ビルから一歩外へ出ると、むっとした空気が身体を包み込んだ。 雨でも降るのかな、と空を見上げると、淡いオレンジの雲が流れていた。 綺麗なその色をしばらくぼんやりと眺めていたが、ふと我に戻り、約束の場所へと急いだ。 今日はギイと葉山と三人で会うことになっていた。 なるべく分かりやすい場所にして欲しいという葉山の頼み通り、僕は駅前の繁華街の入り口にある居酒屋を選んだ。 そこならどんな方向音痴でも迷うことはないはずだ。 ちょうど仕事帰りのサラリーマンが同じように駅の方向へと歩いていく。この時期になるとスーツというのは本当に暑く感じられてくる。自分が着ていることよりも、見ている方が暑苦しく感じるから不思議なものだ。 一応仕事も終わったことだし、もういいだろうと思って、歩きながら上着を脱ぐ。 「まったく、スーツを着ることがない葉山が羨ましい限りだ」 卒業してからもギイと葉山とはよく会うのだが、葉山がスーツ姿で現れたことなどほとんどない。 ヴァイオリンを弾くときはちゃんとした格好をしているけれど、普段は学生時代と何ら変わらないラフな格好をしているので、実年齢よりもずっと幼く見える。だから、どうも高校時代のままの気分で、いらぬ世話を焼いてしまうのだ。 お互いもういい大人だというのにな、と思わず苦笑してしまう。 10分ほど歩くと店に着いた。 予約をしている旨を告げると、アルバイトの女の子が奥の個室へと通してくれた。 約束の時間より少し早かったので、案の定、まだ誰もきていない。 僕はさっさと靴を脱いで座敷に上がると、胡坐をかいた。 「さて、先にビールでも飲むとするか」 さっきまで仕事をしていて、そのあと暑い中歩いてきたのだ。 二人が来る前に一人で飲んでいても文句は言われないだろう。 注文をして、ネクタイを緩めて一息ついた時、ひょっこりと葉山が現れた。 僕が先にいることに、少しばかり驚いた表情を見せる。 「赤池君、早いね。仕事大丈夫だった?」 「遅いぞ、葉山。何やってんだ」 「遅いって・・、まだ約束の時間の前だし・・」 理不尽だ、と言わんばかりに葉山が唇を尖らせる。そういう仕草も昔っから変わらない。そして、そんな葉山をからかうのも昔っからのお約束だ。 「迷子にはならなかったようだな」 「・・・ちょっと迷ったけど」 葉山は口ごもりながら言った。やっぱりな、と僕は苦笑する。 祠堂を卒業してもう10年近くたとうとしているのに、葉山はぜんぜん変わらない。 頼りないというか、ぼんやりしてるというか。見かけも中身も。 どうせギイがさんざか甘やかしてるせいだろう。いい加減にしておけよ、と祠堂にいた頃から何度苦言したか分からない。けどまぁ、葉山を甘やかすことはギイの生きがいみたいなもんだから、きっと一生治らないんだろうな。 今日だって、会うのは三ヶ月ぶりだというのに、さっきのあの第一声は何だ? まるで昨日も会っていたかのような台詞じゃないか。 相変わらず浮世離れしているというか何というか。まぁそこが葉山のいいところだけどな。 「あっ!赤池君、先にビール頼んだの?ずるいよ」 「何がだ。お前らが遅いから先に頼んだんだろ。ギイはどうした?」 「ちょっと遅れるって連絡があったよ。先に始めててくれって」 僕のビールを運んできた店員に葉山もビールを注文し、とりあえずそれが運ばれてくるのを待って、二人で乾杯をした。 ギイが来るまで食事を待つ、なんてことをするはずもなく、僕たちはメニューを見て適当に注文をした。 「久しぶりだな、元気だったか?」 「うん。赤池くんも元気そうだね」 葉山がアメリカへ渡って、もうずいぶんとなる。日本へ帰ってくるたびに、僕たちはこんな風に会うようになっていた。もちろん互いの都合があえば、だが。 ギイは出張だ何だとけっこう日本へ来ているので、割と会う機会がある。まぁそれも一方的にギイに呼び出されるというのが正しいのだが、それに比べると葉山と会う機会は少なかった。 葉山の仕事の拠点が海外ということもあるせいだろうな。 時々、ギイと葉山の仕事の都合があえば、こうして一緒に日本にやってきて、僕に連絡をしてくる。三ヶ月から半年に1回くらいのペースだろうか。その時は3人でこうして食事をする。 3人ともがそれを楽しみにしている。僕も楽しみにしているのだ。 「今回はどれくらい日本にいるんだ?」 「えーっと、日曜には戻るよ。ギイの仕事が土曜日までなんだ」 「あと3日か」 運ばれてきた料理をつつきながら、僕たちは互いの近況報告を一通り行った。 葉山はよくある居酒屋メニューにも関わらず、口にするものすべてに美味しいと言って、嬉しそうにぱくぱくと食べた。 「お前、いつももっといいもの食べてるだろ」 「うーん、何かアメリカの食事って、濃いっていうかさ。量も半端なく多いしさ。やっぱり日本の普通のご飯が一番美味しいよ」 「そうか?」 普通の、というかどちらかというと安めのメニューだぞ? とはいうものの、ギイもこの全国チェーンの居酒屋がお気に入りで、日本で集まる時はいつもここを指定する。世界に名だたるFグループの御曹司ともあろうものが、何だってこんな居酒屋での食事を楽しみにするかねぇ。 毎日いいもん食べ過ぎて、逆にこういうジャンクフードが恋しくなるのか? 「んー。これも美味しい。幸せだなー」 葉山はまるで子供みたいにうっとりと、口にしたほっけを咀嚼する。 「・・・・」 「なに?」 僕の視線に気づいて葉山が、きょとんと僕を見る。 そういう表情も、まったく変わってない。こうしていると、まるで祠堂にいる時に戻ったような気になってくる。楽しかったあの頃。 「葉山を見てると、平和だなぁって気になるよ。お前、ほんとに悩みとかなさそうだもんな」 「失礼だな。ぼくにだって悩みくらいあるよ」 「ほぉ、どんな悩みだ、言ってみろ」 「え?えーと・・・」 葉山は宙を眺めてあれこれと考えているようだが、考えるくらいではたいした悩みはないということだ。やがてそうそうと思いついたようにうなづいた。 「やっとちょっと英語が分かるようになったなぁと思ってたのに、ギイが違う言葉も勉強しろって言い出してさ、今から憂鬱だよ」 「違う言葉って?」 「ドイツ語とかフランス語とか。ほら、最近ヨーロッパへ行くこともあるから」 「勉強しろよ。英語以外の言葉だって話せた方が便利だろ?」 「簡単に言うけどね、英語だってまだ完璧じゃないんだよ?無理だよ」 「まぁ葉山は昔っから言葉に不自由してたからなぁ、英語が話せるようになっただけでも、僕にしてみれば驚きだね」 やっぱり人間切羽詰ると何でもできるものだ。祠堂にいた頃、葉山の英語の成績は見れたもんじゃなかった。 「あと、休みの度にギイがあちこち遊びに行こうってうるさいんだよ。あんなに忙しいのにどうしてそんなに元気なのかな。もうさ、ちょっとは落ち着いてくれないかなぁ」 「・・・・・」 「なに?」 「葉山は死にたいと思うほど悩んだこととかないんだろうな」 葉山の言う悩み事はどれもこれも悩みというには迫力がない。 まぁあのギイが、葉山に悩みを抱えさせたままにはしないだろうしな。 それがいいのか悪いのかは微妙なところだが。 「だから、赤池くんはぼくのこと何だと思ってるんだよ。ぼくだって真剣に悩んだことくらいあるよ」 冗談半分で言った言葉に、葉山は憮然としたように一応の抗議をしてみせた。 「祠堂の1年の頃とかか?」 あの頃、葉山は周りからは完全に孤立していた。 ギイが命名した人間接触嫌悪症。 少しでも触れようものなら、誰に対しても毛を逆立てて威嚇してた。 孤立無援のあの状態の中で、悩んでいないなんてことはないだろう。 ところが葉山は少し首をかしげて、 「あれは、自分で招いてたことだし・・・そのことで悩んだりはしてなかったな」 と言った。 それは僕にとってはかなり驚きの一言だった。 ふてぶてしいとは思っていたが、ここまでのヤツだったとは。 祠堂は良家の子息が集まるお坊ちゃん学校だったが、だからこそ異質な人間に対しての拒否反応が激しいヤツらもいた。自分たちと同じエリアにいない葉山に対して、眉を顰めるような嫌がらせをしていた連中もいたのだ。 その都度ギイが裏で動いていた。葉山には知られないように。いや、誰にも知られないように、葉山のために心を砕いていた。たぶんそれを知ってるのは僕だけだろう。 それなのに。 「あの状況以上に、死にたいと思うほどに悩むことなんてあるのか?あれはたいがいひどかったぞ」 「確かにいろいろ嫌がらせされたこともあったけど、でも死にたいなんて思ったことはないよ。でも・・・ああ、一度だけあるかな」 「あるのか!」 「うーん、死にたいっていうのともちょっと違うんだけど・・・」 「もったいぶらずに話せよ。葉山がどんなことなら真剣に悩むのか興味がある」 これは嘘ではない。 いっそ鈍感といってもいいほど図太さを持つ葉山が、どんなことでならそこまで凹むのか。 葉山は少し考えていたが、やがてそうだな、と笑った。 「赤池くんにもちょっと関係があることだからな」 「おい、まさか僕のせいだなんて言うんじゃないだろうな」 「違う違う。そうじゃないよ」 葉山は慌てて否定すると、二杯目のビールを一口飲んだ。 そして、おもむろに話を始めた。 |