友を想う 1



ビルから一歩外へ出ると、むっとした空気が身体を包み込んだ。
雨でも降るのかな、と空を見上げると、淡いオレンジの雲が流れていた。
綺麗なその色をしばらくぼんやりと眺めていたが、ふと我に戻り、約束の場所へと急いだ。
今日はギイと葉山と三人で会うことになっていた。
なるべく分かりやすい場所にして欲しいという葉山の頼み通り、僕は駅前の繁華街の入り口にある居酒屋を選んだ。
そこならどんな方向音痴でも迷うことはないはずだ。
ちょうど仕事帰りのサラリーマンが同じように駅の方向へと歩いていく。この時期になるとスーツというのは本当に暑く感じられてくる。自分が着ていることよりも、見ている方が暑苦しく感じるから不思議なものだ。
一応仕事も終わったことだし、もういいだろうと思って、歩きながら上着を脱ぐ。
「まったく、スーツを着ることがない葉山が羨ましい限りだ」
卒業してからもギイと葉山とはよく会うのだが、葉山がスーツ姿で現れたことなどほとんどない。
ヴァイオリンを弾くときはちゃんとした格好をしているけれど、普段は学生時代と何ら変わらないラフな格好をしているので、実年齢よりもずっと幼く見える。だから、どうも高校時代のままの気分で、いらぬ世話を焼いてしまうのだ。
お互いもういい大人だというのにな、と思わず苦笑してしまう。
10分ほど歩くと店に着いた。
予約をしている旨を告げると、アルバイトの女の子が奥の個室へと通してくれた。
約束の時間より少し早かったので、案の定、まだ誰もきていない。
僕はさっさと靴を脱いで座敷に上がると、胡坐をかいた。
「さて、先にビールでも飲むとするか」
さっきまで仕事をしていて、そのあと暑い中歩いてきたのだ。
二人が来る前に一人で飲んでいても文句は言われないだろう。
注文をして、ネクタイを緩めて一息ついた時、ひょっこりと葉山が現れた。
僕が先にいることに、少しばかり驚いた表情を見せる。
「赤池君、早いね。仕事大丈夫だった?」
「遅いぞ、葉山。何やってんだ」
「遅いって・・、まだ約束の時間の前だし・・」
理不尽だ、と言わんばかりに葉山が唇を尖らせる。そういう仕草も昔っから変わらない。そして、そんな葉山をからかうのも昔っからのお約束だ。
「迷子にはならなかったようだな」
「・・・ちょっと迷ったけど」
葉山は口ごもりながら言った。やっぱりな、と僕は苦笑する。
祠堂を卒業してもう10年近くたとうとしているのに、葉山はぜんぜん変わらない。
頼りないというか、ぼんやりしてるというか。見かけも中身も。
どうせギイがさんざか甘やかしてるせいだろう。いい加減にしておけよ、と祠堂にいた頃から何度苦言したか分からない。けどまぁ、葉山を甘やかすことはギイの生きがいみたいなもんだから、きっと一生治らないんだろうな。
今日だって、会うのは三ヶ月ぶりだというのに、さっきのあの第一声は何だ?
まるで昨日も会っていたかのような台詞じゃないか。
相変わらず浮世離れしているというか何というか。まぁそこが葉山のいいところだけどな。
「あっ!赤池君、先にビール頼んだの?ずるいよ」
「何がだ。お前らが遅いから先に頼んだんだろ。ギイはどうした?」
「ちょっと遅れるって連絡があったよ。先に始めててくれって」
僕のビールを運んできた店員に葉山もビールを注文し、とりあえずそれが運ばれてくるのを待って、二人で乾杯をした。
ギイが来るまで食事を待つ、なんてことをするはずもなく、僕たちはメニューを見て適当に注文をした。
「久しぶりだな、元気だったか?」
「うん。赤池くんも元気そうだね」
葉山がアメリカへ渡って、もうずいぶんとなる。日本へ帰ってくるたびに、僕たちはこんな風に会うようになっていた。もちろん互いの都合があえば、だが。
ギイは出張だ何だとけっこう日本へ来ているので、割と会う機会がある。まぁそれも一方的にギイに呼び出されるというのが正しいのだが、それに比べると葉山と会う機会は少なかった。
葉山の仕事の拠点が海外ということもあるせいだろうな。
時々、ギイと葉山の仕事の都合があえば、こうして一緒に日本にやってきて、僕に連絡をしてくる。三ヶ月から半年に1回くらいのペースだろうか。その時は3人でこうして食事をする。
3人ともがそれを楽しみにしている。僕も楽しみにしているのだ。
「今回はどれくらい日本にいるんだ?」
「えーっと、日曜には戻るよ。ギイの仕事が土曜日までなんだ」
「あと3日か」
運ばれてきた料理をつつきながら、僕たちは互いの近況報告を一通り行った。
葉山はよくある居酒屋メニューにも関わらず、口にするものすべてに美味しいと言って、嬉しそうにぱくぱくと食べた。
「お前、いつももっといいもの食べてるだろ」
「うーん、何かアメリカの食事って、濃いっていうかさ。量も半端なく多いしさ。やっぱり日本の普通のご飯が一番美味しいよ」
「そうか?」
普通の、というかどちらかというと安めのメニューだぞ?
とはいうものの、ギイもこの全国チェーンの居酒屋がお気に入りで、日本で集まる時はいつもここを指定する。世界に名だたるFグループの御曹司ともあろうものが、何だってこんな居酒屋での食事を楽しみにするかねぇ。
毎日いいもん食べ過ぎて、逆にこういうジャンクフードが恋しくなるのか?
「んー。これも美味しい。幸せだなー」
葉山はまるで子供みたいにうっとりと、口にしたほっけを咀嚼する。
「・・・・」
「なに?」
僕の視線に気づいて葉山が、きょとんと僕を見る。
そういう表情も、まったく変わってない。こうしていると、まるで祠堂にいる時に戻ったような気になってくる。楽しかったあの頃。
「葉山を見てると、平和だなぁって気になるよ。お前、ほんとに悩みとかなさそうだもんな」
「失礼だな。ぼくにだって悩みくらいあるよ」
「ほぉ、どんな悩みだ、言ってみろ」
「え?えーと・・・」
葉山は宙を眺めてあれこれと考えているようだが、考えるくらいではたいした悩みはないということだ。やがてそうそうと思いついたようにうなづいた。
「やっとちょっと英語が分かるようになったなぁと思ってたのに、ギイが違う言葉も勉強しろって言い出してさ、今から憂鬱だよ」
「違う言葉って?」
「ドイツ語とかフランス語とか。ほら、最近ヨーロッパへ行くこともあるから」
「勉強しろよ。英語以外の言葉だって話せた方が便利だろ?」
「簡単に言うけどね、英語だってまだ完璧じゃないんだよ?無理だよ」
「まぁ葉山は昔っから言葉に不自由してたからなぁ、英語が話せるようになっただけでも、僕にしてみれば驚きだね」
やっぱり人間切羽詰ると何でもできるものだ。祠堂にいた頃、葉山の英語の成績は見れたもんじゃなかった。
「あと、休みの度にギイがあちこち遊びに行こうってうるさいんだよ。あんなに忙しいのにどうしてそんなに元気なのかな。もうさ、ちょっとは落ち着いてくれないかなぁ」
「・・・・・」
「なに?」
「葉山は死にたいと思うほど悩んだこととかないんだろうな」
葉山の言う悩み事はどれもこれも悩みというには迫力がない。
まぁあのギイが、葉山に悩みを抱えさせたままにはしないだろうしな。
それがいいのか悪いのかは微妙なところだが。
「だから、赤池くんはぼくのこと何だと思ってるんだよ。ぼくだって真剣に悩んだことくらいあるよ」
冗談半分で言った言葉に、葉山は憮然としたように一応の抗議をしてみせた。
「祠堂の1年の頃とかか?」
あの頃、葉山は周りからは完全に孤立していた。
ギイが命名した人間接触嫌悪症。
少しでも触れようものなら、誰に対しても毛を逆立てて威嚇してた。
孤立無援のあの状態の中で、悩んでいないなんてことはないだろう。
ところが葉山は少し首をかしげて、
「あれは、自分で招いてたことだし・・・そのことで悩んだりはしてなかったな」
と言った。
それは僕にとってはかなり驚きの一言だった。
ふてぶてしいとは思っていたが、ここまでのヤツだったとは。
祠堂は良家の子息が集まるお坊ちゃん学校だったが、だからこそ異質な人間に対しての拒否反応が激しいヤツらもいた。自分たちと同じエリアにいない葉山に対して、眉を顰めるような嫌がらせをしていた連中もいたのだ。
その都度ギイが裏で動いていた。葉山には知られないように。いや、誰にも知られないように、葉山のために心を砕いていた。たぶんそれを知ってるのは僕だけだろう。
それなのに。
「あの状況以上に、死にたいと思うほどに悩むことなんてあるのか?あれはたいがいひどかったぞ」
「確かにいろいろ嫌がらせされたこともあったけど、でも死にたいなんて思ったことはないよ。でも・・・ああ、一度だけあるかな」
「あるのか!」
「うーん、死にたいっていうのともちょっと違うんだけど・・・」
「もったいぶらずに話せよ。葉山がどんなことなら真剣に悩むのか興味がある」
これは嘘ではない。
いっそ鈍感といってもいいほど図太さを持つ葉山が、どんなことでならそこまで凹むのか。
葉山は少し考えていたが、やがてそうだな、と笑った。
「赤池くんにもちょっと関係があることだからな」
「おい、まさか僕のせいだなんて言うんじゃないだろうな」
「違う違う。そうじゃないよ」
葉山は慌てて否定すると、二杯目のビールを一口飲んだ。
そして、おもむろに話を始めた。









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