TEMPEST


「託生、写真展行かないか?」

ギイがそう言ってチケットを見せる。
それは最近時折雑誌などで見かけるようになった写真家のもので、密かに行きたいなぁなんて思っていた写真展だった。
何気ない風景だけれど、不思議な色あいで撮られた写真は、見るたびにぼくの胸をしめつけた。どうしてかは分からないけれど、心惹かれる写真ばかりで、一度生で見たいと思っていたのだ。
ギイはぼくが実物を見てみたいと言っていたのを覚えていたのだろう。
きっとわざわざチケットも取ってくれたに違いない。
「でもギイ、これ・・・」
チケットを見ると、写真展は麓の街ではなく、東京で開かれると記されている。
ギイは大丈夫、と笑った。
「今度の週末は連休だろ?朝一番のバスで行けば昼前には着くし、あんまりゆっくりはしてられないけど、門限までには十分帰ってこれるさ。次の日休みならちょっとくらい遅くなっても平気だし。いざとなれば、章三に頼んで寮の玄関を開けてもらえばいい。な、たまには遠出しようぜ」
「うん・・でも」
確かに時間的には問題ないだろうけれど、それよりも、今のぼくたちはただの友達という風を装っていて、二人でわざわざ東京まで遊びに行くなんて知られたら困るんじゃないだろうか。
そんなぼくの考えを見透かしたギイが、くしゃりとぼくの髪を撫でた。
「心配するな。たまには元同室者の同級生と遊びに行ったって、誰もおかしいとは思わないさ」
「うん・・・」
ギイがそう言うなら大丈夫なんだろう。
じゃあまた時間とか調べとくからな、と言ってギイはぼくたちがいつも密会に使っている部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送って、ぼくはそっとため息をついた。


ここ数日、ぼくとギイの関係はほんの少しぎこちないものだった。
原因は分かっていた。
ぼくが卒業したら日本の音大へ進むと決めたことを告げたからだ。
進路の話は、ぼくたちの間ではいつからか微妙な問題となっていた。
ギイがアメリカへ帰ることは決まっていて、あとはぼくがどうするか、だった。
ギイはぼくと離れたくないと言った。

『託生が本気で望むならどうにかする』

ギイはそう言って、ぼくと一緒にいるために、日本に残ることも考えると言ってくれた。
だけどそんなことさせるわけにはいかなくて。
ギイがぼくにアメリカへ留学してほしいと思っていることは知っていたし、そのことについて本気で考えたこともあった。
ぼくだってギイと離れるのは辛かったし、できることならずっと一緒にいたかった。
両親は本当に留学したいのなら、ぼくの希望通りにすればいいと許してくれた。経済的なことは心配しなくていいとまで言ってくれた。
だからあとはぼく自身がどうしたいかと考えるだけだったのだ。
ずっと考え続けて、そして出した答えは日本に残ることだった。
それをギイに告げたとき、ギイはひどく傷ついたような表情を見せた。
けれどそれもほんの一瞬で、すぐに一言「そうか」と言っただけで、まるでたいしたことないかのように、いつも通りの笑顔を見せた。
どうして、と理由を聞くこともなかった。
ぼくとしては、ギイから理由を聞かれるだろうと思って心の準備をしていただけに、少し拍子抜けしてしまったのだ。けれど、聡いギイのことだから、何も言わなくてもわかってくれたのかな、なんて思ってた。
でもそうじゃなかった。
あれ以来、ギイの態度はほんの少し変わったように思えた。決して冷たくなったとか、そういうことではなくて、強いて言えば、言いたいことを我慢しているような感じ。
そんなこと、今までなかったから、ぼくは戸惑っていた。

言いたいことがあるなら言ってくれればいいのに。
どうして一緒に来ないんだって責めればいいのに。

だけど、ぼくが水を向けようとすると、ギイはそれとなくそれをかわしてしまう。
いつものギイらしくなくて、もどかしかった。
他の人なら気づかないであろうそんなギイの変化を見抜いたのは、やはり相棒の章三だった。


「葉山、ギイと喧嘩でもしたか?」
放課後、いつものように温室でバイオリンの練習をしていると、めずらしく章三が姿を見せて、開口一番そう言った。
「どうして?」
「めずらしくヤツが落ち込んでるようだからさ」
そうだろうか。ギイが落ち込むところなんて滅多に見ないから、本当にそうなのかは分からない。
だけど、いつもと違うということだけは正しくて。
そして章三はちゃんとそれに気づいていた。
「う・・ん。喧嘩じゃないけど・・・・もしかしたら、ギイは怒ってるのかもね・・・」
「何やったんだ?」
「何も。何も・・・してないけど・・・・」
ぼくがアメリカへは行かないと告げたことで、ギイはぼくに裏切られたような気になっているのだろうか。それで怒っているのだろうか。だけどぼくは、ぼくなりに考えてこの答えを出したのだ。
ぼくがどうして日本の大学に進むことを決めたのか、ちゃんとギイにそれを伝えたいのに、こんな風に静かに拒絶されるのは辛かった。
章三はやれやれというように肩をすくめた。
「葉山、ギイはお前が思ってるほど強くもないし、大人でもないぜ」
「え?」
「いや、違うな。他の連中相手なら何があっても平気だろうが、葉山が相手となると信じられないくらい自信がなくなるヤツだっていうのが正しいかな」
「そうかな・・いつでも憎らしいくらいに自信満々だと思うけど」
「葉山の前じゃ強がってんだろ」
「・・・・・よく分からないよ。だって・・・・」
分からない。
ギイが何を考えているのか。
いつもなら、自分が納得できるまで話し合おうとするのに、今回はそんな素振りを見せない。ギイはぼくが、ギイとのことを何も考えていないとでも思っているのだろうか。
「なぁ葉山」
「なに?」
「分かってると思うけど、ちゃんとギイと話し合えよ。二人とも何かおかしいぜ」
「そうかな、少なくともぼくはいつもと同じだよ」
「ギイは葉山の目を見ようとしないし、葉山はそんなギイをどうしていいか分からず落ち込んでる」
「・・ああ・・・うん、そうか・・・」
指摘された気づいた。感じていた違和感はそれだったのか。
ギイはぼくを見ようとしていない。視線があわないから、ぼくはもどかしく不安になっている。三年になったばかりの頃、あのメガネのせいでギイの視線が何を見ているか分からなくて不安になったのと同じだ。
「さっさと仲直りしてしまえ」
「うん・・・そうしたいとは思ってるんだけどね・・・」
でもきっかけがつかめない。
話そうとすると逃げてしまうギイを、どうすれば掴まえられるのか分からない。
「葉山はそれでなくても言葉足らずだからな、ギイが勝手に誤解してるだけかもしれないし、とにかく、ちゃんと話し合えよ。ギイが調子悪いといろいろと面倒だからさ」
「そうだね、努力はするよ」
「たまにはさ、葉山から手を差し伸べてやれよ。あいつもそれを待ってるかもしれないし」
じゃあな、と章三は温室を出て行った。
ギイのこと心配して、わざわざこんなところまで来るなんて、ほんとに章三はお人よしというか面倒見がいいというか。いや、友人思いなんだな。今までだって、章三に何度助けられたか分からない。
だけど、今回は誰かに助けてもらうわけにはいかないのだ。
だって、これはぼくとギイとの問題だから。
そう思ってずっとギイとちゃんと話がしていと思っていたのに、それでなくても一緒にいられる時間なんてほとんどなくて、人前では相変わらず友人のふりさえできなくて、ただ時間だけがたってしまっていた。

ぼくがギイのことを大切に思っていない、と思われていたらどうしよう。

そうじゃないって、どうすればわかってもらえるんだろう。
そんな時に、ギイが写真展へ行かないかと誘ってきたのだ。



土曜日は祝日で、ぼくとギイは約束通り、朝一番のバスに乗り、お目当ての写真展へと向かった。
ギイはここ数日の違和感などまったく感じさせない気楽さで、いつも通り冗談を言って、まるで去年同室だった頃に戻ったかのような錯覚さえ覚えた。
無理してるようには見えなかったけれど、でも何かを忘れようとしているようにも見えた。
だけど、せっかくのデートなのにぼくがあれこれ悩んでいるのはもったいない。
今日は久しぶりにギイと楽しいことだけをしようと決めた。
「託生、写真展は先に昼飯食べてからにしよう。何か食べたいものあるか?」
「え、もうお昼の話?ギイ、相変わらず食いしん坊だね」
「だって託生と二人で外出デートなんて久々だろ?おまけに遠出だし。オレ、すっげぇ楽しみにしてたんだぜ?」
「そりゃぼくだってそうだよ。・・ところで、ねぇギイ、傘持ってきた?」
「傘ぁ?」
電車の窓から空を眺めて、ぼくは今朝の天気予報を思い出していた。
「そういや雨模様みたいなことを言ってたな」
「ぼくもすっかり忘れてたけど、降りそうだね」
「大丈夫だろ。それより託生、昼、何食べるんだよ」
「もう、何でもいいよ、ギイに任せる」
ぼくは笑ってギイの肩を押し返す。くだらないことで笑いあうのは久しぶりだった。
このままずっとこんな風に一緒にいられたらどんなにいいだろう。
先のことなんて考えたくない。
卒業して、離れてしまったら、ぼくたちはどうなるのかな。
アメリカと日本。
簡単に会える距離じゃない。離れたら、会えなくなったら、今みたいな強い思いは薄れてしまうのかな。

(怖いな・・・・)

自分で決めたことなのに、やっぱり離れてしまうことは怖い。

「託生?」
「あ、ごめん。なに?」
ぼんやりしていたぼくは呼びかけられて我に返った。
ギイはきゅっとぼくの手を握った。その温かさにほっとする。
「写真展楽しみだな」
「・・・・うん。誘ってくれてありがとう、ギイ」
「どうしたしまして」
朝早かったからちょっと寝るかなーと言って、ギイはぼくの肩に頭を寄せた。
車内にはまだほとんど人がいないからいいようなものの、こんなとこ誰かに・・・一年のチェック組にでも見られたら大変だろうに。なんて思いながらも、ぼくは肩にかかるギイの重さが愛しくてならなかった。
少し前からプチ方向転換と揶揄されるくらいに、ギイはそれまでのよそよそしい振りを一変させて、去年と同じようにぼくのそばにいるようになった。
嬉しくないわけではなかったけれど、いったいどうしたんだろう、とは思った。

(やっぱりちゃんと話をしないとだめだよね)

こんな感じのまま、卒業してしまうなんてことだけは絶対に避けなくてはいけない。
ぼくは隣で眠るギイの体温を感じながら、小さくため息をついた。





当初の予定通り、目的地には昼前には到着した。まずはランチな、とギイが連れていってくれたのは、安くて美味しいと評判のラーメン屋だった。並ぶの必至と言われていたけど、30分ほどで店に入れた。
評判通り、とても美味しくて、ぼくとしてはそれだけでも十分満足できたけど、ギイはせっかくだから、と餃子までしっかりと注文してがっつり食べていた。
「何だかギイとラーメンって合わないよね」
「何でだよ。美味いぜ、ラーメン。託生も好きだろ?」
「そうだけど」
学食でギイがラーメンを食べている姿を見てるはずなのに、どうしてか、こういう外での店で食べているのを見ると、すっごい違和感を感じてしまう。ラーメン屋の店の雰囲気とギイの容貌がマッチしないというか。
やっぱりフランス料理とかそういう感じなんだよね、ギイは。
たぶん店にいた人全員がそう思ったに違いない。モデルだって顔負けの容姿をしたギイが、ずるずるとラーメン食べてる姿を、ちらちらと見ていたのだから。
店を出ると、心配していた通り、辺りは薄暗くなって今にも雨が降り出しそうな気配がしていた。
雨が振り出したら嫌だなぁと空を見上げる。
「写真展、ここから歩いて10分くらいだな。ちょうどいい腹ごなしになるな。雨降り出す前には着くだろ」
ぼくの心配を見透かしてギイが言う。
「そうだね。ギイが下調べしてくれたおかげで、時間のロスがなくて助かるよ」
「当たり前だろ。託生に任せてたら迷子になっちまう」
「ひどいな。別に方向音痴ってわけじゃないぜ」
「どうかなぁ」
ギイがくすくすと笑う。まぁ確かにぼくは行き当たりばったりなところがあるから、あまり強く否定はできないけどね。歩き出したギイがぽつりと言った。
「託生は大学行ったら一人暮らしだろ?ちゃんと生活していけるか、今から心配だよ」
「・・・・ギイ・・・」
何でもないことのように言うギイ。
ぼくはぎゅっと胸が痛くなって、俯いてしまう。意地悪で言っているのではないとわかっているのに、でも今のぼくには責められているようにしか思えない。

(ずるいよ、ギイ)

そんな言い方するなんて。

「ほら、託生、あそこだ」
ギイが指差す方向に、お目当ての写真展の会場があった。


写真展は盛況だった。
最近話題になっているだけあって、老若男女、いろんな世代の人が訪れていた。
それまで雑誌でしか見たことのなかった写真を生で見ると、やはり迫力がぜんぜん違った。ぼくは一点一点じっくりと眺めた。そこから溢れるパワーみたいなものを感じて、何だかとても不思議な気持ちになった。
風景写真。人物写真。植物写真。
どれもすごく綺麗な色合いで撮られている。光の加減?それとも・・・・。
写真のことはよく分からないけれど、でも間違いなくどの写真もぼくの心に何かを訴えかけてくる。
例えば音楽から受ける感動は、いつもぼくを魅了するのだけれど、こんな風に一枚の写真からも同じような感覚を得られるなんて思ってもみなかった。
「ずいぶんと熱心だったな」
一足先に見終わったギイは、会場の休憩場のベンチに座ってぼくを待っていてくれた。
「ごめんね、ずいぶん待たせちゃったよね」
「ぜんぜん。楽しめた?」
ギイはベンチから立ち上がるとぼくの肩を抱いた。
「うん、すごく良かった。すごいなぁ、写真展て初めてだったけど、絵とはまた違うよね」
「そうだな。人気出そうだよなぁ、このカメラマン。ほら、あそこに本人がいるぜ」
ギイの視線の先には今回の写真を撮ったカメラマンがいた。
へぇ、まだ若いんだ。才能あるんだなぁ。ぼくがじっーっと見ていると、ギイが、こら、とぼくの目元を隠す。
「お前、見すぎ」
「え?」
なに、また見当違いなヤキモチ?
ぼくは相変わらずのことに笑ってしまう。
「挨拶しとく?」
「えっ!」
一面識もない人に挨拶なんてとんでもない!ギイってば何言い出すんだよ。
「ファンですって言えばいいじゃん」
「そ、そんな、恥ずかしいよ」
「何で?行こうぜ」
「ギイ!!」
ギイはほらほらと言ってカメラマンの元へとぼくの手を引っ張ってく。
あっという間にぼくたちは見知らぬカメラマンの前に立っていた。
「写真展おめでとうございます」
ギイはまるで友達にでも言うように何の気負いもなく声をかけた。声をかけられたカメラマンもそんなことには慣れているのか、ごくごく普通にありがとうと返す。
「こっちの友達が、あなたの写真の大ファンなんです」
ギイはさらっと言ってぼくを前に押し出す。うわーっと一気に緊張してしまったぼくだけれど、勇気を振り絞って思いを伝える。
「え、え・・・・と。あの・・・・とても綺麗な写真でした。ぼく、写真を見て感動したの、初めてです」
「ありがとう。嬉しいな、そんな風に言ってもらえると」
ちょっと照れたように笑うカメラマンに、これからも頑張ってくださいと言って、ぼくたちはその場を離れた。
「はー、びっくりした。ギイってば大胆なんだから」
「どうして?自分が感動したこと、直接伝えるチャンスだろ?もし逆の立場ならさ、そんな風に声をかけてもらえるのって、やっぱり嬉しいと思うけどな」
「うん、確かにね。でもまさか直接話しができるなんて思ってなかったから、びっくりしたよ。ギイといると、思いもしないことが起こるから心臓に悪いよ」
「なに言ってんだ。普通だろ」
ぼくたちが会場をあとにしようとしたその時、ちょっと見たこともないほどの雨がいきなり降り出した。そりゃもう豪雨といっていいほどの雨。
「・・・・・すごい」
見事な降りっぷりに、ぼくは唖然としてしまう。道路をはねる水しぶきがこんなにあがるの見るの初めてかもしれない。隣のギイも呆然としている。
「こりゃ、ちょっと外には出られないな」
「そうだね」
その時、ぴかっと稲光が走ったかと思うと、耳を塞ぎたくなるような轟音を鳴り響いた。思わずぼくはギイの腕にしがみついた。ずん、っと地響きがしたような気がした。
「落ちたな」
「え?」
そのあとも何度か雷が光った。
そしてこの雨と雷のせいで、ぼくたちは思いもしない事態に追い込まれてしまうことになった。



ギイの予想通り、どこかで大きな雷が落ちたようだった。
そしてそのせいで、広範囲で停電が起きたのだ。こういう時、普段は便利だと思っている都市機能というのは一気にダウンしてしまう。大雨は降り続いていて、交通網もストップした。
何とか駅まで辿り着いたものの、そこは行き場を失った人たちで溢れ返っていた。半ばパニックといってもいいほどの喧騒に、少し怖くなる。しばらくすると構内アナウンスが流れ、復旧の目処は立っていないことが告げられた。とたんに周囲もざわめきを増す。
「どうしよう、ギイ」
「どうしようったって、どうしようもないだろ。しばらく電車は動きそうにないしな」
「え、帰れないってこと?」
「そうだな」
駅員たちが乗客たちに詰め寄られて困惑しきっている。自然の起こすことが原因なのだから怒っても仕方ないと思うんだけど、家に帰れないとなるとみんな一気に慌てだす。帰宅難民ってこういうことなんだ。って、ぼくたちもそれになっちゃうんだろうか。
「ま、しょうがないな。どこか泊まれるところを探そうぜ」
ギイはあっさりと言って歩き出す。ぼくは慌ててそのあとを追いかけた。
「ギイ、泊まるって?外泊するってこと?」
「それしかないだろ?」
「え、でも外泊許可とってないよっ!」
今日中に帰るつもりでいたから、外出許可しか取ってない。ギイは呆れたようにぼくを見た。
「託生、こんな状況で許可なんて悠長なこと言ってる場合じゃないだろ?だいたい電車が動いてないんだぞ?どうやって帰れっていうんだよ?」
「そうだけど・・・」
「でもま、無断外泊するわけにはいかないから、電話するか」
ギイはポケットから携帯電話を取り出すと、電話をかけた。けれど、どうやら携帯も通話が集中しているらしく何度かけても繋がらない。
「ま、もうちょっと時間がたてば繋がるだろ。とりあえず託生、泊まるとこ探そうぜ」
「はー。何だか大変なことになっちゃったなぁ」
「大丈夫だよ、そんなに心配するな」
ギイがぽんとぼくの背中を叩く。正直なところ、困ったことになったなぁとは思っていたけれど、ぼくは心配はしていなかった。だってギイが一緒だったから。これが一人だったらきっとパニックになってたと思うけれど、ギイがいるというだけで、何があっても大丈夫だと不思議と思えた。
タクシー乗り場はありえないほどの長蛇の列だったので、諦めて歩くことにした。泊まるとこなんて急に言われてもまったく分からないぼくを尻目に、ギイはいくつかホテルを回ってくれた。けれど、当然どこも満室だった。みんな考えることは同じだ。
「弱ったな」
さすがのギイもこの状況にため息を漏らした。
「この感じじゃインターネットカフェとかもいっぱいだろうしなぁ」
「ふふ、何か楽しくなってきたよ」
ぼくが言うと、ギイはおや、というように目を見開いた。
だってこんな風に行く当てもなくギイとあちこち歩き回って、雨でびしょぬれで、でもこんな風にサバイバルちっくに過ごすのは初めてだから、何となく楽しくなっていたのだ。
「ったく、さっきまで心配してたくせに」
しょうがないな、というようにぼくの額を突いた。
「心配なんてしてないよ。でもどうする?野宿するとか?」
「そんなことしたら、お前確実に風邪引くぞ。よし、もう一つだけ行ってみるか」
そういってギイはぼくの手を掴んで歩き出した。

(こんな風に、ずっと手を繋いでいられるのかな)

困ったことが起きたとき、こんな風にギイが手を握ってくれたら、ぼくはきっと何の不安も心配もしないでいられるんだろうな。だけど、ギイ。ギイはどう思ってるんだろう。


ギイがぼくを連れて辿り着いたホテルは、それまでのホテルよりもずっと大きなホテルで、見るからに高そうな感じがして、一瞬ぼくは怯んでしまった。
今まではビジネスホテルばかりだったから、何とも思わなかったけど、ここはどう見ても高級ホテルっぽいぞ。
ギイは慣れた足取りでフロントへ行くと、何やら交渉を始めた。
ぼくは少し離れた場所でその様子を眺めていた。
ホテルなんて滅多に来ることがないから、何となく居心地が悪くてどうしていいか分からなくなる。おまけにぼくたちは煌びやかなロビーには似つかわしくないほど、ずぶ濡れで汚かった。
「託生」
ギイが片手を上げてぼくを呼ぶ。
「どうしたの?」
「一部屋空いてた。そこでいいか?託生嫌がるかもしれないけど」
「何言ってんだよ。せっかく見つけたのに。狭くたってベッドが一つだって、文句は言わないよ」
「OK。じゃ手続きするから、ちょっと待っててくれ」
良かった。
何とか今夜の寝床は確保された。ほっとしたぼくだったけれど、すぐに「いや、待てよ」と思い直した。
どう考えても高そうなホテルじゃないか。いったい一泊いくらするんだろう。ぼくそんなにお金持ってないぞ。ギイ、いったいいくら持ってるんだろ。
「託生、行こう」
カードキィを片手に、ギイがぼくを促す。
「ねぇ、ギイ、ここ一泊いくらなの?お金ある?」
エレベーターホールへ向かいながら、ぼくは小声で確認した。
ギイはおかしそうに笑ってぼくの肩に腕を回す。
「心配ご無用。実はここ、うちのグループの系列ホテルなんだ。社員価格に割り引いてもらったし、ほら、魔法のカードだって持ってる」
クレジットカード。そっか。勤労学生のギイだもの、カードの一枚や二枚持っていたっておかしくはない。
いつもせこいことばかり言うから忘れてたよ。
「とりあえず良かったよ。1室しか空いてなくてさ。ここがだめなら、あとはラブホテルしかないかと思ってたからな」
「はぁ?ラブホテルなんて冗談じゃないよ」
「いや、オレとしてはそっちでも良かったんだけどさ」
ぼくはふざけるギイの背中をぱちんと叩いた。まったく、どんな時でも冗談しか言わないんだから。
エレベーターはどんどん上へと上がっていく。
いったい何階なんだろう、と思っているうちに、階数を示すランプが最上階で止まった。
最上階????
ギイのあとをついて廊下に出ると、落ち着いた色調のカーペットがふかふかで、ぼくは嫌な予感がして足を止めてしまった。
「託生、こっちだぞ」
「ギイ!」
「うん?」
「ここ・・・・最上階だよね?」
「ああ」
「・・・ホテルの最上階ってさ・・・確か、めちゃくちゃ値段の高い・・・」
スウィートルームという言葉を、さすがのぼくも知っていた。テレビなんかでたまにホテルの紹介をやっていて、一泊ウン十万とかする豪華な部屋を見ることがある。あんな部屋、誰が泊まるんだろうっていつも思っていたんだけど、まさか、まさか・・・・・。
ギイがカードキィをかざすと扉が開いた。
おそるおそる中に入ると、やっぱり予想通り、中は二人で泊まるには十分すぎるほど広くて、今まで見たこともないような豪華な調度品が備え付けられた部屋だった。
「なに、ここ・・・・?」
そりゃ空いてるはずだよ。だって、こんな豪華な部屋、いくら緊急事態だって泊まれるはずがない。
「ギイ!な、何考えてるんだよ、こんな部屋!!!」
「だから1室しか空いてないけど、いいか、って聞いただろ?お前、いいって言ったじゃないか」
「そうだけど、だってまさかこんな部屋だとは思わなかったから・・・」
「まぁ確かに贅沢だとは思うけど、今回は緊急事態だし、社員価格だからさ。心配しなくても、オレは勤労学生だから、ちゃんと支払いはできるよ」
余裕の笑顔でギイが言う。
だからって、いったい一泊いくらなんだろう。
ああ、こういう時にギイとの金銭感覚の違いというか、育ちの違いを感じてしまう。
もう何を言っても無駄だろうと思ったので、ぼくは諦めて腹をくくった。よし、一生に一度泊まれるかどうかのスウィートルームだ。いろいろ見て、いつか利久に自慢してやろう。
「託生、濡れた服脱いで先にシャワー浴びろよ。服、乾かしてもらうからさ」
「ああ、うん」
ギイも濡れた服を脱いで椅子の背にかける。
「ルームサービス取っておくな。ああ、腹減った」
ぼくは先にバスルームを使わせてもらうことにしたが、そのバスルームもびっくりするくらい広くて綺麗だった。きっとあれだな、新婚さんとかが泊まる部屋なんだろうなぁ。

(ギイと同じ部屋で一緒に寝るの、久しぶりだな)

3年になって部屋が分かれて、そうそう一緒に夜を過ごすこともできなくて。
おまけにここ数日は、ギイとはぎくしゃくしてたし。
突然の豪雨でばたばたしてて忘れてたけど、ギイとちゃんと話しなくちゃいけなかったんだ。
今夜なら、2人きりで、ギイだってぼくから逃げようがない。
湯船に浸かって、ぼくは目を閉じた。

(ちゃんと話せるかな)

ギイはちゃんと話を聞いてくれるかな。



着ていた服の替えなんて当然なくて、仕方なくぼくはバスルームにあったバスローブを身につけた。
こんなの着る機会が訪れようとは!
ぼくが着るとどうにも着られている感が漂って格好良くは見えない。
だけど、他に着るものがないから仕方ない。
スウィートルームにしろバスローブにしろ、絶対に経験することはないだろうと思っていたことを一度に経験してしまうとは。
ぼくは諦め半分で、バスルームを出た。







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