最後の夏、恋が始まる


※赤池くんと奈美子ちゃんのお話のため、BL要素はほぼありません。すみません。



ジワジワとうるさい蝉の声で目が覚めた。
しばらくベッドの上でぼんやりとしていたのは、暑さのせいに他ならない。
祠堂は山奥なので、夏でも夜は涼しいのだが、久しぶりに帰ってきた実家はやはり暑くて、この暑さに慣れるまでにはまだ少し時間がかかりそうだと思った。
帰省すると、そこは自分の生まれ育った場所だというのに、慣れるまでに少し時間がかかる。
1年の内、祠堂で過ごす時間の方が当然長いのだから、それも仕方がないのかもしれないけれど、その事実にほんの少し感傷的になる。

夏休み、ギイや葉山たちと過ごした九鬼島から昨日実家へ戻ってきた。
建物探索や宝物探しなど、楽しい時間はあっという間に過ぎた。
受験生なのに遊びまわっていていいのだろうか、という若干の不安はあったが、こうして親しい友人たちと旅行に行けるのもこれが最後かと思うと、少しくらいは許されるかと自分を納得させた。
代わりに夏休み後半はみっちり勉強するつもりだ。
九鬼島で滅多に見ることのできない貴重な建物を目にして、やはり建築の道に進もうと気持ちは決まった。目標が定まったのだから、あとはそれに向かって進むだけだ。
「何時だ?」
枕元の時計を見ると、八時を少し回った頃だった。
「洗濯・・・するか」
実家に戻るともっぱら家事に追われることになる。
基本的に家のことなど何もできない父親なので、未だに日常生活に困らない最低ラインのことしかしていないのだ。
なので実家に戻るたびに、僕は父さんが溜め込んだ洗濯をして、大掃除をして、足りないものの買出しをして、と忙しい日々を送ることになる。
夏休みにゆっくりと自分のことをするなんて時間はないのだ。
パジャマ代わりのTシャツと短パンのままリビングへ降りると、父さんの姿はなかった。
「ああ、もう出かけたのか」
ちゃんと起きて朝飯作るつもりだったのに悪いことしたな、と僕はダイニングの椅子に腰を下ろした。

僕が通う祠堂学院高等学校は全寮制の男子校なので、入学すると同時に実家を出た。
帰省できるのは長期の休みだけで、入学したばかりの頃こそ実家が恋しく思えた時もあったが、今じゃすっかり寮の生活が日常になっていて、寂しいなんて思うこともなくなった。
一人で生活をすることになった父さんのことだけは心配だったが、まぁそこは子供じゃないんだから何とかやっているようだ。
案外と僕がいない方がちゃんとやれる人なのかもしれない。
「いい天気だなぁ」
開け放されたリビングの窓の外は眩しい光で溢れていて、今日も最高気温更新になりそうな気配がぷんぷんしている。
「さて、掃除、洗濯、あとで買い物にいくか」
口に出してしまうと、まるで主婦のようだなと乾いた笑いが漏れた。
その時、玄関のチャイムがお気楽な音を立てた。
こんな朝早くに一体誰だ?
宅配でも届いたのかと思って扉を開けると、そこには隣に住む幼馴染みの奈美が立っていた。
「おはよう、章三くん」
「あー、おはよう」
「まだ寝てたの?」
だらしないカッコウのまま奈美の前に出てしまったことに、思わず舌打ちしてしまう。
「どうしたんだよ、こんな朝早くに」
恥ずかしさから、つい早口になってしまう。
「早いって言っても、もう8時よ?」
「夏休みくらいゆっくりさせてくれよ」
「はいはい。ねぇ、今夜時間空いてる?」
少し首を傾げて奈美が笑顔で尋ねる。
その笑顔に少しどきりとした。
会うたびに綺麗になっていく幼馴染みに、僕は会うたびに戸惑ってしまう。
何となく奈美が僕の知っている奈美ではなくなっていくような、そんな気がしているのかもしれない。
けれど、その笑顔だけは昔と変わらないから、僕はぎりぎりのところで平静を装うことができている。
「今夜って何かあるのか?」
「うん、あのね、中学の時一緒のクラスだったみんなで花火やろうかって」
「へぇ」
「章三くんも久しぶりでしょ、みんなに会うの」
確かに。中学の頃の友達はほとんどが地元の高校へと進学した。恐らく僕が一番遠い学校へ行ったに違いない。実家に戻っても忙しくているせいで、なかなか地元の友人たちと会う機会もないので、久しぶりにみんなと会うのも楽しそうだな、と思った。
「分かった。行くよ」
「うん。8時に西公園で開始。ね、一緒に行こう?」
「了解」
じゃあまた夜にね、と言って奈美は帰っていった。
そういや去年もギイたちと花火やったな、と思い出した。
そして、小さい頃は奈美ともよく庭で花火をしたなぁとも。
やはり夏を言えば花火だ。買い物行くついでに、ちょっと派手な花火がないか探してみよう。
「さ、夜までにやることやっちまうか」
まずはちゃんと着替えようと、自室のある二階へと上がることにした。



相棒のギイからは「将来いい嫁になる」などと馬鹿げた評価をいただき、「ちょっとは託生にも教えてやってくれよ。オレのいい嫁になれるように」などという、これまたまったく理解できない戯言を言われてるほどの高い家事能力のおかげで、午前中にやらなくてはいけないことはすべてきっちりと終わらせることができた。
午後からはどっさり出された宿題を進め、本当に久しぶりに自分だけの時間を堪能することができた。

(そうだよな、こういう静かな環境ってのは、祠堂じゃ望めない)

何しろ風紀委員なんてやってるものだから、あれこれと会議には引っ張り出されるし、三年になってからすっかりクールな印象の相棒のストレス発散のための愚痴をそれとなく聞いてやり、図に乗ったギイから「オレのビタミン剤持ってきてくれ」などと真顔で言われて、自分でもお人よしだとは思うものの、何とか葉山を捕まえてゼロ番へと放り込み。
不純同性交友なんてまっぴらごめんだと思っているのに、どういうわけかあの2人の仲を裂くこともできず、むしろ上手くいくよう手をかしている自分にうんざりしたり。
毎日がそんな調子で、自分だけのための時間なんてほんとに少ししかない。
だから自宅でのんびりできる夏休みっていうのは貴重だなぁとしみじみ思うのだ。
いつもよりずいぶん早く帰宅した父さんと夕食を済ませると、八時少し前に奈美が家にやってきた。
「何だ、章三、今からデートか?若い女の子を夜に誘うなんて感心せんなぁ」
父さんが嘆かわしいというばかりにため息をつく。
「デートなんかじゃありませんから。中学時代の友達たちと花火するんですよ」
憮然として答えると、あまり遅くなるんじゃないぞ、と一応親父らしいことを口にした。
「ちゃんと奈美子ちゃんを連れて帰るようにな」
「わかってます」
どこか目が笑っているのが気になるところだが、あえて無視することにする。
昼間に買い出しておいた花火を持って家を出ると、奈美もまた大きなスーパーの袋を持っていた。
「お待たせ、何だ、それ」
「飲み物。公園の自販機で買うよりスーパーでまとめて買った方が安いでしょ?人数分買ったらけっこうな量になっちゃった」
「貸せよ」
どう考えてもそっちの方が重そうだ。
奈美はありがとうと言って代わりに僕の持つ花火を手にした。
「ロケット花火?何だか派手な花火ばっかりね」
袋の中を覗き込んで、奈美が笑う。
「当たり前だろ。どうせやるなら派手な方が楽しい」
「章三くんって意外とお祭り好きだもんね」
「意外か?」
「うーん、小学校の時も中学の時も、学級委員とかやってたから、みんなお堅いイメージ持ってたけど、でも運動会とか文化祭とかになると、率先してバカ騒ぎしてたよね」
「バカ騒ぎなんてしてないぞ。普通だ」
人聞きの悪いことを言うな、と睨むと奈美はそうかなぁと笑う。
のんびりと歩いて10分ほどのところにある公園へと向かう。
「みんな最初は章三くんのこと怖いなぁって思ってるんだけど、同じクラスで1年一緒だと印象変わるのよね、別に怖くはないし、バカ騒ぎ好きでノリがいい」
奈美の言葉に首を傾げる。
そんなに怖いイメージあるのかな。別に普通だと思うんだけどな。
「章三くん、祠堂でも怖がられてるんでしょ?前に崎さんが言ってた」
「それは風紀委員とかやってるせいだろ?」
「ふふ、風紀委員なんて、章三くんにぴったりの役よね」
別にやりたくてやってるわけじゃないぞ、と一応反論してみる。
そりゃもともと綺麗好きなところはあるかもしれないが、男ばかりの祠堂で、少しでも気を抜こうものなら散らかり放題だ。実際、散らかることを気にしない者同士が同室になってる部屋なんて、人間の住む場所じゃない状態になっている。
せめて人間らしく生活ができる場所で寝起きしたいと思うのは普通のことだと思うんだけどな。
「あ、ほらほら、もうみんな集まってる」
公園の入口に見知った顔が数人。
僕たちに気づくと、おお、と声が上がった。
「赤池、久しぶりだなー。元気かよ」
「おかげさまで」
「夏休み帰ってきてるなら連絡くらいしろよなー」
懐かしい顔ぶれの男女合わせて10人。全員が同じ高校に進学したわけではないので、
僕以外も互いに会うのは久しぶりだったらしく、しばらく花火どころではなく、近況報告に花が咲いた。
「で、どうよ、寮生活って。男ばっかだろ?すっげーむさ苦しそうなんだけど」
中学3年の時に同じクラスだった浜野が興味津々といった感じで聞いてくる。
「寮って一人部屋じゃないんだろ?」
「2人部屋。むさ苦しくならないように、ちゃんと掃除してる」
「あはは、赤池はやりそうだな。俺、同室のヤツに同情するわ」
「僕のおかげで綺麗な部屋に住めるんだ。感謝してほしいくらいだけどな」
「ひー、俺絶対に赤池と同室なんて無理だー」
大げさに手を振って、浜野が笑う。まぁ確かに普通の高校生ならそんなにせっせと掃除はしないか。
もともと必要に迫られてやっていた家事だけど、祠堂に入ってからは進んでやってるところがあるからなぁ。
「よし、始めようぜ」
誰かのかけ声に、わらわらと皆が集まり、それぞれに花火を手にする。
暗闇の中、赤や青の光が眩しく光った。
各自が持ち寄った花火はけっこうな量で、次から次へと火がつけられ、煙がすごいことになってきた。
「いったいどれだけ買ってきたんだ?」
咳き込みながら隣にいたヤツに聞くと、
「さぁな、みんなけっこう持ってきてたからなぁ。って、すっげー煙だな」
ねずみ花火に女の子たちがきゃあきゃあ言って逃げまわる。
打ち上げ花火はさすがにここじゃあまずいだろうと言われ、せっかく買ってきた僕の花火は取り上げられてしまった。
「赤池ー、さすがにこれはまずいだろ。お前、前もこれ買ってこなかったか?」
「花火大会となれば打ち上げ花火は必須だろ」
「大会じゃねぇって。だいたい公園じゃ無理だ。今度河原ででもやるか。お前、いつまでこっちにいるの?」
「夏休みいっぱいはいるさ。ああ、でも明日は登校日だけどな」
うっかり忘れるところだった。
まったく、登校日なんて無駄だよなぁとしみじみ思う。
祠堂は地方からの学生が多いから、たった1日の登校日に来るのだって、ほとんど旅行のようなものだ。
おまけに日帰り。
「なぁ赤池」
残り少なくなった花火は女の子たちに押し付けて、ベンチに座って奈美が買ってきたジュースを飲んでいると浜野が隣に座った。しばらく会わないうちに、こいつ背が伸びたなぁなどとぼんやり思う。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
「何だよ」
「お前さ、今、彼女いんの?」
「・・・何だ、そりゃ」
全寮制の男子校でそうそう簡単に彼女なんてできるはずがない、と共学に通う連中は分からないらしい。
「男子校でも出会いはあるだろ?」
「あるわけないだろ」
「でも付き合ってるヤツもいるだろ?」

(そりゃいるけどな)

そういう意味では男子校でも出会いはあるわけだ。僕は絶対にごめんだけれど。
ふいに、一番身近にいるあのバカップルが脳裏に浮かんだ。
まるで宝物みたいに互いのことを大切にしているあの2人。
昨日まで一緒だった相棒は、夏休みになってすっかり元の姿に戻ったようでリラックスしていた。
何しろ誰に遠慮することなく、愛する葉山とべったりいられるのだから、その浮かれっぷりは見ていて恥ずかしくなるくらいだった。
だけど、その方がヤツらしい。
男同士だろうと何だろうと、誰かを好きになるっていうのはやっぱりすごいことだと、僕に思わせるのだから。

「で、聞きたいことって?」
僕が聞くと、浜野はちらりと他の連中を見やって、そして再び僕の方へ向き直り小声で言った。
「あのさ、赤池、奈美ちゃんと付き合ってる?」
「は?」
思いもしなかった問いかけに、僕の思考が一瞬止まる。
浜野はやけに真面目な顔をしていて、冗談を言っているようではなく、だから僕も一呼吸して、どうしてそんなことを、と聞き返した。
「俺さ、今、奈美ちゃんと同じクラスなんだ」
「ああ、そっか。高校一緒だったよな」
「そう。で、何ていうかさ、まぁあれだ。好きなんだよ、奈美ちゃんのこと」
「・・・・・」
「打ち明けようかと思ってさ」
浜野は少し離れた場所で花火に興じる奈美へと視線を移した。
僕もつられて、楽しそうな奈美の姿を見るともなく眺める。
「・・・で、どうなのかな。赤池、奈美ちゃんと付き合ってるのか?」
「いや・・・」

付き合ってるわけじゃない。
ただの幼馴染。
聞かれれば、そう答えるしか他にない。

「そっか」
ほっとしたように浜野がうなづく。
「赤池と奈美ちゃん、それこそ幼稚園からの付き合いだし、家も隣同士で仲良かったし、付き合ってるって思ってるヤツらも多いしさ。俺もそうなのかなぁって思ってたんだけど、赤池、祠堂で寮生活に入っちまったし、実際どうなのかなぁって、さ」
「ああ・・・」
「もし付き合ってるとしたら、告白する前に玉砕なわけだし、赤池にも悪いしさ」

自分の好きな相手がもし誰かと付き合っていたとして、もし自分ならどうしただろうか。
玉砕すると分かっていたら、思いを打ち明けるようなことはしないのだろうか。
それとも、それでもいいと気持ちを打ち明けるのか。

「よし、赤池が付き合ってるわけじゃないっていうんなら、俺頑張るわ」
浜野は気合を入れるかのように、胸の前で拳を握る。
頑張れとも言えなくて僕は黙るしかない。
「なぁ、奈美のどこがよかったんだ?」
立ち上がって、何となく気になって聞いてみると、浜野はうーんと照れくさそうに笑った。
「奈美ちゃん、可愛いだろ?性格もいいしさ」
「・・・・」
「クラスでも気にしてるヤツけっこういるし、実際告白したやつもいるんじゃないのかなぁ」
「へぇ」
初めて聞いた。そういうこと、奈美のやつ言わないからな。
浜野はありがとなと言って仲間の輪の中へと帰っていった。
僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。

別に奈美とは付き合ってるわけじゃないから。
誰かが奈美のことを好きなっても、それを打ち明けようと、僕には何も言えない。
もし、奈美がその想いを受け入れて、そいつと付き合うようになったとしても、何かを言える立場ではないのだ。
そんなこと百も承知のはずなのに、どういうわけか胸の奥が言葉にできない不思議な感覚で熱くなる。

「章三くん」

顔を上げると、奈美がいた。

「もう花火終わっちゃうよ?」
「ああ、けっこうな量あったのにな」
「うん。はい、線香花火。章三くんの分持ってきた」
奈美が数本の線香花火を僕へと差し出す。
受け取って、二人してその場にしゃがみこんだ。
ポケットからライターを取り出して、奈美の花火に火をつけてやると、
「高校生がマイライター持ってるのってどうなんだろ」
と、何か言いたげに奈美が上目遣いに僕を見た。
どこにでもある使い捨てライターではなく、僕が持っていたのは、以前ギイからもらった限定もののZIPPOだったがまずかった。
奈美の前で喫煙したことはないけれど、たぶん見抜かれてるんだろうな。
「花火用に持ってきただけだって」
「ふうん、ま、そういうことにしておきますか」
「・・・・」
それ以上言うと薮蛇になりそうなので、口を閉ざすことにする。奈美もそれ以上は追及することなく手にした花火を眺めた。
「ふふ、綺麗ね」
ちりちりと今にも消えそうな小さな光がやがて花のような光に変わる。
「ほら」
僕の分と持ってきてくれた花火も奈美に渡した。

小さい頃もよくこうして一緒に花火をした。
奈美の家の庭に家族でお邪魔して、バーベキューをして、スイカを食べたり花火をしたり。
父さんたちはビールで上機嫌だった。

『大きくなったら、奈美ちゃんが章三のお嫁さんになってくれるといいんだけどなぁ』

酔っ払いの戯言に、けれど奈美はうんいいよ、と笑って言った。
深い意味などまったく分からずに答えた子供の言葉に、父さんはずいぶんと喜んでいた。

「おーい、赤池、こっちこいよ」
呼ばれて奈美を促す。
花火の後始末をして、適当にベンチに腰掛けてあれこれと世間話を始める。
久しぶりに会うと、全寮制の男子校というのが珍しいのか、決まってあれこれと聞かれる。
僕にしてみれば特に不自由はしていないのだが、皆からすれば今のこの時代でその暮らしは不自由極まりないと言ってならない。
「ゲームもできない、携帯電話もない、テレビだって共同だなんて、あり得ない」
「よく2年も我慢できたな」
「外出するのに許可がいるなんて」
皆の感想には苦笑するしかない。
「住めば都っていうだろ。皆が思ってるほどひどくはない」
「ほんとに?」
「あー。少なくとも飯は美味い」
僕の言葉に皆が笑う。
「寮生活だと予備校とか行けないだろ?勉強ってどうしてんの?」
「普通の授業とあとは自習?」
「げ、そんなんで受験大丈夫なのか?」
そうだよなぁ。普通はそう思うよな。
祠堂はそれなりに偏差値は高い学校だし、大学進学率は100%に近いのだが、何しろ山奥での寮生活なので、予備校なんて通えない。毎日の授業と3年になると始まる補習、あとは自助努力だけで受験勉強をしなくてはならない。
正直、これはかなり辛い。どこかぬるま湯のような学校生活で、どれだけ自分を律して気持ちを勉強へと持っていけるかが最大のポイントとなる。
けれど、何だかんだ言いながらも、一流大学へ進学する人も多いのだから、祠堂はやっぱりそれなりの人間が集まってるのかな、とも思う。
「大学かぁ、浪人できねぇしなぁ。ほんと、この夏が勝負だよな」
しみじみとつぶやく友人に、そうだよなぁと別の友人もうなづく。
「こんな風に花火して遊ぶのも、ほんと息抜きって感じだし。あーあ、早く受験終わってくれねぇかなー」
「赤池はもう志望校決まってるのか?」
「ああ、そうだな。一応な」
「そっか、お前んち親父さん大学教授だろ?プレッシャーねぇの?」
「ないな。特に何か言われることもないし」
そういや、父さんと進学の話したことないな、と今更ながらに思い出す。そろそろちゃんと希望は伝えておいた方がいいのかもしれないな。
しばらく友人たちと楽しく話をして、夏休みの間に今度はご飯でも行こうということでお開きになった。
それぞれが家路に着く中、当然一緒に帰るはずの奈美の姿がないことに気づいて、僕は仕方なく辺りを探すことにした。
何となく嫌な感じはしていた。
そういう予感はたいてい当たるもので、花火をした広場から少し離れた場所に奈美と浜野がいた。

(あいつ、思い立ったが吉日ってタイプなのか?)

じゃ頑張るなんて言って、そのあとすぐに告白するなんてどれだけ切羽詰っていたんだ、と呆れてしまう。
もちろん声をかけることなんてできるはずもない。
ちらりと視界に入った2人はやけににこやかに話をしていて、もしかして告白とやらが成功したのかと思うと、もやもやとした感情が胸に渦巻いた。
しばらくどうしたものかとその場で立ち尽くしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかず、僕は一つ深呼吸をしてから、2人に声をかけた。
「あ、章三くん」
「お開きになって、もうみんな帰ったぞ」
「そうなんだ。じゃあ私たちも帰ろっか」
普段通りの奈美が僕に笑う。
「じゃあ浜野くん、またね。おやすみ」
「ああ、おやすみ。赤池も。また近いうちに連絡するわ」
「ああ」
その場で浜野とは別れ、奈美と2人家路を辿る。
さっきの浜野の様子からは、いったいどういう結果になったのかまったく分からなかった。
落ち込んでいるようには見えないけれど、かといって満面の笑みというわけでもない。
もしかして打ち明けなかったのか?
そんなことはないだろう。わざわざ奈美を呼び出してるくらいなのだから。
「章三くん、さっきからずっと黙り込んでる」
「え?ああ、ごめん」
住宅街は静まり返っていて、知らず知らずに声が小さくなる。
「楽しかったね、花火」
「そうだな。久しぶりだったし」
話しながらも、僕の頭の中にはさっきの2人の姿が鮮明に残っていて、どこか上の空だった。
別に奈美が誰と付き合おうと関係ないはずなのに。
なのに、ひどく嫌な気分がして仕方なかった。
あとになって思えば、それは自分の気持ちを正直に伝えることのできる浜野に対して負けたような気がしたせいもあったと思う。
そして、奈美が僕の知らない奈美に思えて、戸惑っていたのだ。
奈美が、昔からよく知る友人から想いを寄せられることがあるなんて、思ったこともなかったから。
だから、普段なら絶対に言わないだろう言葉が出てしまったのだ。
本当にそれは無意識だった。

「さっき・・・」
「え?」
奈美が振り返って首を傾げる。
「浜野に」
「・・・・」
「好きだって言われた?」
その瞬間、奈美が大きく目を見開いて、僕を見た。

(何を言ってるんだ)

どうしてそんなことを言ってしまったのか、分からなかった。
けれど、気がついたら口をついていた。
しまった、と思ったけれどもう遅い。
お互いに見つめあったまま、どれくらいそうしていたか。
「・・・どうして、そう思うの?」
やがて静かに奈美が問いかける。
その声が震えていることに気づかないわけではないのに、
「奈美のこと好きだって・・・気持ちを伝えようかなって言ってたから」
馬鹿みたいに正直に答える自分が不思議でならない。
こんなこと奈美に言うべきじゃないって頭では分かっているのに、とめようがない。
「浜野くん・・・章三くんに何か言った?」
「付き合ってるのかって聞かれたよ。もしそうなら玉砕覚悟だし、って」
「章三くん、それ聞いて・・・何て言ったの?」
「付き合ってるわけじゃないって答えた」
「・・・・・っ」
きゅっと唇を結ぶのは、奈美が涙を堪えている時の癖だ。
小さい頃、喧嘩をするたび、そんな表情をする奈美を何度も見てきた。
「・・・馬鹿」
「え?」
泣かれたら困るな、なんて思っていた僕に、奈美は顔を上げて真っ直ぐに僕を見た。
「章三くんの馬鹿っ。そんなこと私に教えないでよっ」
「・・・・っ」
奈美ははっとしたように口元を隠すと、ぱっと身を翻して駆け出した。
僕は追いかけることができずに、ただその場に立ち尽くすしかなかった。



夏休み唯一の登校日はほとんど小旅行のようなものだ。
長い時間をかけて登校し、学園長のありがたいお言葉を拝聴する。
昨夜、奈美と気まずくなってしまったことで、あまりよく眠れず、正直なところ気分は最悪だった。
そんな僕とは正反対に、相棒のギイは機嫌が良かった。
どうやら九鬼島を出たあと、葉山と2人で一泊したようで、九鬼島であれだけべったりといちゃついていたくせに、よくもまぁ飽きないものだとある意味感心してしまう。
「飽きるわけないだろ。足りないくらいだ」
たった1日の登校日でも、階段長のギイは忙しくしているのだが、昼飯一緒に食べようぜと誘われた。向かい合わせで、今日は一種類しかない定食を口にする。
「まぁ祠堂にいる間はただの友達のふりしてるんだからな。その反動も大きいってことか」
「ま、そういうことだ」
「葉山は?」
「政貴の頼みで音楽室」
「へぇ」
「音大目指す者同士、受験勉強の助け合いってとこ」
なるほどな。葉山もちゃんと頑張ってるんだな。
当然と言えば当然だけれど、どこかふわふわと頼りないイメージがあるものだから、ついそんなことを思ってしまう。
「章三、このあと予定は?」
「あとは帰るだけだ。何だよ、また東京の実家に来いなんて言うつもりじゃないだろうな」
去年の登校日を思い出して、眉をひそめる。
あの時は2人のために家政婦をやらされたのだ。
「いや、今日はオレ泊まりだからさ」
「そりゃ大変だな」
「帰る前にちょっといいか?」
また何かややこしい話をするつもりじゃないだろうな、と少しばかり警戒して、食事を終えたあと、ギイに誘われてゼロ番へと足を向けた。
久しぶりにバニラの香りのコーヒーをご馳走になる。
「で、何の用だよ。また何かあったのか?」
ソファで足を組み、ギイを促す。面倒な話なら早く済ませてしまいたいと思うのが人情だろう。
けれどギイは少し首を傾げて、
「章三こそ、何かあったんじゃないのか?」
と聞いてきた。
しまった、こいつは異様に勘がするどいヤツだった、と思っても後の祭りだ。
おまけに僕自身、今日は朝から若干心あらずだったせいで、無防備になっていたのだろう。
「何かって何だよ」
誤魔化しきれないだろうとは思いつつも、とりあえず平静を装ってみる。
「奈美子ちゃんと何かあった?」
「は?」
いきなり図星を指されて返す言葉もなかった。いったい何なんだ、こいつは。
僕が憮然としたのを見て、ギイはニヤニヤと笑った。
「だってさ、九鬼島から戻ってまだ日がたってない。章三が実家に戻って親父さんと喧嘩したとしても、そんなに憂鬱そうな顔はしないだろ。だとすれば、一番身近にいて何かあったときに、章三がダメージ受けそうな相手となれば、さ」
「・・・・そういう推理いらないから」
「何があったか吐いちまえよ。白状すれば楽になれるぞ」
「どこの刑事ドラマだ、それ」
思わず笑ってしまう。わざと深刻にならないようにギイが茶化しているのはよく分かるが
軽く話せるようなことでもなくて、どうしたものかと考える。
ギイは急かすことなくのんびりと僕が口を開くのを待っている。
やれやれ、と僕はソファの背にもたれかかった。
いつも通りにしているつもりだったけれど、聡い相棒はすぐに何かあったと見抜いたに違いない。
それでもたいていの場合は口出しすることなく静観するのが常なのに、自分だって忙しい登校日にわざわざ時間を作って水を向けるなんて、よっぽど見かねてのことなのだろう。
そう思うと、僕もまだまだ修行が足りないなと忌々しくなる。
けれどギイはそんな僕の心中に気づいたのか
「別に奈美子ちゃんとの恋愛相談をしろなんて言わないって。人の恋路に口出すつもりはないからな。けど、考えてることがあるなら話してみろって。相棒だろ?少しくらい頼ってくれよ」
と笑った。
悩み事があるなら、と言わないところがギイらしい。
言われてみて初めて、僕自身、打ち明け話的に誰かに相談をすることがないということに気づいた。
誰かに頼るのが嫌だとか弱みを見せたくないだとか、そんなことは思っちゃいないが、母親が亡くなって父親と2人きりになった時から、自分のことで心配させたくないという気持ちが強くなったせいかもしれない。
僕は一つ息をつくと、昨夜の出来事を簡単にギイに話した。
「・・・・章三、お前なぁ」
黙って僕の話を聞いていたギイだが、聞き終えると信じられないとでも言いたげに僕を見て、これみよがしに、あーあとため息をついてみせた。
「そりゃ奈美子ちゃんが可哀想だ」
「付き合ってるわけじゃないのは本当だ」
「誰かそんなこと言ってるんだよ」
ギイは僕へと身を乗り出して、いいか、と続けた。
「そりゃあ確かに正式に付き合ってるわけじゃないかもしれないが、それを他人に言っちまうとさ、章三が奈美子ちゃんのこと何とも思ってないって言ってるようなもんだろうが」
「何でそうなる」
「何で、って。女の子ってそういう風に感じるものだと思うけどな」
僕は黙るしかなかった。
ギイみたいに百戦錬磨じゃないもんで、なんて悪態をつく気力もない。
ギイはそんな僕に静かに尋ねる。
「けど、落ち込んでるのは奈美子ちゃんに怒鳴られたからじゃないだろ?」
やっぱりギイは鋭い。僕が感じている違和感を僕よりも的確に把握しているのだから。
仕方なく、僕はギイの指摘を認めた。
「奈美のことを傷つけるつもりはなかった。っていうか、奈美がそんなに傷つくなんて思ってなかった」
昨夜の2人を見た時の言葉にできない感情が甦る。
「自分でも驚いてる。どうしてあんなこと言ったのか分からなくて、正直なところそれに一番戸惑ってる」
正直に告白すると、ギイはしょうがないなぁというように笑う。
「奈美子ちゃんを取られそうな気がして混乱しただけだろ」
「・・・」
「混乱して、うっかりそれを奈美子ちゃんにぶつけちまった。好きな子に意地悪するアレだよ」
そんな子供じゃあるまいし、と反論してもまったく説得力がない。実際、奈美に対しては八つ当たりと言われても仕方がないことをしてしまっている。
「ちゃんと好きだって言えばよかったのに」
何でもないことのようにギイが言う。
「付き合ってはないけど、自分も奈美子ちゃんのことが好きなんだって、そいつに言えば良かったんだよ」
そうかもしれない、と思う。
言えば、あいつはどうしただろう。
「なぁ章三」
「何だよ」
「章三がどういうポリシーで奈美子ちゃんに思いを伝えないのかは知らないが、人と人の繋がりって些細なことで終わってしまうこともあるんだぜ」
「・・・・」
「ちょっとしたきっかけで永遠の絆ができることもあれば、つまらない喧嘩で縁が切れることもある。どっちも運命だって言ってしまえばそうかもしれないけれど、だけどもし、その相手のことを手放したくないのなら、好きだって告げるのはカッコ悪いことでも何でもない。言葉を惜しんで大切なものを失うよりはずっといい」
ギイの言葉はやけに実感がこもっていて、こいつも同じようなことがあったのかなと思わせた。
真摯な口調に妙に気恥ずかしくなって、それを誤魔化すために、
「・・・お前は言いすぎだ」
とギイに言い返した。
3年になってからはまだしも、2年の頃は好きだの愛してるだの、聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらい葉山に対して言い続けていた。
ギイはそうか?と首を傾げる。自覚がないのがまた憎たらしい。
「このまま気まずくなって離れていくのが嫌なら、ちゃんと気持ちは伝えた方がいい」
たぶんギイの言う通りなんだろうなと思う。
子供っぽいヤキモチで奈美を傷つけてしまったことも、一番仲のいい幼馴染だなんて中途半端な状態に甘んじているのも、全部僕のせいに他ならない。
「時間置くとこじれるからさ、今日帰ったらさっさと謝っちまえよ」
「お前、他人事だと思って」
僕がじろりとギイを睨む。
「夫婦喧嘩なんて旦那が先に謝った方が丸くおさまるもんだぜ」
「誰が旦那だ!」
馬鹿言ってんな。
ギイはからりと笑うと、
「好きだって言っちゃえば?」
と、どこか優しい目をして言う。簡単に言ってくれると苦笑した。
僕は少し考えたあと、それまで一度も口にしたことのないこと打ち明けた。
「好きだって言うことをカッコ悪いと思っているわけじゃないんだ」
「だよな」
「別に特別なポリシーがあるわけでもない。ただ・・・」
「ただ?」
ギイが首を傾げる。
「ただ、下手に好きだなんて言っておいて、3年も離れてしまうのは辛いだろ?」
僕の言葉に、ギイがはっとしたように目を見開く。
本当は祠堂に入学するときに思った。離れてしまう前に気持ちを伝えておこうかな、と。
だけど、すぐに会えなくなることが分かっているのに、寂しい思いをさせるのは可哀想な気がしたのだ。ギイみたいに毎日電話なんてできるはずもないのだから。
そうなれば、奈美だけじゃなくて、僕だって辛い。
それに、離れていれば気持ちが変わることだってある。
他の誰かを好きになることだってあるだろう。
そのときに、僕の気持ちが重荷になって欲しくはなかったのだ。
「・・・ちゃんとお互いの気持ちが通じ合っていても、離れてしまうのは辛いもんな」
ギイがぽつりとつぶやく。
卒業したあとの自分と葉山のことを思っているのか、ほんの少しその表情が曇る。
僕とは逆に、ギイにとってはそれはこれからの一番大きな悩みなのだろう。
「まぁ人それぞれだとは思うけどさ」
笑うと、ギイもそうだよな、と小さく笑った。



慌しい登校日を終え、自宅に戻るとすでに夕方近くになっていて、僕の帰りを待ち構えていた父さんに、今夜の夕食のメニューをリクエストされ、再び家事に追われて夜を迎えた。
自室のベッドに横になって考えることといえば、やっぱり奈美のことで、どう考えても僕の方から謝らなくてはいけないことはわかっていたが、さてどうしたものか。
悪いことをしたのであれば、謝るのは当然なので、迷うことなく謝っていただろう。
けれど、こういうことってどっちが悪いというわけじゃないっていうか、いややっぱり僕が悪いか。
「・・・・」
閉じていた瞼を開けて、ベッドから起き上がると、そのまま部屋を出た。
父さんに気づかれないようにそっと家を出ると、そのまま隣の家へと足を向ける。
閉ざされた門をそっと開け、けれどそのまま玄関には行かずに、建物の脇から裏庭へと回った。
二階を見上げると、角の部屋に灯りがついているのが見える。
そこは奈美の部屋だ。
少しの逡巡のあと、地面に転がっている小さな石を手にして、灯りのついた窓へと投げる。
こつんと小さな音がして、石がはね返る。
もう一度同じように石を投げると、しばらくして窓が開いた。
奈美が顔を覗かせ、僕の姿を見ると、驚いた表情を見せた。
「降りてこれるか?」
と小さく聞くと、奈美は何か文句を言いげに唇を尖らせ、何も言わずに窓を閉めた。
音を立てないように裏庭から再び玄関へと回り、外門の脇で奈美が出てくるのを待った。
やがて玄関の扉が開き、奈美が姿を現した。
「・・・ちょっといいか?」
「いいけど・・・」
じゃあと歩きだすと、奈美は何も言わずに後ろをついてきた。
しばらく静かな住宅街を2人して歩いた。
何とも言えない気まずい空気が流れていて、それが自分のせいだとわかってはいてもいたたまれなくなる。
暗闇にひときわ明るい光を放つ自販機の前で足を止めて、奈美を振り返った。
「何か飲むか?」
「・・・うん」
缶コーヒーを二本買って、一本を奈美に渡す。
そのままガードレールに腰掛けると、奈美はすぐ隣に同じように腰掛けた。
しばらく無言でコーヒーを飲んで、僕は空になった缶を地面へ置いた。
「昨日は悪かった」
「・・・・」
「まだ怒ってる・・・よな」
奈美はちらりと僕を見ると、また視線を前へ向けた。
「章三くんらしくない」
「え?」
「ああいうこと言うの、章三くんらしくない」
「・・・そうかな」
だとすれば、奈美はまだ僕のことをよく分かっていないのかもしれない。
僕だって怒ることもあるし、嫉妬することだってある。
ただ、そういうのを表に出したくないと思っているだけだ。
「まぁちょっと・・・動揺してたのかもな」
「動揺って?」
「まさかあいつが奈美のこと好きだなんて言うとは思わなかったからさ」
ようやく奈美が少し笑った。
「こう見えてけっこうモテるんだからね、って言わなかったっけ?」
おどけた口調はもういつもの奈美のもので、もう怒ってないのがわかって少しほっとした。考えてみれば、小さい頃から何度喧嘩しても結局こんな風に仲直りをしてきた。
たいてい奈美が怒って泣いて、僕が謝っての繰り返しだ。
ぜんぜん成長してないな、とうんざりする反面、たぶんこれからもずっと同じことを繰り返すんだろうなという予感もした。
「ねぇ、私が何て答えたか、聞かないの?」
奈美が悪戯っぽい瞳で僕を覗き込む。僕はそんな奈美を軽く睨んで、
「聞かなくても分かるからいい」
と答えた。奈美は呆れたように目を見開き、
「なにそれ、生意気」
と言って、僕の肩に軽くパンチを入れた。
好きだと口に出した言ったわけではないけれど、けれどお互いの気持ちはわかってる。
ギイが言う通り、言葉にすることは大切で、それが必要な時があることも知っている。
だけど、僕と奈美の間には、言葉にしなくても通じる思いが確かにあって、それが心地よく、自分勝手な我侭かもしれないけれど、もう少しこのままでいたいと思ってしまうのだ。
「でも、私も怒ったりしてごめん。章三くんが言ったこと、別に嘘じゃないのに・・・」
奈美がぽつりとつぶやく。
「だけど・・・」

長い睫が伏せられ、白い頬に影を落とす。
華奢な肩とか、長い髪とか。
綺麗に揃えられた爪や細い手首。
時折感じる甘い匂い。
すぐ隣にいるのは僕がよく知る奈美のはずなのに、そんなあらゆるパーツが初めて知るもののように思えてひどく切なくなった。

手を伸ばして触れたいと、ふいに思った。
背後を車が通らなければ、きっとそのまま奈美を抱きしめていたと思う。
僕はふっと肩の力を抜いた。

「知ってるよ」
「え?」
奈美が顔を上げる。僕はガードレールから立ち上がると、突然襲ってきた衝動を堪えながら空き缶をゴミ箱に投げ入れた。

(奈美の気持ちは知ってる)

だから言わなくてもいいのだと無言のまま告げる。
そのうちちゃんと口に出して告げるから。
好きだと言うのをカッコ悪いだなんて思ってるわけじゃないのだ。

「帰るか」
「・・・うん」

ガードレールから降りた奈美に手を差し出す。
小さい頃からの仲直りしたあとの儀式のようなものだったけれど、大きくなってからは初めてで、奈美は僕の手をじっと見つめ、くすぐったそうに笑うとそっと手を重ねた。

「今日、登校日だったんでしょ?」
「ああ。日帰りの小旅行」
「ついこの前まで崎さんたちと旅行してたのに。遊んでばかりね」
「後半は真面目に勉強するさ。そういや奈美は大学決めたのか?」
「うん。章三くんは、大学はこっちに戻ってくるの?」
「そのつもりだけど、大学どこになるか分からないからなぁ」
「そろそろ帰ってこないと、おじさん寂しがるわよ」
「もう3年一人暮らししてるんだぞ、何が今さら寂しいんだよ」
「そういうもんだと思うけどな」
「勘弁してくれよ」

手を繋いだまま、のんびりと家までの道のりを歩き、奈美の家の前で立ち止まる。
「じゃここで」
奈美が繋いでいた手を解こうとする。
無意識のうちに、その手を力を入れて引き戻した。

手を繋いだまま、不思議そうな表情を見せる奈美の肩に、もう片方の手を置いて、ゆっくりと身を屈める。
顔を近づけると、奈美の体温がふわりと上がった気がした。
唇が触れる瞬間、きゅっと手を握り締めた奈美に、たまらない愛しさが込み上げた。
ほんの少し触れるだけの、ままごとみたいな口づけでも、やけに心臓の音が耳について仕方なかった。

奈美は薄く頬を染めたまま、「おやすみ」と言うと、僕の手を解いて家の中へと消えた。
僕はその場にしゃがみこんで頭を抱えると、「何やってんだ、いったい」と思わずつぶやいてしまった。
柔らかい唇の感触がまだ残っている。
好きだなんて一言も言わず、付き合ってるわけでもないくせにこんなことをして、また奈美に怒られて口をきいてもらえなくなったとしても仕方がないと思ったけれど、次に顔を合わせたとき、まるで何もなかったかのように奈美はいつも通りだった。
妙に意識されたら、それはそれでこっちも困るのだが、だとすれば、それは怒るようなことではなかったということで、僕はほっとすると共に気恥ずかしくて仕方がなかった。




夏休みがあけると、さっそくギイが「仲直りしたか」と聞いていた。
ギイはギイなりに気にしていてくれたようだが、仲直りの話を詳細にするつもりはなかったので、「おかげさまで」とだけ答えておいた。
奈美とのことはそれ以上触れたくなかったのだが、秋休み、ギイと葉山が家に遊びにくることになり、うっかり奈美とも会わせてしまい、ちょっとしたことから、あの鈍い葉山に
「赤池くんて奈美子ちゃんのこと大好きなんだね」
としみじみ言われて、ギイに大笑いされた。
別に隠すことでもないから、
「奈美のことは好きだよ」
と言ったら、ギイも葉山も心底驚いた顔をした。
こいつら僕のことを何だと思っているんだろうと思ったが、2人の驚いた顔が見られたので、溜飲を下げることができた。

それからもやっぱり、僕と奈美はそれまでと何も変わらず、時折電話で話をするくらいだ。
先のことを考えるのはとりあえず卒業してからにしようと思う。
急ぐ必要はない。
何しろ15年以上の付き合いの幼馴染なのだから。






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あとがき

好きだなぁこの2人。章三くんはすっごく真っ当な恋愛をしそうだ。 おまけのお話はこちらから