万だなんてますますあり得ない。
託生はやれやれというようにパンフレットを封筒に戻した。
確かにギイの立場であれば、それなりの住まいが必要だろう。
それは理解しているし、当然だとも思う。
けれど、託生の収入ではとてもじゃないが月の家賃50万のようなマンションには住めない。
ギイは自分が出すと言うだろうが、それは何となく抵抗があった。
同居するなら自分もちゃんと家賃を払いたかったし、できれば折半にしたい。
とは言うものの、ギイクラスの人が住む家となると、びっくりするような家賃になる。
自分とギイとではそもそも収入差があるのだから、どこかで妥協点を見つけなければと思うものの・・
「ギイってお給料いくらくらい貰ってるんだろう」
聞けば隠すことなく答えてくれるだろうが、こういうことを聞くのにもちょっと抵抗がある。
しかし一緒に住むとなれば、それは避けて通れない部分のような気もする。
少し前からギイが同居のためのあれこれと口にするたび、何となく託生は気が重くなって仕方なかった。
一緒にいられることは嬉しいのに、どうして素直に喜べないのだろうか。
「託生?」
浴室から出てきたギイが、考え込む託生に声をかけた。
「どうした?難しい顔して」
「ううん」
「パンフレット見た?」
「うん。あのさ、ギイ」
「なに?」
がしがしとタオルで髪を拭いながら、ギイは託生の隣に腰かけた。
「ギイが探してきてくれるとこって、どれもすごくちゃんとしてるし素敵なとこばかりだけど、だけどこの家賃じゃぼくには無理だよ」
正直に言うと、ギイは不思議そうに首を傾げた。
「だけど、都内の方が便利だろ?それに、バイオリンの練習するなら防音室があった方がいいし」
「そうだけど・・・」
「それに、家賃のことはそんなに気にしなくてもいいよ」
「するよ」
一応の反論を試みるが、ギイはどうも本気にしていないようで、しょうがないなというように託生の手から封筒を取り上げた。
「気に入るのなかったか?じゃあもうちょっと探してみるな」
「いや、だから、そういうことじゃなくて・・・」
小さく言っても、ギイは託生が遠慮してるくらいにしか思っていないようで、鼻歌など歌いながらクローゼットを開けて新しいシャツを身についた。
困った。
託生は密かに肩を落とした。
どうも話が通じていないような気がしてならない。
「託生、今日は美味い中華にしよう。いい店を教えてもらったんだ」
「・・・うん」
祠堂にいた頃も、いろんなことはギイが決めてくれたし、それに間違いなんてなくて。
ギイに任せていれば安心していられたし、何の疑問も抱かなかった。
別に今もギイのことを信用していないわけじゃないのに、どうして違和感を感じるのだろうか。
託生はその答えを見つけようと考えたけれど、はっきりと言葉にできるような結論はでなかった。
ギイが案内してくれた中華の店はメイン通りから少し離れたところにある店で、店構えからして高級そうな雰囲気が漂っていた。
昔ならとてもじゃないけれど入ることなどできなかったとは思うが、さすがに社会人になって付き合いでこういう店に来ることもあるので、託生は物怖じすることなくギイのあとについて席についた。
「コースにしよう。何飲む?」
「えっと、じゃあ、ビールで」
ギイはオーダーを済ませると、会えなかった2週間の出来事をいつものように面白おかしく話した。
託生もそれほど変わり映えのしない毎日の中で起きた出来事を促されるままに話した。
一緒にいない時間を、互いが楽しく過ごしていたのだと知ることができるのが何よりも嬉しかった。
今までずっとどんな毎日を過ごしているのかさえ分からなかったのだから。
「なぁ託生」
「うん?あ、このアワビ粥すごく美味しい」
「家のことなんだけどさ」
さらりと話題を振られ、託生は思わず咽そうになった。
すっかり忘れていたというのに。
紹興酒のお代わりを貰ったギイは少し考えるように言った。
「一緒に住む家さ」
「うん」
「家賃のことを気にしてるんなら、買ってもいいかなって思ったんだけど」
「は?」
考えたこともなかった発想に、託生は固まってしまう。
買う?家を買うってことだろうか。
「えっと、買う・・・って家を?」
「当たり前だろ。まぁオレも託生も仕事が日本だけじゃないかもしれないから、いつもそこにいられるわけじゃないかもしれないけど、だけどちゃんと拠点となる場所があるっていうのは安心できるし、一から建てるなら自分の好みのものにもできるし・・・」
「ちょ、ちょっと待って、そんな家を建てるだなんて、そんなのもっと無理だよ」
借りるのでさえお値段と相談、と思っているのに買うだなんて絶対に無理だ。
「ローンの審査を心配してるのか?大丈夫だろ、ちゃんと仕事もしてるわけだし。もし駄目ならキャッシュでも・・」
「ギイ、ちょっと待って」
どんどん話が進んでいきそうな気配に、託生は手にしていたカトラリーを置いて、真っ直ぐにギイを見つめた。
難しい顔をしている託生に、ギイも口を閉ざした。
「どうした?」
「・・・あのさ、家探すの、もうちょっとあとでもいいんじゃないかな」
ここのところ、密かに思っていたことを思いきって口にした。
ギイが会うたびに持ってくる山ほどパンフレットを見ると、早く早くと急かされているようで、何とも居心地が悪くなってしまうのだ。
ギイが日本で暮らし始めるのはまだ半年も先のことで、もっと時間をかけてゆっくり探せばいいと思うのだ。
お金のこともあるし、だいたいこういうものはめぐり合わせというか、タイミングもあると思うし。
ギイは託生の言葉が思いもしなかったものだったようで、手にしていたグラスを置くと、真剣な表情で身を乗りだした。
「託生、それは一緒に住みたくないってことか?」
「違うよ。そうじゃない」
「じゃあ、あとでいいっていうのはどういう意味?」
「だってギイ、そんなに慌てなくても、まだ時間あるし・・・」
「だけど半年なんてあっという間だろ?それにオレ、来月からは月の半分は日本にいるしさ」
「そうなの?」
「そうなの」
やれやれというようにギイは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「だいたい託生、あれも嫌だこれも嫌だって、いったいどういうとこならいいんだよ。託生の希望聞かせてくれよ。それに見合う部屋を見つけるからさ」
「・・・それなんだけど」
「うん?」
「この際だから言っておくけど、やっぱりギイのレベルに合わせると、予算オーバーなんだよね。かといって、ぼくのレベルにギイがあわせるっていうのも無理だろ?だとしたら、どこかで妥協点を見つけなくちゃいけないって思うんだけど、それがどの辺りなのかがよく分からないんだよ」
「・・・・」
「だから、そういうのも含めて、ちょっと時間が欲しいなって思ったんだ。一緒に住みたくないって思ってるわけじゃないよ」
それは嘘偽りのない託生の本心で、だけどそれだけじゃないのも事実だった。
8年ぶりに再会して、一緒にいるようになって、変わらない部分も多いけれど、変わったと感じる部分もあった。
ギイは相変わらず優しかったけれど、世界を相手に仕事をしているせいか、ビジネスライクに物事を進めようとするところが祠堂にいた時よりも強くなったような気がする。
もともと自分にはそういうところがあると言ってたから、たぶんそれは変わったわけではなくて、ある意味それが素のギイなのかもしれない。
ただ長い間離れていたから、そういうところを忘れていて、まだ慣れていないだけなのだと思う。
だけど、やっぱり祠堂にいた頃は違うのだと思い知らされて、時々違和感を感じてしまうのだ。
そしてそんな違和感を感じてしまう自分自身にまた戸惑ってしまう。
託生がギイと会うたびにそんなことを思ってしまう自分が嫌で、自分勝手だとは思うけどギイにちょっと八つ当たり気味にそっけなくしてしまっている気がする。
「とにかくギイ、ちょっとだけ待って。ぼくも探してみるし、気持ちも・・・整理するし」
「整理?」
「あ、えっと・・・ほら、やっぱり同居するってなるといろいろ・・・」
ギイはふうんとうなづいて、それからしばらくは無言で食事を続けた。
怒らせてしまっただろうかと心配になったが、かといって、じゃあギイにすべてを任せると言うこともできない。
何となく気まずい雰囲気のまま食事を終え、2人でホテルへと戻った。
ホテルへ着くまでもずっとギイは黙ったままで、さすがにこれには託生も腹が立った。
「ギイ」
「なに?」
「あのさ、言いたいことがあるなら言ってほしいんだけど」
「別に。オレが何を言ったところで、託生は少し待って欲しいって言うんだろ?」
「・・・家の話はとりあえず保留っていうだけだろ。なのに何でそんな態度悪いんだよ」
託生の言葉に今度はギイがかちんとくる。
「態度悪いって何だよ。だいたいよく分からない理由でオレとの同棲を渋ってるのは託生の方だろ。オレには何が駄目なのかさっぱり分からないね」
さっぱり分からないのが問題なんじゃないか、と言い掛けてやめた。
どう考えても堂々巡りになるのは目に見えていたし、託生の考えをちゃんと分かってもらうにはギイの金銭感覚では難しいんじゃないかとも思う。
託生はたった今脱いだばかりのジャケットを手にした。
「ごめん、今日は帰るよ。お互いちょっと頭冷やした方がいいんじゃないかと思うから」
「確かにな」
あっさりと言ったギイに、また少し気持ちが苛立つ。
せっかく2週間ぶりに会えたというのに、これはいったい何なんだろう。
久しぶりに会えて喧嘩するなんて馬鹿馬鹿しいと思いながらも、ここまできたら引き返せない。
「おやすみ、ギイ」
「おやすみ」
託生は一瞬足を止めて、けれどそのまま部屋を出た。
エレベーターホールへと続く廊下を歩きながら、腹立たしいのと悲しいのと、いろんな感情がごちゃ混ぜになって、思い切り叫びたいような気持ちになった。
「何だよ、ギイってば。ちょっとはぼくの気持ちも考えろっていうんだ」
もう祠堂にいた頃とは違うのだ。
8年がたって、大人になり、仕事をして、ちゃんと自分の力で生活をしている。
何もできなかった高校生ではないのだ。
ギイに守られたいとも思わないし、養ってもらいたいとも思わない。
一緒に暮らすことに異議はないけれど、あくまでも対等な関係でいたいだけなのだ。
家賃くらいのことで、と思うのかもしれないけど、結局そういうことがすべてに繋がっていくのだ。
エレベーターの中で、託生は深々と溜息をついた。
「僕とギイって、やっぱり住む世界が違うのかなぁ」
世界的な大企業であるFグループの御曹司と、無名のバイオリニスト。
傍から見ればやっぱり不釣合いだと思われたりするのだろうか。
「とりあえず、お互いの妥協点を見つけないとなぁ」
とは言うものの、ギイもたいがい頑固なところがあるので、きちんと納得させられるような妥協点を提案できるか自信がない。
かといって、このまま喧嘩別れだなんてもっと嫌だ。
「ああ、胃が痛い」
思わずつぶやいて、託生は肩を落とした。




喧嘩なんて大層なものではなくて、単なる意見の食い違い。
とはいうものの、こういう場合はいっそ喧嘩の方が簡単だ。どちらかが折れて謝れば、とりあえず仲直りはできるのだが、主張が違うというのはやっかいだ。どちらも間違ってはいないから、必要なのは謝ることではなくなる。
「義一さん、日本での住まいは決まったんですか?」
移動の車の中、隣に座る島岡が尋ねてきた。
託生と再会して、もう一度付き合うようになり、仕事の場が日本へと移ると決まってからずっと、いい物件はないかと探していることは島岡も知っていて、気にかけてくれているのだ。
ギイはちらりと島岡見て、深々と溜息を洩らした。
「まだ決まらない。このままじゃ決まらないかもな」
「どうかされたんですか?」
「なかなか託生のご希望にあうものがなくってね」
どうしても愚痴っぽくなってしまうのは仕方がないと思う。
ギイの微妙な口調に気づかない島岡ではなく、書類をめくっていた手を止めた。
「託生さんの希望っていうのはどういうものなんですか?それほど我がままを言われる方だとは思えませんが」
言われてみれば確かにそうだ、とギイは思った。
そして、実際のところ託生が何を希望しているのか具体的に聞いていないなとも思った。
一緒に住むところを探そうという話になった時、託生は悩むこともなく、いいよとうなづいた。
どこに住みたいかと聞いてみると、場所はどこでもいいと言った。
唯一、それほど贅沢じゃない普通のマンションがいいかなとだけ言ったのだ。
それならば、とギイはいろいろと資料を集めた。
交通のアクセスが良くて、治安が良くて、セキュリティのしっかりした建物で。託生はバイオリンのレッスンはどこか別のところですることもできると言っていたが、防音室はあった方がいいだろう、とか。
あれこれ条件をつけていくと、どうしたってそれなりの家賃にはなる。
確かに相場からすれば高い家賃かもしれないが、それを払える程度の収入もあるし、正直なところお金で済むのならそれでいいじゃないかとも思うのだ。
金なんて必要な時に使わないのなら意味がない。
賃貸で気に入るところがないのなら、いっそ購入してもいいとも思ったのだ。
けれど託生の反応は今イチだった。いや、今イチどころか、むしろすごく不満そうだった。
昨日はそれで雰囲気が悪くなり、せっかく2週間ぶりに会ったというのに食事をしただけで別れてしまった。
どうも託生が何を求めているのかが分からない。
託生はギイが探してくる物件を贅沢だと思っているのだろうか。
確かに決して安くはない買い物だとは思うが・・・
「義一さん、ちゃんと託生さんと話をされないと平行線になるんじゃないですか?」
「分かってるよ。けど、話をしても平行線ぽいんだよなぁ。住むところ以前に、オレと住むこと自体に問題があるような気がしてきた」
「まさか。一緒に暮らすことは二つ返事で承諾されたんでしょう?」
「ああ」
「だとしたら、単純に義一さんが提案する内容に問題があるのでは?」
あっさりと手厳しいことを口にする島岡を軽く睨んで、けれど反論することもできない。
8年前、まだ祠堂にいた頃の託生は、どちらかと言えば自分の意見を口にすることは少なく、自己主張することもまれだった。
いや、だけど嫌なことに関してはきっちりと嫌だと口にしていたなと思い出す。
だとすれば今回のことも、託生にしてみればどうしても譲れないことだということだろうか。
「一緒に住まない、という選択肢はないんでしょう?」
「当たり前だろ。せっかく日本に戻ってくるのに、どうして離れて暮らさなきゃならないんだ」
8年もの間離れていたのだ。
お互いの気持ちが変わっていなかったと分かって、やっとまた一から始めることができるのだ。
もう一秒だって無駄にはしたくない。託生だってそう思っているはずだと信じているのだが、先日からのやり取りで、その自信が少しぐらつき始めている。
「義一さん」
「何だよ」
「8年は、あなたが思っているよりもずっと長い時間ですよ」
「・・・?」
島岡は少し笑うと、まるで小さな子供に言い聞かせるような口調で言った。
「託生さんのあなたへの気持ちは変わっていないと思います。「好きだ」という気持ちはね。だけど、人間は8年もたてば良くも悪くも変わります。あなたたちが離れていた時期は、人間としても一番成長する時期だったんじゃないですか?大学生活を送り、社会人として新しい人間関係や利害関係や、高校時代とはまったく違うことを経験して、それまでの考え方や生き方でどうしたって通用しないことも出てくる。あなたは学生時代からそういうことを経験していて、一足先に大人の世界を目にしていた。だから8年の間にそれほど変わってはいないかもしれない。だけど託生さんは違います。義一さんも言ってたでしょう?託生さんは強くなったって。男前になってて惚れ直したって」
「ああ、言った」
託生の初めてのコンサートで再会した。
見た目もそうだし、中身もそれまでの託生とは違っていた。
勇気を持てずに一歩踏み出せずにいたギイとは違い、託生はちゃんと自分の思いを言葉にして気持ちを伝えてくれた。
「託生さん自身も成長して、あなたを見る目だって当然変わっているはずです。何も知らなかった子供じゃないんですから、あなたに求めるものだって変わっていて当然です。あなたはそれがちゃんと分かってないんじゃないですか?」
「・・・・」
「あなたも託生さんも、もう18歳の子供じゃない。あの頃みたいに、世界は単純ではなくなっている。楽しいことだけしていればいい年齢でもない。他人と一緒に暮らすっていうのは難しいですよ。好きだというだけでは上手くはいきません」
「実感がこもってるな」
ギイが言うと、島岡は小さく笑った。
「経験者からの助言として言わせていただければ、アメリカ人のあなたとは違って、託生さんは日本人です。自己主張するのは苦手な人種で、託生さんはさらに口下手ときている。お互いの気持ちがまったく同じになるなんてことはまずない、ということを前提にしてきちんと話し合う。気長にね」
「ありがたい助言に感謝するよ」
どういたしまして、と島岡はにっこりと笑い、また書類へと視線を戻した。





待ち合わせの店は、いつもと同じ表通りにある小さなカフェだ。
BGMがいつもクラシックで、コーヒーが美味しい。
長居をしても特に文句を言われることもないので、仕事の打ち合わせをする時にはよく利用していた。
託生が店に入ったときには、もう北山は席についてコーヒーを飲んでいた。

(いつ見てもしゅっとしてるなぁ)

北山はいつも姿勢がよくて、見ていて気持ちがいい。
生まれも育ちもいいという点ではギイとよく似ていたけれど、ギイが貴族ちっくだとすると北山は華族っぽい雰囲気がする。おっとりとして所作が優雅だ。
北山は実業家で、経営している会社名は知らない人はいないだろうというほどに規模が大きい。
もともと北山自身も音楽をしていたのだけれど、国内でも有数の大企業の長男ということもあって、最初から音楽は趣味としてしか続けられないと、子供の頃から親からは釘を刺されていたらしい。
そのこと自体は納得はしているのだけれど、それでも何とか音楽と関わっていたいという思いもあり、親の跡を継いで社長に就任すると同時に、若い音楽家たちを支援する財団を設立したのだ。
以前佐智がしていたように、北山もまたいわゆるパトロンといわれる支援者との交流の場を持てるようにと、年に数回サロンを開いたり、音大生の中で将来有望だと思われる学生が音楽の勉強を続けられるように支援をしたりしていた。
託生も北山主催のサロンで彼と知り合い、親しくなった。
最初は学生と支援者という立場だったが、どういうわけか年齢が離れているにも関わらず不思議と気が合い、音大を卒業してからもずっと支援者という枠を超えて付き合いが続いている。
託生からすれば年上の良き相談相手というところだろうか。
北山が託生に気づいてにっこりと微笑んだ。
「すみません、遅くなりまして」
「時間通りだよ。私が少し早く着いただけだから」
向かいの席に座って、託生も同じコーヒーを頼んだ。
その時店に流れていたのはショパンで、託生はしばらくその美しい曲に耳を傾けていた。
「どう、調子は?」
コーヒーが運ばれてくると、北山はテーブルの上の書類を脇へと避けて、託生に微笑んだ。
「調子は・・・そうですね、普通・・・かな」
「練習はしてる?」
「それはもちろん」
「うん、葉山くんは練習熱心だからね」
敬愛する井上佐智のような天賦の才能があるわけではないので、人の何倍も練習を積み重ねなければいけないと思っている。そうやって今の自分があるのだと託生は思っている。
バイオリニストだといってもまだまだ無名で、音楽だけでは何とか食べていくのが精一杯というのが正直なところだ。
現状で満足しているわけではないけれど、夢ばかりを見ているわけにもいかない。
理想と現実の差にいつも悩み、けれど簡単に夢を捨てることもできないでいる。
まだまだ考えないといけないことが山積みで大変な上に、それに加えてギイとのことがある。

(ああ、いろいろ考えないといけなんだよなぁ)

無意識のうちに胃のあたりに手を置いていたらしい。
「どうかした?」
「え?」
顔を上げると、正面の席に座る北山が不思議そうな表情で託生を見ていた。
「体調でも悪い?」
「いえ、そうじゃないんですけど・・・」
実際のところ胃が痛むということはなくて、そんな気がするだけだ。
ギイと気まずいまま別れてから、もう3日がたっている。
自分から連絡するのも何だか納得できないし、ギイからも特に連絡はなかった。
まぁ解決策がない今会ったところでどうしようもないのだから、仕方がないと言えば仕方がない。
だけど喧嘩したままの状態は精神的にはよろしくない。
こんなことくらいで別れるなんてことはないのは分かっているけれど、どう決着をつければいいかも分からない。
とりあえずギイが日本を離れる前に何らかの妥協点を見つけなくてはならないのだが、なかなかそれが見つからないので困っていた。
「葉山くん、練習のしすぎじゃないのかい?」
「いえ大丈夫です」
「そう?じゃあ先にお願いごとからすまそうか。この前のコンサートの評判が良くてね、今度会社の創立記念パーティで弾いてもらえないかっていう話があるんだけど、どうかな。そこの社長が昔からの知り合いでね。ぜひ葉山くんを、っていうご指名なんだよ。チェロやピアノも入れるらしい。パーティのBGMちっくな要素もあるんだけど、それぞれソロでも演奏して欲しいとも言っているので、腕の見せ場もちゃんとある」
最近では大きなパーティなどで生演奏を入れることもあるので、この手の仕事は過去にも何度かしたことがある。
詳細を教えてもらい、少し考えたあと、託生はその話を引き受けることにした。
他の演奏者との顔合わせや、合同練習などあれこれとスケジュールを確認して、手帳に書き込んでいく。
「楽しみだな」
託生は微笑んで手帳を閉じた。
どんな場であれ、バイオリンが弾けるということが単純に嬉しかった。
それに向けての練習のことは楽しいばかりではないけれど、それでもそういうことも含めて楽しいのだ。
北山は託生が承諾したことにほっとしたようにうなづいた。
仕事の話はそれだけで、あとはしばらくお互いの近状報告などを話をしていたが、ふと思いだしたように北山が言った。
「そういえば葉山くん、今って崎くんがアメリカから来てるんじゃなかったっけ?」
「え、あー、まぁ・・・」
「浮かない顔だね。喧嘩でもした?」
「そんな風に見えますか?」
「どうだろう。まぁウキウキしてるようには見えないかな」
「ウキウキって・・・そんな子供じゃないですよ」
北山はギイとのことを知っている。
託生が以前ストラドを弾いていたことがあるという話から、芋づる式にギイとのことも話すことになった。実業家である北山はもちろんFグループの御曹司であるギイのことは知っていた。
直接会ったことはないけれど、若いながらに将来有望な青年だと聞いていると言い、託生を嬉しくさせたのだ。
恋人同士だったことはしばらくは明かさなかったけれど、何かの拍子に北山がそのことに気づいた。
問われて、隠すつもりはなかったので素直にそれを認めた。
けれど、しばらく会っていないことも。
高校3年の秋から音信不通で、けれど別れたつもりはないという託生に、北山は最初は呆れたものだった。
けれど、託生の気持ちが揺るがないものだと知ると、密かに応援をして支えになってくれたのだ。
だから、もう一度ギイと再会をしたと知った時はずいぶんと喜んでくれた。
「恋人と会ってウキウキするのに年齢は関係ないだろ?だいたい月に数回しか会えないっていうのに、喧嘩してる暇はないんじゃないのかい?」
「それは、そうなんですけど・・・」
北山は託生が8年もの間ギイのことを思い続けていたことも、3ヶ月前に再会してまた付き合うようになったことも、今、一緒に暮らすための家を探していることも知っている。
日本とヨーロッパという遠距離恋愛で滅多に会えないことにはずいぶんと同情してくれてもいる。
本当に喧嘩なんていている場合じゃないのだけれど、どうしてかそうなってしまったのだ。
北山は託生が少し拗ねた様子を見せたことに楽しそうに笑った。
「胃が痛くなるほど、崎くんとのことで何か悩んでる?」
「胃は痛くないですよ。でも、まぁちょっと意見の食い違いというか・・・」
「崎くんて、噂では冷静沈着で仕事では容赦がないって聞いているけど、そういうところが喧嘩の原因なのかな?」
「いえ、冷静沈着・・・ってまぁ確かにそうなんですけど、ぼくといる時は子供っぽいところがあるから、どちらかというとお互い意地の張り合いみたいな感じなのかも」
「あの御曹司のことを子供っぽいだなんて言えるのは、葉山くんくらいなものなんだろうな」
そうかもしれない、と託生は苦笑した。
ビジネスシーンでのギイはきっと誰よりもクールなのだろうが、2人でいるとそういう部分はなりを潜めている。
少なくとも祠堂にいる頃はそうだった。
けれど、再会してからはどうだろうか。
たぶん仕事で必要な押しの強さや、外国人特有の自己主張がはっきりしているところがやけに表に出るようになっている。
そういうところが嫌だというわけじゃないけれど、少し怯んでしまう自分がいるのも事実だった。
「で、喧嘩の原因はなに?」
「だから喧嘩じゃないんですけど、えーっと、何ていうか・・・収入格差?」
「え?それは解決しようがないんじゃないかい?」
北山がからりと笑う。
「ですよね」
はっきり言われるとさすがに凹むが、いっそあっさりと笑われて楽になった。
どんなに頑張ったところで、託生の収入がギイの収入に追いつくはずもない。
だからそこに拘ること自体、馬鹿馬鹿しいことだとは分かっているのだ。
経済観念からして託生とはレベルが違いすぎる。
分かってはいるものの、素直にそれを受け入れて甘えるのにも抵抗がある。
それがギイには理解できないことらしく、平行線が続いている。
「何だい、もしかして葉山くんは崎くんの方が稼いでいることが我慢ならないとか?」
「まさか。そんなの今さらですから」
「だよね。じゃあなに?」
改めて聞かれると、確かに何だろうとも思う。
ギイはFグループの御曹司で、自身も優秀なビジネスマンだ。そりゃあ稼いでいるだろうとは思うのだ。
それが羨ましいかと言えば、特にそんなことは感じない。
それもまぁ、男としてどうかとは思うのだけれど、不思議なことに成功して高収入を得るということに対しては、さして何の感情もないのだ。
単純にすごいなぁとは思うけれど。
「はっきり言って、崎くんの収入に葉山くんの収入が追いつくことはないと思うよ?音楽家なんてよほど成功しない限りは・・いや、成功したって高収入になるってことはまずないし。そこで引け目を感じてしまうのなら・・・」
「いえ、引け目を感じてるわけじゃなくて・・・何ていうか・・・ギイは必要なお金なんだから、出せる自分が出すだけのことだって思ってると思うんです。それは、すごくよく分かるし、仕方のなことだなとも思うんですけど・・・何でもギイに甘えてしまうと、対等じゃなくなるような気がして」
「対等?」
首を傾げる北山に、託生はうなづいた。
「もしぼくが女で、普通にギイと結婚することになったとしたら、ダンナさんがある程度稼いでて、その収入で住むレベルを決めて、生活をしていくんだろうなって思うんです。だけど、ぼくとギイは同じ男で、結婚するわけじゃないんだからどちらかがどちらかに甘えて暮らすのって、ちょっと違うような気がするんです。上手く言葉にはできないんですけど・・・」
一方的に頼るのは嫌だった。
ギイはきっとそんなことは何とも思わないだろうけど。
「じゃあ、葉山くんが言う対等ってどういうことなの?」
「え?」
北山に問われて託生はまじまじと彼を見つめた。
「収入格差は仕方がないって葉山くんは言ってるけど、だけどそこでは甘えられないって矛盾してないかい?崎くんの言う通り、お金なんて出せる方が出せばいいだけのことだよ。そんなことで対等じゃないなんて言ってたら一緒に暮らしていけないよ?」
「そう・・・でしょうか・・」
「さっき葉山くんは、もし女性だったらダンナさんが稼いでって言ったけど、じゃあダンナさんの稼ぎで暮らしている奥さんたちはダンナさんとは対等じゃないってことになるよね?そんなことないだろ?」
確かにそうだ。託生の両親だって、母親は専業主婦で稼いでいるわけではない。けれど父親には当たり前のように文句を言ったりしている。父親だってそのことに腹を立てることもない。
それを見ている自分だって、それが別におかしなこととは思わない。どうしてだろう。
「だいたい、最近は専業主夫なんてものがいる時代だよ?男とか女とか関係ないし、パートナーなんだったら、どちらがどちらの・・なんて考え方するのもどうかと思うよ。葉山くんて、案外古風というか亭主関白というか、男の威厳とかに拘るタイプなのかなぁ」
「いえ、ぜんぜんそんなことは。いや、ぜんぜんっていうのも問題ですよね。男性の方が稼ぐべきだとかそういうことを考えてるわけじゃないんです。そういうんじゃないんですけど・・・」
口ごもる託生に、北山がうーんと低く唸った。
「葉山くん、本当は崎くんと一緒に暮らしたくないとか?」
「え?」
「だって、収入格差なんてどうしようもないことを理由にして同居を先延ばしにしてるんだろ?」
その言葉に、託生は咄嗟に反論することができず黙り込んだ。
確かに北山の言う通り、最初から収入格差なんて分かっていたことだし、ギイと住むのならちゃんとした家じゃないと駄目だということも分かっていた。
それなりの家賃になることも、それをギイが負担することになるだろうことも最初から分かっていた。
「・・・正直に言うと、ギイが何でも決めてしまおうとするのが、ちょっと居心地悪かったのかもしれません」
「うん?」
託生は自分の中にあるもやもやとしたものを上手く言葉にできるかどうか考えた。
「一緒に住みたいって思ってます。今は月に数回しか会えなくて、やっぱり離れてるのは寂しいし、できるだけそばにいたいって思います。だから、同居したくないわけじゃないんです。だけど、何ていうか、時々目の前にいるギイが、違う人みたいに思えてしまって。でも、昔と同じなんです。ギイがあれこれとぼくのためにしてくれるのは。ぼくのためにって考えてくれてるからで、感謝しないといけないことだと思うのに、でも、何だかずっと子供扱いされてるような気がするっていうか・・・」
もちろんギイにそんなつもりがないのはよく分かっている。
昔と同じように、ぼくのことを思ってくれている。
だから、それに甘えてしまえばいいと思うのに。
「なるほどね」
興味深そうにうなづいて、北山は二杯目のコーヒーを注文した。
「ねぇ、葉山くん、崎くんとは8年会っていなかったんだよね?」
「え?ええ、そうです」
「8年ってすごい時間だと思うよ。8年もたって、昔と同じだなんてことあるのかな。葉山くんが好きだった崎くんは、ほんとに今の崎くんなのかな?」
「・・・・」
北山は少し身を乗り出すと、何かを探るように託生の目を覗き込んだ。
「もしかして葉山くんが好きなのは8年前の崎くんで、今の崎くんではないんじゃない?」

え?

「今の崎くんは、8年前の崎くんじゃないと思うけど?その彼を、葉山くんは好きって言える?」

8年という年月はそんなにも長いものだったのだろうか。
好きだった人が、好きじゃない人に変わるくらいに?






北山に言われた言葉は思いのほか大きなダメージとなって、託生はバイオリンの練習をしていてもギイのことを考えないわけにはいかなくなっていた。

(ぼくが好きだったギイはもういない?)

そんなことはない。一緒にいたらほっとするし、その声も笑い方も、何もかもが託生のことを魅了したし、やっぱり好きだなぁと思うのだ。
だけど、それは昔ギイのことが好きだったからなのだろうか。
8年も思い続けてやっと会えたから、ただ意地になってるだけなのだろうか。
8年前と何も変わっていないと思っていた。
何も変わらずギイのことが好きだったし、ギイもそう思ってくれていると信じていた。
実際お互いを好きだという気持ちは変わってないのに。

「変わってない、って思いたかっただけ?」

バイオリンを肩から外して、託生は細く溜息をついた。
気分が乗らないときに練習してもいい結果は得られないなと諦めて、バイオリンをケースへとおさめた。
そのままベッドに横になって、うーんと考えた。
確かに8年ぶりに再会して、変わらない部分も変わってしまった部分もあるとは思う。
だけど、だからといってギイのことを嫌いになんてなるはずもなく。
それは絶対にそうなんだけど。
もやもやと上手く解消できない気持ちを持て余していると、枕元に置いていた携帯が小さく着信音を鳴らした。
手にしてみると、ギイからメールがきていた。

(明後日帰る。明日会えないか?)

簡潔すぎる文章に、ギイが少しこちらの様子を窺っているのが見え隠れして、笑ってしまう。
たぶん託生が怒っていると思っているのだろう。
そうか。もう帰ってしまうんだ。
確かにこのまままたしばらく会えなくなってしまうというのは気持ちが悪い。
家のことだってもう少しきちんと話したいし。

(了解)

返信すると、あとでもう一度連絡する、とメールが返ってきた。
託生はころりと寝返りを打つと、さて、どうしたものかと思った。
喧嘩しないでお互いの考えていることをきちんと話して。だけどそうするためには、まずは自分で自分の気持ちを整理しておかないといけない。
「・・・・よし」
勢いをつけて起き上がると、託生は携帯を手にした。
アドレス帳から章三の電話番号を呼び出して、コールしてみる。
数回の呼び出し音のあと、ラインが繋がった。
『よぉ、久しぶりだな』
「赤池くん、こんにちわ」
『どうした?』
こういうやりとりと今まで何回しただろうか。
この8年の間、何度も章三に助けられた。毎回毎回申し訳ないなぁと思いながらも、精神安定剤代わりにしてしまっている。祠堂にいた頃はギイの役割だったそれを、8年の間は章三が半分くらい担ってくれていた。
「あのさ、ちょっと会えないかな」
『あー、いつ?』
「今日の夜とか」
『今日?ずいぶん急だな』
「ごめん、予定あった?」
『いや、大丈夫。じゃあ、前に行った焼き鳥どうだ?』
章三セレクトの店はいつも美味しい。託生はじゃあ7時に店でと約束をして電話を切った。
いつまでも章三にこんな風につき合わせて申し訳ないなと思う反面、考えが上手くまとまらない時は会いたくなってしまうのだ。
相談というより話をしているだけでよかった。
まだ十代の高校生の頃を知る友人の存在は、それだけで心休まるものがある。
昔はギイとのことをあれこれ考えてどうしようもなくなると、章三に会って話をした。
解決策なんてない話を、章三は嫌な顔をすることなく聞いてくれた。
ギイと再会して、また交流が始まって、祠堂にいた頃のように三人で会えるようにもなったけど、やっぱり8年間の癖なのか、何かあると章三に連絡をしてしまう。
「いつまでも甘えてちゃいけないんだけどな」
自分に言い聞かせるように言って、託生は少し早めに家を出た。
以前何度か行ったことのある焼き鳥屋は、章三がきちんと予約をしていてくれたので、待たされることなく席に座ることができた。
小さく区切られた半個室のようなスペースで少し待っていると、章三がやってきた。
「お疲れさん。葉山、今日は休みなのか?」
「うん。赤池くんも・・・って、今日は土曜日だもんね」
「ああ。あ、僕は生中、葉山は?」
「じゃあぼくもそれで」
店員に注文を入れると、章三はおしぼり片手に意味深な視線を投げかけてきた。
「なに?」
「いや。ギイ、今日本に来てるんじゃなかったっけ?」
「うん。明日会うよ」
「ふうん。僕もしばらく忙しかったから会えなかったし、今度来た時は会おうって言っておいてくれ」
「わかった」
建築関係の仕事をしている章三は、今公共施設の仕事を手がけてるらしく、毎日忙しくて大変だと言っていた。今までとは違う種類の仕事ということもあって、新しく勉強しなくてはいけないこともあるらしい。
「赤池くん、もしかして、今日って奈美子ちゃんと約束してた?」
「いや?」
答えるときの声の感じからして、たぶん約束してたのだ。
突然の託生からの誘いを優先して、奈美子ちゃんとの約束は延期にしたに違いない。
奈美子ちゃんに悪いことをしたな、と託生は申し訳ない気持ちになってしまった。
突然会いたいなんて言ったから、余計な心配をさせてしまったのだろうか。
しばらく何てことはない話を続け、一通り料理が済んで、つまみを口しながらちびちびと酒を飲み続けた。
「ギイと何かあったのか?」
さりげなく探りを入れてきた章三に、託生はうーんと首を傾げた。
「ちょっとした意見の食い違いだったんだけどね。ねぇ赤池くんはさ、8年ぶりにギイに会って、どうだった?」
「どうって?」
「だから、変わったなーとか思った?」
「8年もたてば人は変わる」
あっさりと言い捨てた章三に、そりゃそうだけどさ、と託生は口ごもる。
「何だよ。ギイのやつ、何かおかしくなってたのか?ていうか、あいつは葉山ともう一度付き合えるようになって、相当浮かれてるからな。おかしな言動だってするに違いない。気にする必要ないだろ」
「はは、相変わらず容赦ないな」
「8年ぶりに会っても、あいつは馬鹿みたいに葉山のことが好きで呆れたからな。何も変わってないんじゃないのか?」
確かにもう一度お互いの気持ちを確認し合えて、ギイは昔と変わらず気障な台詞を平気で口にしては、章三に渋い顔をされている。
「葉山はギイが変わったって思ってるのか?」
「うーん、何しろ8年たってるからね」
先ほど章三が言ったのとを同じ言葉を返すと、章三は小さく笑った。
「だけど、葉山だって変わったと思うけどな」
さらりと言い、アルコールのせいか、いつになく赤い顔をした章三は何かを思い出すように話した。
「昔さ、ギイがいなくなってしばらくは、葉山も気持ちの整理がついてないっていうか、どうしたらいいか迷ってただろ。ギイがいなくなった理由も分からない、どこにいるかも分からない、ギイの気持ちすら分からないんだからな、そりゃ迷っても当然だと思ったよ」
「うん」
「ギイがいなくなって1、2年の間は、葉山も僕に『どうしたらいいと思う?』って聞くことがあったけど、だんだんとそういうのなくなっていっただろ?」
「え、そうだったかな」
「そうだよ。ある時からギイのこと口にしないようになったから、僕が聞いたことあっただろ?」

(ギイのこと、もう忘れることにしたのか?)

「そうだっけ?」
まったく覚えてないと託生が言うと、章三はまぁいいけど、とさして気分を害した風もなく続けた。
「そしたらお前はこう言ったんだよ」

(ギイのことは、好きでいるって決めたからもういいんだ)

そういえばそんなことを言ったような気もするな、と託生は思い出した。
ギイがいなくなってすぐは、やっぱりいろいろと考えることもあって、そのたびに気持ちが揺れて、泣き言を言うわけではないけれど、不安になると章三と会っていた。
別に章三と会って話したからといって何が解決するわけでもない。
だけど、誰よりも託生とギイのことを知っている章三と一緒にいると、託生が最終的にどんな選択をしたとしても肯定してくれるような気がしたのだ。
さんざん考えて、やっぱりギイが好きだから、どうしてももう一度会いたい。そのために自分にできることを頑張ろうと決めてから、章三と会ってもギイのことは言わないようになったのかもしれない。
「葉山はあれこれ悩んでも、結局最後は自分で答えを見つけて、そうしようって決めたら譲らないよな。ギイのことだって好きでいるって決めたら本当に8年も好きでいるんだから恐れ入るよ」
「それ、褒めてるの?」
「一応な。まぁ、相談されたところで、僕には何もしてやれなかったからな。僕には葉山がちゃんと自分で出した答えを応援するくらいしかできなかった。だから今日、葉山が会いたいって連絡くれた時も、ギイと何かあったのかなとも思ったけど、あんまり心配はしてないんだよ。だって、どうせギイと喧嘩したって嫌いになるなんてことはなくて、どうしたら一緒にいられるかってその方法を考えてるだけなんだろうからさ」
「・・・」
「葉山は変わったよ。もしかしたらギイも同じように思ってるんじゃないかな」
「そうかな」
「葉山が戸惑うのと同じように、ギイも変わってしまった葉山に戸惑ってるのかもしれないな。でもまぁ、もしギイも変わったんだとしたら、ちょうどいいじゃないか。どちらか一方だけが変わってしまうよりもずっといい」
その言葉に、託生はぱちぱちと瞬きをした。
そんな風に考えたことがなかったから、自分の中で何か反応した。
何かがゆっくりと染み渡るように身体を浸していく。
「赤池くん」
「うん?」
「赤池くんが何もできなかった、なんてことはないよ」
託生が言うと、章三は不思議そうに顔を上げた。
「確かに赤池くんの言う通り、相談らしい相談ってしてなかったかもしれないけど、それは赤池くんを頼りにしてなかったとかそういうことじゃないんだ。赤池くんが話を聞いてくれるだけでほっとしたし、祠堂にいた時みたいに、びしって意見を言ってくれるだけで、ぼくはちゃんとしなきゃだめだなって思えたよ。何があっても・・・たとえギイと別れることになっても、ぼくにはぼくのことを真剣に心配してくれる友人がいるんだから大丈夫って思った時もあったんだよ」
「・・・葉山」
「赤池くんがいたから、ぼくは頑張れた。いつも感謝してたよ。本当に」
「・・・そっか」
「うん」
ちょっと照れくさそうに笑う章三に、託生も笑った。
章三と友達になれて良かったなと、もう数え切れないくらいに思ったのだ。
もしギイがいなければ、こんな風に付き合いが続くこともなかっただろう。
今夜も章三の一言で、何かが分かったような気がしたのだ。
「よし、葉山。今夜は飲むぞ」
「え、まだ飲むの?」
「二次会に行くぞ」
何故か機嫌のいい章三に、託生は半ば諦めてとことんまで付き合う覚悟を決めた。






週末にはもう日本を発たなければならない。
その前にもう一度託生に会って、話をしておかなくては駄目だろうと思い、ギイは会いたいとメールを送った。
返事はすぐにきた。
了解とだけの短い返事に、苦笑が漏れる。
時間と場所は改めて連絡するとメールをしておいた。
祠堂にいた頃から、託生からのメールはいつもそっけないほどに簡潔なものばかりだ。
絵文字なんてほとんど使わないし、もうちょっと愛情込めろよと何度言ったか分からない。
単にメールが苦手なだけで、深い意味などないのだと分かっていても、やっぱり少し物足りない。
最近ではメールはおろか、電話ですら滅多にこないのだ。
それは先日の意見の食い違いのせいかもしれないし、喧嘩というほどのものでもないので気にするのもどうかと思うが、やっぱり気になる。
「あー、オレってどんどん駄目な感じになってるな」
8年前よりも余裕がなくなっているのは自分でも分かっていた。
会いたい気持ちを無理矢理押さえ込んでいた8年。再会して、もう一度一緒にいられるようになって、会えなかった時間を埋めたいと必死になっている。
そんなことできるわけないのに、会えなかった間の託生のことをすべて知りたいと焦っている。
だから一刻も早く一緒に住みたいと思ったし、そのためにせっせと物件資料も集めたりもした。
もっともそのせいで託生と気まずい雰囲気になってしまったのだが。
とにかく今度日本に来られるのはまた来月になってしまう。
その前にちゃんと託生を話をしなくてはいけない。
会おうと約束した日、ギイの仕事は午前中だけだったので、午後からはホテルのジムで汗を流した。
夕刻になって、ホテルへとやってきた託生と合流した。
「ギイ、今日休みだったの?」
ラフな格好をしたギイを見て、託生が首を傾げた。
「午後から休みだったんだ」
「そっか。じゃあもっと早くに来ればよかったな。てっきり仕事だと思ってたから」
ギイだって託生が仕事だと思っていたので夕食を誘ったのだ。
お互いの仕事のスケジュールだって分からないのはやっぱりもどかしい。
「託生、何食べたい?」
「んー、あっさりしたものかな」
「なに、体調でも悪いのか?」
「じゃなくて、昨日、赤池くんと飲んでたんだよね。何だか妙に盛り上がっちゃって、午前様だよ」
「は?何だよ、それ、何でオレを呼ばないんだよ」
章三とだって久しく会ってない。思わず拗ねた口調になってしまう。
「突然だったし、ギイ、忙しいかなとも思ったし、それに・・・」
「それに?」
託生はギイを見ると、少し考えたあと言った。
「別にギイをのけ者にするとか、そういうんじゃないんだよ。ただ、ずいぶん長い間、何かあると赤池くんと会ってたから、癖みたいなもんかな。うん、これからはギイと3人で会えるんだもんね」
「・・・・」
しみじみと言う託生に何も言えず、ギイは託生の肩を抱き寄せるとこめかみに口づけた。
寂しい思いをさせていたという自覚はある。
一緒にいられなかった間、託生が頼れるのは章三だけだったということも。
章三はギイの相棒というよりは、今では託生の親友という位置づけの方が強くなっていても当然だ。
託生が章三が2人で会っていたからといって、文句を言うのは筋違いというものだろう。
「和食にするか。ホテルのレストランでいいか?」
「うん」
ホテルの最上階にある和食の店に入ると、平日だったこともあって思ったよりも空いていた。
個室が空いていたので、席を作ってもらった。
メニューを見ていたギイはどれも美味そうだなぁとつぶやく。
「適当に頼んでいいか?」
「いいよ。ギイ、お腹空いてる?」
「ああ、昼からずっとジムで身体動かしてたからなぁ」
「え、ずっと?元気だなぁ」
「運動不足だったからさ。たまにはがっつり運動しないと、太ったらオレ、託生に振られそうだし」
「まさか、そんなことで振ったりしないよ」
ギイの言葉に託生がくすくすと笑う。
昨日嫌というほど飲んだから、とアルコールはやめると託生は言い、ギイはじゃあ一杯だけビールを頼んだ。
「ギイ、明日帰るんだろ?今度はいつ日本に来るの?」
「まだちょっと予定が立ってないからはっきりしたことは言えないなぁ」
「そっか・・・・」
ビールとウーロン茶で乾杯をして、つまみを口にしながら何てことのない話をする。
この前別れた時の気まずさはなかった。
会ってなかったのはたった数日なのに、会えばやっぱりほっとしたし、どうってことのない話をするだけでも楽しかった。
空腹感がおさまった頃、ギイは一番に言わなくてはと思っていた言葉を口にした。
「託生、この前は悪かったな。オレ、きつい言い方して」
託生はギイの言葉に首を横に振った。
「ぼくこそ、嫌な言い方しちゃってごめん」
2人して神妙に謝って、顔を見合わせて小さく笑った。
託生が怒っていないと分かり、ギイはほっとした。今までだってつまらないことで何度も喧嘩はしてきたし、そのたびに仲直りをしてきたから、こういうことで別れるとかそんな話になるとはまったく思っていない。
けれどやはり気まずい感じのまま、たとえ一ヶ月だけでも別れるのは嫌だった。
「あのさ、託生、オレあれからいろいろ考えたんだけど、託生の言う通り、家のことはもうちょっと時間かけて探すから」
「・・・・」
ギイは一つ深呼吸をすると、真っ直ぐに託生を見つめた。
「焦らせるつもりはなかったんだ。いや、違うな、ちょっとは焦って欲しいって、どこかで思ってたのかもしれない。8年も放ったらかしにしていたオレがこんなこと言えた義理じゃないけど、託生はオレと住むことを急ぐ様子もないし、もしかしてそんなに・・・一緒にいたいって思ってないのかな、とか思ってさ」
「そんなはずないだろ」
「そうかもしれないけど、そんな気がしたんだよ」
子供っぽい口調に、託生はやれやれと苦笑を洩らした。
「ギイ、ぼくのせいで不安にさせちゃった?」
「別に不安になんてなってねぇよ」
強がり半分で言った言葉も、きっと託生には信じてもらえないだろう。
8年のブランクがあっても、託生はギイの考えていることは簡単に見抜いてしまうところがある。
自分のことにはとことん鈍いくせして、唯一ギイのことは怖いくらいに見ている。
託生はぱちんと箸を置くと、少し居住まいを正してギイを見た。
「ギイ、今日はちゃんと話をしようと思うんだけど」
「お、おう・・・」
そんな思いつめた顔をされては、もしかして別れ話じゃないだろうなと勘ぐってしまう。
「最初に言っておくけど、ぼくはギイが好きだよ、だから一緒に暮らしたいとも思ってる。それは絶対に嘘じゃない」
「・・・ああ」
「それなのにギイが探してきてくれた部屋にいろいろ文句言ったりしてごめん。自分でもどうしてなのかよく分からないけど・・・ギイと対等でいたいって、どこかで思ってる部分もあったんだ」
「対等?」
「祠堂にいた頃はそういうの思ったことなかった。ギイは何でもできて、ぼくよりずっと大人だったし、対等だなんて絶対無理だって思ってた。今だって収入なんてとてもじゃないけど追いつけないし、いろんなこと比べたらキリはないんだけど、だけど、ぼくはギイに甘えてばかりはいたくないってずっと思ってた」
そんな風に託生が思っているとは夢にも思わなかったので、ギイは何を言えばいいか分からず黙った。
甘やかしているという自覚はあった。
けれどそれは愛していたらどうしたって優しくもする延長線上にあることで、託生を駄目にするような甘やかし方はしていないはずだった。
むしろギイの方が託生に甘えてばかりだと思っているのに。
「ぼくだって今までちゃんと一人でやってきた。なのにギイといると守られてばかりで何もできないような気がして、すごくもどかしかった。今回もギイが何でもさっさと決めていくのにも追いつけなくて、ギイってこんな人だったかな、なんて思ったりして」
「託生・・・」
「北山さんに、ぼくが好きなのは8年前の祠堂にいた頃のギイで、今のギイじゃないんじゃないか、って言われてすごく混乱したんだ」
「北山って誰だよ」
聞いたことのない名前にギイが反応する。
託生はあれ、というように首を傾げてギイを見返した。
「言ったことなかったっけ」
「知らない」
「北山さんは若い音楽家の活動を支援してる人で、ぼくも大学時代からいろいろとお世話になってるんだ。この前のコンサートも北山さんのバックアップで叶ったことだったんだよ。ほら、佐智さんが昔やってたサロンコンサートみたいなのとか、そういうのを定期的に開いてくれたりしてるんだ」
託生の口振りから、北山にはずいぶんと世話になっているであろうことは感じ取れた。
そして託生が北山のことを信頼していることも。
ギイのいない8年間、その人が託生のことを支えていたのだろうということに、勝手だとは思うものの、もやもやとした思いが込み上げる。
「で、その北山さんが何だって?」
苛立ちを表情には出さないように得意のポーカーフィエスでギイが先を促すと、託生は話を戻した。
「確かにぼくは8年前、祠堂で一緒にいたギイしか知らなくて、ずっとあの思い出の中にいるギイのことを好きでいて、もしかしたら今ここにいるギイは別人で、もうぼくが好きだったギイはいないのかな、とかそういうこといろいろ考えたらよく分からなくなってしまって・・・」
「ちょっと待てよ。オレは何も変わっては・・・」
「変わってないなんてことはないよね」
「・・・っ」
強い口調で遮られ、ギイは口を閉ざした。
「8年たてば、誰でも変わる」
「・・・・」
託生は弱く笑った。
「でもそれはいいんだ。だって8年もたって変わらないなんてことあるわけないんだ。ギイだけじゃなくて、ぼくだって変わった。それなのにギイに再会できて舞い上がっちゃって、何だか8年前に戻ったような気がして、今目の前にいるギイのことちゃんと見ようとしてなかった」
ごめん、と託生が言った。
「託生・・・今、お前の目の前にいるオレは・・・もうお前が好きだったオレじゃない?」
「え?」
8年たって、託生の言う通り2人とも大人になった。
もう祠堂にいた頃みたいに、小さな世界で楽しいことだけをしていい時期は終わった。
あの頃と同じような気持ちで一緒にいることはできないということなのだろうか。
ギイの問いかけに、託生は心底驚いたように目を見開いた。
「どうして?何でそうなるの?」
「え?」
今度ギイの方が目を丸くした。
今の話の流れだと、託生が好きだったのは8年前のギイで、再会して変わってしまったギイに失望してもう一緒にやっていくのは無理だと思った、と言われてもおかしくはない状況に思えたのだが。
「ギイ、ぼく最初に言ったよね。ギイのことが好きだって」
「あ、ああ、そうだな」
「8年前のギイじゃなくて、今のギイが好きなんだよ?」
「・・・」
きっぱりと言って、託生が信じられないなというように溜息をつく。
「確かに8年ぶりに再会して、変わったなって思う部分もあって戸惑ったりもしたけど、でもそれはギイだって同じだよね?ぼくだって8年の間に変わったし・・変わろうと思って頑張ってたし、だからギイだってそんなぼくにがっかりすることだってあるんだろうなって。だとしたら、ギイが好きだって言ってくれるぼくも8年前のぼくなのかなって思ったり・・・」
「そんなことあるわけないだろ」
「うん。だからぼくだって同じだよ。ギイが変わったとしても、嫌いになるわけないだろ?」
「あー、そっか・・まぁそうだよな・・・」
「そうだよ」
やれやれというように託生が笑う。
「だから、えっと・・・お互い8年たっていろいろ変わった部分はあるとは思うんだけど、でももし今初めて出会ったとしても、やっぱりぼくはギイのことが好きになると思うんだ」
「・・・っ」
「変わってしまったことの中には、お互いの今の立場っていうか・・・収入差とかもそうなんだけど、仕事とか関わってることとか、付き合ってる人とか、ものの考え方とか、たぶん数え切れないほどのことが変わってしまったのかもしれないけど、だけど何ていうか・・・そういうの全部ひっくるめてギイだし、ぼくだし。だとしたら、そういうのちゃんと受け入れてどうすれば一緒にいられるかを考えないといけないなって思ったんだ」
ここにいるのは8年前のギイじゃない。
同じように、ここにいるのは8年前の託生じゃない。
だけど好きだという気持ちは変わらない。
「だから、ギイが探してきてくれた部屋だと対等じゃいられないなんて、そんなこと思うのは、やっぱり違うよな、って思って反省したんだ。そういうのも含めて、今のぼくたちなんだし。何ていうか、変わってしまったことも受け入れて、前向いていかなきゃ駄目なんだろうなって」
「託生・・・」
再会してからずっと、はっきりと言葉にはできない微妙な距離感を感じていた。
そこにいるのは間違いなく8年間思い続けていた相手なのに、まるで昔好きだった人に似た違う人のように思える瞬間もあって。
確かに島岡の言う通りだな、とギイは思った。
もう自分たちはあの頃の自分たちではなく、楽しいことだけしていればいい年齢でもない。
だけど島岡も分かっていないなとも思う。
託生が口下手で自分の気持ちが伝えられなかったのは昔の話だ。
今はちゃんとギイに自分の気持ちを伝えてくれる。
こんな風にちゃんと自分で答えを出して、ギイに伝えて、一緒にいたいのだと言ってくれる。
「負けた」
「え?」
思わず目の前のテーブルに突っ伏すと、何だか笑いが込み上げてきた。
「やっぱり託生はすごいな。オレが知らない間にすっごく強くなって、いろんなことちゃんと考えて、自分で答えを出して、オレにどうだって言ってのける」
「え、そんなつもりないけど・・・」
とたんにオロオロとした素振りを見せる託生に、また笑いが込み上がる。
「迷うことがあっても、一度足を止めたとしても、託生はちゃんと自分で歩き出せるんだよな」
「・・・・」
「前を向いてさ、そういうのがきっと一番の強さなんだろうな」
それは託生と再会してからずっと感じていたことだった。
何があっても前を向いて、そこに明るい未来があると信じられる強さ。
自分の力で前へ進める強さ。
会えない間、強くなりたいと思っていた託生が手に入れたものは、そういう類の強さだった。
素直にすごいなと思う。
祠堂にいた頃にもその片鱗はあった。今はそれが顕著になった感じがする。
そんな託生にきっと一生勝てないだろうなと思い知らされて、けれどそれが心地よかったりもする。


「なぁ託生」
ギイは顔を上げると、すいっと手を伸ばして、託生の手を掴んだ。
きゅっと握り締めてその温もりを確かめる。
「託生の言う対等っていうことも何となく分かるよ。オレも男で託生も男で、どちらかが一方的に庇護したり甘やかしたりっていうのは、何か違うと思うし、気分のいいものじゃないとも思う。けど、思うんだけどさ、そういうのもお互い様だったりするんじゃないかな」
「お互い様?」
「だってオレたち、これから時間をかけて家族になってくんだろ?」
初めて好きになった人だった。
どうしてももう一度会いたくて、アメリカから祠堂へと留学した。
知れば知るほど惹かれていって、どうしても手離せないと思い知らされた。
思いがけず離れることになって、もうだめかもしれないと何度も思って、だけど諦めることはできなかった。再会できたのは奇跡的なことだ。
8年だ。
8年会わなかったのに、どちらの気持ちも変わらなかったんだから、もういっそ運命といってもいいだろう。
「家族?」
託生が何かを確かめるように小さくつぶやく。
ギイはそう、と頷いた。
「これから一緒に暮らすだろ。もちろん恋人同士として始まるよな。男同志で結婚だなんて考えてるわけじゃないから、そりゃオレたちの関係って一生恋人同士のままなんだろうけど、だけど生活しているうちにさ、オレたちは2人で一つの人生を歩くことになるんだよな。同じ場所に帰ってきて、寝食を共にして、楽しいことも悲しいことも一緒に経験して。そういうのを繰り返していくうちに、そばにいるのが当たり前になって家族になってくと思うんだ」
「・・・・・うん」
「家族だとしたらさ、甘えたり甘えられたりって普通のことだよ。対等じゃないと駄目だなんて考えなくてもいいんだ。収入差なんてどうでもいいことだよ。だってオレがもし仕事をクビになって無職になったら、託生がオレのこと食わせてくれることになるんだし」
「まさか、そんなことあり得ないだろ」
思わずと言った風に託生が吹き出す。
「いや、人生何があるか分からないからな。オレたちはただ好きだから一緒にいるんだろ?それだけで対等だと思うけどな」
「そうかな?」
「そうだよ。いや、実際のところ、オレは託生にずいぶんと水をあけられてるけどな」
「?」
情けないことに、状況が行き詰った時に前に進むきっかけを作るのはいつも託生だ。
再会のきっかけを作ってくれたのも、今回みたいなちょっとした行き違いも、いつもいつも、託生が最初の一歩を踏み出して、ギイへと手を差し伸べてくれる。
「ありがとな、託生」
「ぼくの方こそ、ありがと。ギイ」
顔を見合わせて、ほっとしたように笑った。
「あのさ、ギイ。えっと、まぁそういうことなので、一緒に住む家はギイが決めてくれていいよ。金銭的には頼っちゃうことになるけど、構わないかな?」
「もちろん。もうちょっと探して、今度日本に来るときには決めよう」
「うん。ごめんね、変に意地張って。余計な心配かけちゃったよね」
「大丈夫。決めたあとの手続きとかさ、オレ、日本にいないことの方が多いし、託生に頼むことになると思うけど、よろしくな」
「わかった」
ぎゅっと握り締めた手をもう一度絡めとる。
託生も同じ強さで握り返してくる。
8年たって、また最初から手探りみたいにお互いのことを知っていくっていうのもちょっといい。
祠堂で出会った頃みたいに、恋人同士になれるだろうかと不安な状態じゃないだけでも、スタートラインは今の方がずっと有利なはずだ。
「託生」
「うん?」
「今日泊まってく?」
「・・・いいけど、泊まる用意なんて何もしてないよ?」
「パンツならオレのを貸してやるって」
「えー」
「何だよ、ちゃんと洗ってるぞ」
失礼なヤツだなと言うと、託生はやっぱりどこかで買うことにすると宣言した。
その生真面目な言い方が祠堂時代を思い出させて、ギイは吹き出してしまった。




明日にはもう日本を離れるというのに、部屋の中はまったく片付いていなくて、託生は呆れたように溜息をついた。
「ギイってば、何でこんなに散らかってるんだよ」
「いや、ジム行ってたし」
「ぜんぜん理由になってない」
ベッドの上に脱ぎ散らかした服をたたみ、てきぱきと片付けていく。
一緒に暮らし始めたら、毎日がこんな風になるのかなと思うと自然に笑みが零れた。
そんなギイに気づいた託生が眉をひそめる。
「何ニヤニヤしてるんだよ。気持ち悪いんですけど」
「いや、奥さんっぽいなーっと思っただけ」
託生は嫌そうな顔をして、手にしていた服を開けっ放しだったスーツケースに投げ入れた。
「あのさ、言っておくけど一緒に暮らし始めても、ぼくはギイの世話ばかりできないからね」
「わかってるよ」
「料理だってそんなにできないし」
「知ってる」
「掃除洗濯だって別に好きなわけじゃないし」
「それはオレだってそうだよ」
うんうんとギイがうなづくと、2人の間に微妙な空気が流れた。
「・・・こんな2人で暮らして大丈夫かなぁ」
託生が困ったように首を傾げる。
託生の不安も分かる。だけど祠堂でも何とかやってたじゃないか。だから何とかなるだろう。
どこまでも楽観的なギイの言葉にどうにも納得できないでいる託生の手を引いてベッドに座らせる。
そのまま覆いかぶさるようにして抱きしめて押し倒した。
「せっかく仲直りできたのに、もう明日帰らないといけないなんてなー、あー帰りたくない」
「また来月会えるよ」
さらりと託生がギイの髪を撫でた。
その心地よさに溜息が漏れる。
やっぱりこうして一緒にいるとどうしようもない幸福感で満たされる。
耳元から頬へと唇を寄せて、そのままゆっくりと口づけた。
託生は嫌がることなくそれを受け止め、同じように返してきた。
もどかしく互いの身体を探って、身につけていた服を取り払っていく。
「ギイ・・・」
託生が片肘をついて上体を起こした。
肌蹴たシャツと中途半端に下ろされた下衣のまま、託生はギイの肩を押し戻した。
まさかそんな気分じゃないだなんて言うつもりじゃないだろうな、とギイが内心ぎくりとしていると、託生は一瞬の躊躇のあとに小さく言った。
「ギイ・・・してもいい?」
火照った頬のまま、託生はギイのベルトを外そうとする。
かちゃかちゃと音がするばかりでちっとも外れる気配がない。相変わらずの不器用さに苦笑してギイが自分でベルトを外すと、託生はほっとしたような表情を見せ、そのままギイの足元に蹲るようにした座り込んだ。
「してもいい?」
もう一度確認するように言うと、ギイが返事をする前に、託生は手にしたものに顔を寄せた。
熱い咥内に含まれて息を飲む。
別に初めてだというわけではないけれど、祠堂にいた頃は滅多に自分からするなんてことはなかった行為だった。
して欲しいといえば、託生は頬を赤らめならもしてくれたけれど、自分からしたいなんて言うことはなかった。
「んっ・・・」
ぬるつく舌先で何度も舐められると、それだけでじわじわとした快感が込み上げてくる。
手を伸ばして託生の耳元をくすぐるようにして撫でてみる。
上目遣いで顔を上げて、けれどまたすぐに顔を伏せて、託生はギイの屹立を深く咥え込んだ。
「託生・・・もういい・・・」
いったいいつの間にこんなに上手くなったんだと内心複雑になりつつ、その心地よさに簡単に負けてしまうわけにはいかないと反撃に出ることにした。
濡れた口元を拭いながら身体を起こした託生を引き寄せて、
今すぐにでも繋がりたい欲望を何とか宥めながら、少し汗ばんだ素肌に何度も口づけた。
首筋から胸元、薄い腹部から腰骨のあたり。くすぐったそうに身を捩る託生を引き戻して久しぶりの恋人の身体を隅々まで味わった。
「ギイ・・・」
甘えたような声色に、それだけでたまらなくなる。
自分と同じように昂ぶらせているものに指を絡ませて、何度も擦り上げた。
「んんっ・・・・」
気持ち良さそうに喉を鳴らして、託生がきゅっとギイにしがみつく。
ぴたりと重なった体温に、これ以上我慢できないなと息を吐く。
「悪い、ちょっと中断な」
一応断って、ギイが長い腕を伸ばしてスーツケースの内ポケットからジェルを取り出す。
片手で蓋を開けて、たっぷりと手の中に取り出した。
すんなりとした脚を押し広げて、その奥へと濡れた指を這わせた。
「あ・・・っ」
少し力を入れるとジェルの滑りを借りて指が中へと吸い込まれる。
柔らかな肌に噛み付くようにキスをして、赤い痕を残した。
またしばらく会えなくなるのが寂しくて、託生の身体に少しでも痕跡を残しておきたかった。
「託生・・・」
浅い呼吸を繰り返す託生の唇を塞いで、深い口づけを交わす間にも、最奥を探る指を中へ中へと潜り込ませ、ゆっくりと広げていく。
託生はギイの肩先に額を押し当てて、時折切なそうな声を上げた。
「ギイ・・・も・・いいから・・・」
小さく言って、託生がギイの手を掴んだ。そしてそのまま身体を反転させると、ギイをシーツの上へと押し付けた。
「ギイ、上でもいい?」
「・・・いいよ」
ギイがうなづくと、託生はギイの腰を跨いで片手をベッドについた。
大胆なことをしているくせに、どこか気恥ずかしそうな表情をしてみせる。
それは昔からの託生のままだったけれど、以前の託生なら自分から上に乗るなんてことは滅多にしなかったな、と何とも複雑な気持ちになる。
2人で楽しむものだから、したいことはしたいと言ってくれた方がいい。
その方が気持ちよくもなれるし、気持ちよくもしてやれる。
けれど、何だかギイの知っている託生じゃないような気がして少しばかり戸惑ってしまう。
「んっ・・・」
ゆっくりと腰を沈めて屹立を沈めると、託生は心地良さそうに溜息を洩らした。
しばらくそのまま緩く突き上げると、それだけで感じ入ったように背を反らす。繋がった場所がぐずぐずと溶けていきそうなほど熱くて、ギイは腕を伸ばして託生の腰を掴んだ。
前へと引寄せると、託生はギイの手を解こうとした。
「やだ・・・っ」
「もっと動いて、託生」
躊躇いながらも言葉通りに前後に腰を揺らして、気持ちのいいところを探していく。
押し寄せては返す波のような快楽が身体中に広がって、堪らなくなる。
「ギイ・・・」
託生が上体を倒してギイの唇の端にキスをした。
抱いているのはギイの方なのに、抱かれているような不思議な感覚に陥る。
「好きだよ・・・」
小さく小さく託生が囁く。
何てことのない言葉なのに一気に熱が高まった。引きずり倒すようにして託生を身体の下に横たえ、本能のままに激しく突き上げた。膝裏を押し上げて、一番奥まで埋め込むと、託生は大きく胸を喘がせた。
途切れることなく漏れる甘い声や、肌に食い込む指の強さ。潤んだ瞳で見上げられて、あっという間に追い上げられる。
「も・・・いく・・」
息を切らしてそう告げると同時に熱を解き放つ。
それと同じタイミングで託生も身体を震わせて、ぱたぱたと白い蜜を零した。


そのあともう一度、今度はゆっくりと時間をかけて愛し合って、さすがにもう疲れたという託生を腕の中に閉じ込めるようにして横たわった。
何てことのない会話をつらつらと続けていたけれど、どうしても胸の中で燻る疑問を口にせずにはいられなくなって、ギイは身体を起こした。
「どうしたの?」
託生が眠そうな目をしてギイを見る。
「託生」
「うん?」
「・・・・こういうこと聞くのは反則だって分かってるんだけどさ」
「なに?」
ただならぬ気配を感じたのか、託生もよっこらしょと起き上がった。
半裸のまま、2人してベッドの上で向き合った。
真面目な話をするにはあまりにもマヌケな格好だなと思いながら、託生は言い淀むギイを促した。
明日からまたしばらくは離れ離れになってしまうのだ。
何か思うところがあるのなら、全部吐き出してしまった方がいい。
「ギイ、なに?」
「何か託生・・上手くなってるよな」
「何が?」
「セックス」
「・・・・はい?」
いきなりのあからさまな言葉に、託生が瞬時に顔を赤らめる。
たった今までさんざんしていたことなのに、どうしてそこで恥ずかしがる、とギイは苦笑する。
「何だよ、それ・・・」
「いや、8年もの音信不通にしてて、こんなこと言うのもどうかしてると思うし、そんなこと聞いてどうするんだって思うよな。オレがそばにいない時に、託生が誰かと付き合っていたとしても仕方のないことだし、何を言える立場でもないんだけどさ・・・」
8年の間に想像していたよりもずっと大人になっていた託生。
それは単に言動だけではなくて、例えばこんな風に抱き合ったときにも感じてしまう。
昔はしなかったようなことを自分からしてくれたりすると、嬉しい反面、戸惑いもする。
他の誰かとも同じようなことをしたのだろうか、と。
あらぬ想像をしてしまっては胸の奥が痛くなる。
つまらない嫉妬だと分かっていても、どうしようもない。
ギイの切羽詰った様子に、託生はほとほと呆れたように視線を巡らせた。
「あのさ、ギイ、それって答えなきゃ駄目かな」
「いや、いいんだ。聞いたらオレ、ダメージ大きすぎてしばらく立ち直れないと思うし」
聞いておいて何なんだと思われそうだが、もし託生に正直に告白されてもやっぱり胸は痛くなる。
自分勝手な言い分だとは思ってもどうしたらいいのか分からない。
「8年もたてば誰でも変わるって、分かってはいるんだけどさ」
「ギイ、ぼくが積極的にいろいろするのは嫌い?」
口でしたり、上になったり。
それは祠堂にいた頃なら間違いなく自らはしていなかった行為だと、託生だって分かっている。
もしギイがそういうのが嫌だというのなら、別にしなくてもいいのだけれど。
「いや、積極的なのはむしろウェルカムなんだけどな」
「そか。それが嫌だなんて言われたら、どうしようかと思ったよ」
託生は安心したようにもう一度ベッドに横たわった。
そのまますやすやと眠ってしまいそうな気配に、ギイは慌てて託生のそばに擦り寄った。
「託生」
「もう寝よう、ギイ。明日早いんじゃないの?」
「・・・・」
上手にはぐらかされて、これ以上何も聞くことができない雰囲気に、ギイは黙るしかない。
無理矢理聞き出すわけにもいかないのだ。
しばらく何とも微妙な空気が流れ、やがて目を閉じていた託生が、我慢できないというようにぷっと笑い出した。
「もう、ギイってば何でそんな不安そうな顔するんだよ。変なの」
「変じゃない」
「そうか、たまには頑張ってみるもんだな、ギイのそんな情けない顔見れるなんて滅多にない」
くすくすと笑って、託生はギイの懐に潜り込んだ。
「そんな心配しなくても、ぼくはそこまでモテませんから」
「・・・だけど・・・」
「経験積んだわけじゃなくて、単にアドバイスされただけだよ」
アドバイスって何だ?とますますギイが訝しげに眉を顰める。
託生は顔を上げると、やれやれというように唇を尖らせた。
「前に、ある人に言われたんだよ。お酒の席でちょっと酔っ払ってたのもあってさ、そんな話になったんだけど、ベッドの中で何もしないのはもったいないって」
「・・・」
「いろいろと自分からした方が、その・・・気持ちがいいし、相手の人だってそういうのは、嫌がることはないはずだし・・・いい年して何もしないで相手任せっていうのは、どうなんだ、とか、まぁそういう話になって。ちょっと反省したんだよ。いつもギイに何もしてなかったなぁって」
一見殊勝な言葉ではあるが、いったい何の話をしてるんだと力が抜ける。
そもそもそんな話、祠堂にいた頃はすごく嫌がっていたはずじゃないのか?
自分の知らないところで託生が誰かとそんな話をしている場面を想像して、ギイは低く唸った。
「で、相手は誰だよ?」
「何が?」
「そんな話、いったい誰としたんだよ」
「北山さんだよ」
あっさりと言ってのける託生に、ギイの頬がひくりと反応する。
託生の音楽活動を支援しているというだけでも、何となく負けている気がしているというのに。
プライベートまで親しくしているのかと思うとますます面白くない。
そんなギイの心中に気づかず、託生が続ける。
「あの人、普段はすごく紳士なのに、お酒入るとすごく楽しいんだよね。昔、祠堂でした宴会みたいなノリでいろんな話してくれるんだよ」
託生はもぞもぞと体勢を変えて、本格的に眠る準備をし始めた。
ぴたりとギイの身体に寄り添って心地よさそうに息をつく。
「ちょっと待て、やっぱり気になるぞ。北山ってもしかしてお前のこと好きなんじゃないだろうな」
「・・・北山さんが?」
「お前のこと支援してくれたり、そんなおかしなアドバイスくれたり、どう考えてもおかしいだろう」
「おかしくないよ。何馬鹿なこと言ってるんだよ、ギイは」
「いや、でもな・・・」
「ぼくと北山さんがどうとかなんてあるわけないだろ」
そりゃあ託生は何とも思っていないかもしれないが、あっちがどう思ってるかは分からない。
まだ納得できないでいるギイに、託生ははたと何かに気づいたように目を見開いた。
「ねぇ、ギイ、もしかして北山さんにヤキモチ妬いてる?」
「妬いてるよ」
素直に認めると、いっそすっきりとした。
自分でも驚くくらいに、託生のことに関しては嫉妬深くなってしまう。
それは8年前ときっと何も変わっていない。
「あのさ、ギイ。北山さんって今年で60歳になるんだよ」
「・・・・え?」
言葉を無くしたギイに、託生はどこかいたずらっぽく微笑んだ。
「去年お孫さんも産まれたんだ。お祝いの席で、ぼくはバイオリンを弾いた。北山さんはいつもしゅっと姿勢がよくて、お洒落でカッコいいよ。すごく仲のいい奥さんがいて、そろそろ現役は退いて会長職になろうかなって言ってたな」
「60歳・・・」
思いもしなかった結末に、ギイは呆けたようにまだ会ったことのない北山を思い浮かべる。
てっきり若き青年実業家を想像していただけにそのギャップに気持ちが追いつかない。
「実業家で成功しているなんて、普通はみんなそれくらいの年齢だよ。ギイみたいなのは特別だよ。北山さんは外国での生活が長かったせいか、ぼくの恋人が男だって知っても別段驚いたりしなかったよ。どちらかと言うと、ギイがFグループの崎義一だってことの方が驚いてたかな」
「あー」
「同性同士の恋愛に偏見はないけど、あの人、赤池くん並のストレートだし、お孫さんもいるっていうのにぼくが女の子だったとしても手を出してきたりはしないよ」
これで落ち着いた?と託生は笑い、今度こそ本格的に眠るために鼻先までシーツを引っ張り上げた。
「ギイってば、昔と何も変わらないね」
「・・・何が?」
「そうやって一人で勝手にヤキモチ妬いたりするところ」
「悪かったな」
「悪くないよ」
託生はどこかほっとしたように小さく言った。
「昔と同じで、ちょっと嬉しい」


8年という年月は確かに長いものだけれど、好きだった人が、好きじゃない人に変わるくらいの長さではない。
会えなかった間に、お互いに変わってしまった部分もあるけれど、だからといって嫌いになるはずもなくて、むしろすべてをリセットして最初からまた恋を始めることができると思えば、それはそれで楽しいことにも思える。
どんなことでも要は気持ちの問題なのだ。
昔と比べる必要なんて何もない。
大切なのは今一緒にいることで、そしてこれからもそばにいられるように前を向いていること。
何があっても前を向いていること。

とろとろと優しい眠りに落ちていく中で、託生が思い出したようにつぶやいた。
「ギイ、明日空港まで見送りにいくよ」
「ああ」
「来月、帰ってきたら、赤池くんと3人で飲みにいこう」
「そうだな」
「ギイ」
「うん?」
「昔のギイも、今のギイも、未来のギイも、ぼくはぜんぶ好きだよ」
それはこっちの台詞だ、とギイが眠りに落ちていく意識の中で思った。
昔の託生も、今の託生も、未来の託生も、変わらず好きでいる自信がある。
とりあえず来月には家を決めよう。
それから2人で一緒にその家に置く家具を買いに行こう。
春が来る前に、生活に必要なものはすべて揃えて、ひと足先に託生に引っ越してもらおう。
そんなことを考えていると明日が来るのが楽しみになる。

前を向いて生きていくというのは、そんなちょっとした楽しみがあれば案外簡単なものなのかもしれない。




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あとがき

やっぱりヘタレなギイが好き。