このお話は、再会捏造話、
「思い出になる前に」「春がくる前に」の続きのお話になります。 できればそちらからどうぞです。 ***** 春になり、ぼくはギイと一緒に暮らすようになった。 祠堂を卒業する前に離れ離れになってしまったギイと、8年の時を経て再会して、紆余曲折はあったものの、互いの気持ちが変わっていないことを確認した。 しばらくは遠距離恋愛を続けていたけれど、ギイが日本で仕事をすることが決まって、じゃあ一緒に暮らそうということになった。 家についてはやっぱり一悶着あったものの、互いの歩み寄りにより少しづつ前へ進めることができた。 忙しい中、ギイが見つけてきてくれたのは、意外なことにセキュリティ万全の高級マンションではなく、古い小さな一戸建てだった。 平屋建てで、築年数は経っているものの、造りはしっかりしていて、広い庭がついていた。 温泉地の旅館っぽいとでも言うのだろうか。 何というかすごく趣きのあって、ぼくは一目で気に入ってしまった。 問題は賃貸ではなく売家ということで、敷地が広い分お値段もそれなりにするということだった。 もちろんギイなら何の問題もなく購入は可能だ。 以前のぼくならギイに頼るのは気が引けたし、贅沢だからと尻込みしてしまうところだけれど、もうそのあたりの気持ちの整理はついていて、二人で暮らすために必要な家なのだから、頼れるところは頼ってもいいんじゃないかと思うようになっていた。 おかしなこだわりでギイと離れたままになる方が不本意だということに、今さらながらに気づいたのだ。 「いいね、この家」 「だろ?」 一通り家の中を確認して、最後に一番広い居間に入った。床まである大きな窓からの庭の眺めはまるで一枚の絵を見ているような感じがした。 (こういうの、借景っていうんだっけ?) 以前テレビでそんなことを言っていたのを思い出した。 そっと窓を開けると眩しい光が差し込んだ。 長い間手入れがされていなかったせいで庭は雑草だらけだけど、手を入れればきっといい庭になるだろう。 庭の片隅にひっそりと立派な桜の木があるのに気づいて、ぼくは目を見張った。 「桜の木・・・?」 「うん?ああ、そうなんだ。春になるとちゃんと花が咲くらしい」 「すごい」 家に桜の木があるなんて。おまけにこんなに広い庭があるなら、お花見だってできるだろう。 何だかそれだけでもわくわくしてしまう。 「章三に頼もうかと思ってさ」 「え。何を?」 振り返ると、ギイは腕を組んだままで部屋をぐるりと見渡していた。 「家のリフォーム。ああ、今はリノベーションって言うんだっけ?さすがにこのままじゃ古くていろいろと不便だし。部屋数は少なくして、一部屋を広くしよう。防音室も必要だろ?」 「うん」 ぼくがうなづくと、ギイは何故だか嬉しそうに目を細めた。 「託生は?何かリクエストある?」 「えーっと、すぐには思いつかないけど・・・赤池くんが考えてくれるなら安心だな」 高校時代から建築家を目指していた章三は、着々とその夢を叶えている。 まだまだ一人前には程遠いと章三は言うけれど、すごく楽しそうに仕事をしていて、その姿を見るとぼくも頑張らないといけないなぁと思うのだ。 「ここでいい?」 ギイがどこか探るようにぼくを見る。 今までもいろんな物件を見て、だけどギイと二人で暮らすイメージが上手く湧かなかった。 高級で綺麗な物件は何だか地に足がつかないような気がして、探してきてくれるギイには申し訳なかったけれど、決心するには決定打に欠けていた。 だけど、この家はどこか懐かしい感じがしたのと、ギイと二人で過ごしている場面を無理なく思い浮かべることができたのだ。 「うん、ここにしよう」 ぼくが言うと、ギイはほっとしたように笑みを浮かべた。 何しろあれこれと物件を探し続けてくれたのはギイなので、ここでぼくが首を横に振ったらがっくりきたことだろう。 「でもギイは大丈夫?もっと便利なところの方がいいんじゃない?」 「いや、オレもここで託生と暮らしてみたい。最初に見たときに、何ていうか、すごくしっくりきたんだよな。都心のマンションの方がいろいろ便利だろうなとは思うけど、こういうちょっと落ち着いた感じも悪くない」 ギイもぼくと同じように感じてるのだと思うと嬉しくなった。 ぼくたちは新しい生活となる場所をここに決め、家のリフォームが終わるまでに自分たちの身の回りのことを片付けて、そして予定通り春には引っ越しを済ませた。 家のリフォームを頼んだ章三はぼくたちの希望をあれこれと聞いてくれて、勤めている事務所の所長さんと何度も現場に足を運び、きちんとその希望を形にしてくれた。 いったいどれくらいお金がかかったのかはあえて聞かないことにしたけれど、けっこうな額になったことだろう。 ギイは、 「オレの好きにしたいことだから託生は気にしなくていい」 と言って、何だか細かい注文をつけていた。 けっこうな無理難題を押し付けられたのか、章三は時々ぶつぶつと文句を言っていたけれど、それはそれで楽しいようで、二人して悪さをしている子供みたいな顔をして家のリフォームに取り掛かっていた。 出来上がった家は想像していた以上に素敵なものに仕上がった。 古い家の持つ温かさを残しつつ、不便のないように配慮された空間は文句のつけようもなく、これがプロの仕事というものかと感動してしまった。 「赤池くん、そのうちテレビ番組で匠として紹介されるんじゃない?」 ぼくが言うと、「くだらないことを言うな」と怒られてしまった。 だけど、本当にリフォーム前後では別の家みたいだったのだ。 「我ながらいい家になったよなー」 章三も同じように思っているようで、引っ越し後、早々に遊びにきてくれて、得意げな表情を見せては、まだ生活感の欠片もない部屋に何度もうなづいていた。 インテリアデザイナーの資格もちゃんと持っている章三と、センス抜群のギイとで選んだ家具は、確かにどれもすごくカッコ良かった。 「和風っぽいけど、ちょっとアジアンテイストも入ってるし、葉山、あんまり物を増やしてごちゃっとさせるなよ」 「はいはい」 「あとはガーデニングだな」 家のリフォームに思いかけず時間がかかってしまい、実はまだ庭が手つかずなのだ。 けれどギイが日本で仕事を始めていることもあって、とりあえず先に引っ越してしまおうということになった。 章三自身はガーデニングは手掛けていないけれど、今勤めている個人事務所ではそういうことも請け負っているということで、庭についても引き続き工事をお願いしているのだ。 「赤池くん、庭はすっきりとさせてほしいけど、お願いだからお花いっぱいにはしないでよね」 「どうして?」 「だって、世話できないよ」 「じゃサボテンとかはどうだ?」 三人分のビールを持ってきたギイが提案するが、章三もぼくもサボテンだらけの庭なんてちょっとどうなんだと首を傾げた。 砂漠じゃあるまいし、さすがにそんな庭は遠慮したい。 「まぁサボテンはないにしても、心配するな。手のかからない簡単な植物を植えるように頼んであるから」 「ありがとう」 花いっぱいの庭というのは見てる分には綺麗でいいけれど、実際に世話をするとなるとは話は別だ。 それは祠堂にいた頃、大橋先生の手伝いで温室の世話をしていたから身に染みている。 決して苦痛ではなかったけれど、今はそこまで時間は取れないだろうと思うのだ。 なので、庭はできるだけ手がかからないものにしてほしい、というのがぼくの切なる願いなのだ。 家に関してぼくが出した希望はこれだけだ。 「託生がガーデニング始めるっていうなら、オレ、また珍しい植物もらってこようかと思ったのに」 ギイがいたずらっ子のような目をしてぼくを見る。 そういえばピンクのカリフラワーを育てさせられたことあったな。 あの時はちょっとした事件もあったりで大変だったけど、だけど楽しかったな。 ギイは昔からサプライズ好きで、祠堂にいる頃に何度も驚かされた。 どれもぼくを喜ばせて楽しませてくれるものばかりだった。 懐かしいな。だけど・・・ 「ギイに任せておいたら、庭が怪しい植物で埋め尽くされてジャングルになりそうだな」 ぼくは庭へと開け放たれた窓を背に、縁側だった場所に腰を下ろした。テラスというには少し小さいけれど、部屋からそのまま庭へと出られるような造りになっている。 「気持ちいい」 「風通しもいいし。夏でもけっこう涼しいんじゃないかな」 周りの住宅街から少し奥まったところにある家なので、周囲からの音はほとんど聞こえない。 静かということもギイ的にはポイントが高かったらしい。 ぼくもバイオリンの練習をするのに、防音室があるとはいえ、周囲に迷惑をかけずに済むというのはポイントが高かった。 ほんとに、ギイは最後にはちゃんと一番望むものを見つけてくるんだからびっくりだ。 正直、もう二人が気に入るような家はないんじゃないかと思っていたのだ。 だけど今では、この家以上に今のぼくたちにぴったりのところはないんじゃないかと思えてしまう。 三人で並んで座り、まだ荒れたままの庭を眺めながら他愛もない話を続けた。 「ギイ、この前矢倉から連絡あっただろ?」 「あった。庭があるならバーベキューしようって」 「僕のところにもあったぞ。あいつアウトドア大好きだよな。まぁ新築祝いも兼ねてバーベキュー大会でもしようぜ」 「大会かよ」 ギイと章三はさっそく日程調整しようかなんて話している。 その様子は昔、祠堂でよく目にした光景そのままで、ぼくは一瞬時間が巻き戻ったんじゃないかなんて錯覚を覚えた。 またこんな風に三人で会えるようになってよかったと思う。 ギイが突然消えてしまった時は、もう二度とこんな風に会うことはないんじゃないかと思った。 ギイと再会した当初は、さすがの章三はいろいろと言いたいことがあったようで、少しばかり微妙な空気になったりもしたけれど、そこは相棒と呼ばれていた二人なので、ギイがきちんと説明を謝罪をして、また以前のような付き合いが始まったのだ。 「そういえば葉山、車どうするんだ?」 章三に聞かれて、ああ、と思いだした。 この家には1台分の駐車場しかない。少し前に車を購入するかどうか迷っていたのだけれど、ギイも車を持っているので、もう買わなくてもいいかなぁと思っていたのだ。 「車?」 章三の言葉に反応したギイがぼくを見た。 その驚いた表情にぼくの方が驚いてしまう。 「託生、まさか免許持ってるのか?」 どこまでも信じれないといったギイの声色に、ぼくはがっくりと肩を落とした。 「あのさ、ギイ。まさかって何だよ!ぼくだって免許くらい持ってるよ」 「いったいいつ取ったんだよ。ぜんぜん知らなかった」 まぁ確かに話してはいなかったかもしれない。 免許を取ったのはギイと離れていた8年の間のことだ。 必要に迫られたわけじゃないので取るつもりなんて全然なかった。 けれど母親から「このご時世、免許くらい取っておきなさい」と勧められて、じゃあ取ろうかなということになった。 大学の夏休みを利用して取得したから、もうかれこれ5年以上の免許歴だ。 とはいうものの、車も持ってないし、車に乗らないといけない状況にもならなかった。 だから実際ほとんど運転はしていないのだけれど、たまに実家の車を運転していたからペーパーというわけないのだ。 ていうか、どうしてそんなに驚かれなくちゃいけないんだ? 何だか納得がいかないぞ。 「まぁギイが驚くのも仕方ないさ。あの葉山が免許取るって言った時は、僕だって驚いた」 「失礼だな、赤池くん。言っておきますけど、ぼくは学科も実技も一発で通ったんだからな」 「託生がねぇ」 しみじみとギイが言い、それでもまた胡散臭そうな視線を向けてくる。 何でしょうか、その視線は! ぼくがギイを睨むと、ギイは悪い悪いと苦笑した。 「託生、車買うつもりだったのか?」 「うーん、あると便利かなって思い始めてたんだけど・・・だけど一緒に暮らすのに2台もいらないし。必要な時に、ギイの車をちょっと借してもらえるとありがたいんだけど」 「それは全然いいんだけどさ・・・」 「事故ったりしないから大丈夫だよ」 「いや、そうじゃなくて」 ギイは章三へと向き合うと、 「章三、お前、託生の運転でドライブとかしてないだろうな」 「はぁ?するわけないだろ、僕だって命は惜しい」 「ちょっと、赤池くん!」 むっとするぼくとは違い、ギイはよしよしと満足そうだ。 「オレより先に章三が託生とドライブしてたら、やっぱりちょっと納得できないしな」 「・・・・」 えーと、それはつまり・・・ ぼくがうろうろと視線を彷徨わせていると、隣の章三がやれやれというように肩を落とした。 「ギイ、心配しなくても誰も葉山と一緒にドライブなんてしてないさ。何が悲しくて男二人でドライブなんてしなくちゃならない。そんなに葉山とドライブしたけりゃどうぞご自由に。誰も邪魔したりしない」 「託生、本当に今まで誰ともドライブには行ってない?」 「行ってないよ」 まだちょっと信用していない様子のギイだったけれど、ふといいことを思いついたというように目を輝かせた。 「よし、じゃあ託生、オレとドライブに行こうぜ」 「ええっ」 いきなりのギイの発言に、ぼくは思わず声をあげてしまった。するとギイは不満そうに唇を尖らせて、ずいっとぼくへと身を寄せてきた。 「何だよ。オレとドライブって嫌なのか?」 「そうじゃないけど」 「よくよく考えてみると、再会してから託生とデートらしいデートしてないもんな」 デートらしいデートだなんて、いったいギイは何をしたいというのだろうか。 忙しいのもわかっているから無理して時間作ってくれなくてもいいんだけど。 ギイはすっかりその気になっていて、ドライブ行くならどこがいいかなんて章三と話をしている。 祠堂にいた頃は、休みになるとギイと街へ降りて映画を見たり買い物をしたり、今思えばデートらしいことをしていたようにも思う。 離れ離れになってからはもちろんそんなことはできなかったし、再会してからも食事をしたりはしてるけど、何しろ遠距離だったから丸々一日を使ってのデートなんてする暇はなかった。 (だけど今さらデートって) 一緒に暮らすというのに? 毎日一緒にいるっていうのに? 「うーん」 「何だよ、託生。もしかしてやっぱり運転に自信がないのか?ならオレが運転してもいいんだぞ」 「違います。わかったよ、じゃあ今度の日曜日にでもドライブに行こう。でもドライブってどこに行けばいいんだろう」 思わずつぶやいてしまった一言で、ぼくが本当に誰ともドライブに行ったことがないのだと証明はできたようだった。 佐智さんと同じく、ギイは大きなアメリカ車が好きだと聞いていたので、もしそんな車だったら運転は無理だと思っていたのだけれど、幸いなことにというべきか、ギイの車はごくごく普通の国産車で右ハンドルだったので、ぼくにも運転ができそうだった。 「ドライブ日和だなぁ」 朝起きると、ギイは窓を開けて空を仰いで大きく伸びをした。 ギイはまるで子供みたいに昨日の夜からうきうきとしていて、最初はドライブなんて、と思っていたぼくもそのうきうきが移ってしまったようで、朝からテンションが上がっていた。 いい年をして遠足前の小学生みたいで笑えてしまう。 「最近はナビがどこへでも連れてってくれるから便利だよなぁ」 少し早めに家を出て、高速を走って海へ行こうということになっていた。 途中でギイが見つけたというレストランで食事をする予定になっている。 「何だかほんとにデートみたいだね」 車に乗り込んでエンジンをかけると、助手席に乗ったギイが笑った。 「みたいだねって、ちゃんとしたデートだって」 「そうだけどさ」 えーと、ナビをセットして、あとETCカードも入れて。 何しろ初めて運転する車なので、やっぱりちょっと緊張するなぁ。 ギイの話もスルーしつつぼくは運転前のチェックをする。 「託生、顔が強張ってる」 「大丈夫だよ」 「運転するのってどれくらいぶり?」 「えーっと、半年ぶりくらいかな。実家に戻ったときに、母さんの買い物のお供をしてから運転してない」 「・・・・」 「そんな顔しなくても大丈夫だよ。はい、出発」 車幅に慣れてしまえばこっちのものだ。 微妙に顔が引きつっているように見えるギイを隣に乗せて、ぼくたちは初めてのドライブへと走り出した。 高速道路に乗ってしまうまでは何故か無言だったギイだけれど、乗ってしまうとやれやれといったようにFMのスイッチを入れた。 「ギイ、何だか緊張してない?」 「いや、今緊張が解けた」 「っていうか、やっぱり緊張してたんだ。だから、無言だったんだろ?」 もうここまできたら笑うしかない。 「いや、託生を信用していないわけじゃないよ。ほら、家から高速の入口までってけっこう狭い道もあるしさ、あれこれしゃべって託生の気が散らないようにってしてたんだって」 「それはどうもありがとう」 「正直なところ、託生が運転ってどうなんだろうって思ってたけど、安全運転だし、もう余計な心配しないでいいって分かったから、リラックスしてドライブを楽しむことにするよ」 ギイは言葉通り背もたれに身体を預けると、流れてくる音楽に目を閉じた。 相変わらず忙しくて、休日だってちゃんと休めてる様子のないギイだから、今日は何も考えずにゆっくりしてくれるといいんだけど。 「あ、この曲好き」 ぼくにはあまり馴染みのない洋楽が流れ、ギイが流暢な英語で口ずさんだ。 けれど、どうにも音程はあっていない。 「ギイ、相変わらず歌は苦手なんだね」 「苦手じゃないぞ。歌うのは好きだし。でもみんななるべく歌うなって言うんだよな」 「ふふ、赤池くんとかね」 「あいつ、人のことを音痴だと言い切るんだからな」 これ以上ない相棒でも、章三は容赦がない。 音楽はからっきしだというギイは、楽器も歌もびっくりするくらいに下手なのだ。 何でもできるスーパーマンみたいな人だけに、そうと知ったときはぼくも驚いた。 人間、誰にでも苦手なものってあるんだなぁとしみじみと思ったのと同時に、どこか人間臭くて安心した覚えもある。 だけどぼくはギイが歌ってるのを聞くのは嫌いじゃない。 何だかギイが小さい子供みたいに思えて可愛く見えるからだ。 そんなこと言ったら絶対にギイに嫌がられるだろうけど。 「道、空いてるな」 「うん」 高速道路は思っていたより空いていて、運転していても気持ちがいい。 ぼくは怖がりということもあるので、左車線を制限速度から大きくはみ出すことなくのんびりと運転をする。 英語の曲だから歌うことはできないけれど、ぼくもたった今聞き覚えたギイが好きだという曲を鼻歌で歌ってみる。 「託生は一度聴いたら全部歌えそうだな」 「そんなことないよ」 「ずっと音楽続けてるんだから、それも当然だよな」 ギイは窓を開けると吹き込む風に心地よさそうに目を細めた。 会えなかった8年の間、確かにぼくはギイの言うようにひたすら音楽に没頭していた。 そうしないといろんなことに押しつぶさそうになったのもあるけれど、何か一つ、ギイと再会した時に自信となるものが欲しかったのだ。 佐智さんのような才能がないのはわかっている。 一流の音楽家になりたいとか、そんな大それたことを考えていたわけでもない。 だけど簡単に手放すこともできなかった。 バイオリンは、ギイがぼくに与えてくれた生きていく中での宝物だ。 一度は手放してしまったけれど、彼がもう一度ぼくに与えてくれた。 だから、どうしてもバイオリンは続けたかった。 もしもう二度とギイに会えないのだとしても、バイオリンだけは続けようと心に決めていた。 「そういえば、昔赤池くんと矢倉くんと八津くんと4人で、真夏の音楽フェスに行ったことがあるんだよ。ほら、ぼくはクラシックばっかりでライブとか行ったことなかったから。楽しいから行こうって誘われて」 「へぇ」 「とにかく暑くてさ、矢倉くんに言われた通り大きなタオルを首にかけて、よく分からない曲も多かったけど、みんなで大声で応援して。飛び跳ねたり踊ったり。疲れたら芝生の上に座り込んでビール飲んでさ」 フェスが終わったあとはみんな興奮冷めやらぬまま、居酒屋で飲み明かした。 すごく楽しくて、今でも時々その時のことは話題に出るくらいだ。 「ああいうの、ギイも好きそうだな」 「好き好き。いいなぁ、オレも行きたかったな」 「また行こうよ」 フェスは毎年やっている。これからは行こうと思えばいつでも一緒に行ける。 そのことに気づくと、ぼくは何だか胸が熱くなった。 「不思議だな」 「うん?」 「こうして、またギイと一緒にいるのがさ」 「・・・」 もしかしたらもう二度と会えないんじゃないかと思ったこともあるのに。 だけどもう一度会えた。 また一緒にいることができた。 一緒にいようと思うことができた。 今は当たり前みたいそばにいることも、本当はすごく奇跡的なことなのだ。 「今さらだけど、もったいないことしたな」 「何が?」 ギイはうーんと低くうなると、本当に今さらだけど、と前置きして言った。 「8年の時間。こうして託生が免許取ってたり、絶対に行きそうにないフェスに参加してたり。たぶん、まだまだオレの知らないことがいっぱいあるんだろうなって。そういうの、できればオレが一番に知っていたかったし、一緒に体験したかったよ」 「それは、ぼくだって同じだよ」 「託生も?」 「そうだよ。だってぼくの知らないギイの8年間だってあるわけだろ?ギイが何してたのか、どんなこと考えてたのか、どんな経験してきたのか、ぼくだってそばにいて知りたかったし、一緒に体験したかったなって思うよ。そうだよね、考えてみればすごくもったいないことしたよね」 口にしてみると、本当にもったいないと思えてきた。 どうしようもなかったと分かっていても、取り戻せるなら取り戻したい。 「ごめんな」 ギイが腕を伸ばして、ふわっとぼくの髪を撫でた。 「全部オレのせいだよな。ごめん」 「違うよ。誰のせいでもない。こういうのは誰が悪いってことじゃないって思ってる。会いにいこうと思えば、ぼくだっていつでもギイに会いに行けた。でも行けなかった。だからギイだけが悪いんじゃないし、そんな風に思って欲しくない」 「そうだな」 「それに、もしかしたら8年の間、お互いに一人で頑張れたのは良かったのかもしれないなって思うんだよ。もしあのまま一緒にいたら、ぼくはギイに頼ってばかりだったし、ギイはぼくのこと甘やかしてばかりだっただろ?」 「そんなに甘やかしてるつもりはなかったけどな」 嘘ばっかり、とぼくは吹き出した。 あの頃は気づかなかったけれど、ぼくはぼくの気づかないところで、ギイにそれは大切にされていた。 ギイはいつもぼくが傷つかないようにと心を配ってくれていた。 もっとも、それは離れて初めて気づいたことだ。 祠堂で、そばにいる時には気づかなかった。 離れて初めて分かることもある。 その大切さが分かったから、もう二度と離れたくないと思う。 8年離れていたおかげで、いろんなことが見えるようになったなぁとぼくは思うから、だからギイに悪かったなんて思って欲しくはない。 「託生、安全運転だなぁ」 「あ、ごめん、遅かった?」 ちょっとぼんやりしててスピードが落ちてた。ぼくはぎゅっとアクセルを踏み込んだ。 「いや、大丈夫。車の運転見てるとその人の性格が分かるっていうけど、あれ、本当だよな。託生は無理せず無茶せず、周りを気にせず自分のスピードで走らせる」 「それ、褒めてるの?けなしてるの?」 「褒めてるの」 そりゃあさ、何しろギイを隣に乗せてるんだから、いつも以上に慎重にもなろうってものだ。 事故なんて起こして怪我させたくないし、スピードを出しすぎて隣に乗ってて怖いと思われたくもない。 なので、ぼくは周りから顰蹙を買わない程度に安全運転なのだ。 途中で何度かサービスエリアに立ち寄り休憩をした。 道の駅らしいところでは、ご当地グルメの誘惑が満載で、ギイはあちこち覗いては買い食いを始めた。 「ギイ、そんなの食べてたらお昼食べれらなくなるよ?」 「大丈夫大丈夫。こんなのおやつみたいなもんだろ」 言いながら、ほくほくのコロッケを一口食べて、美味いと満面の笑みを見せる。 こういうところを見ていると、この人は本当に世界的な大企業のFグループを率いる人物なのだろうかと首をかしげてしまう。 まるっきり高校生の時と変わっていない。 まぁそういうところも好きなんだけど。 「ほら、託生も一口」 「うん」 差し出されたコロッケを食べると、なるほどこれは確かに美味しい。 朝が早かったせいか、こういうのを食べると空腹感が増すんだよなぁ。 「託生も一つ買う?」 にやにやとぼくを見て、スタンドのコロッケ売り場を指さす。 「・・・・買う」 「だよなぁ。待ってろ」 ギイは軽い足取りでスタンドへ行き、今食べたばかりのコロッケをもう一つ買ってきてくれた。 薄い包み紙に入ったコロッケを受け取り、ぼくたちはベンチに腰かけた。 無言で二人して熱々のコロッケを頬張る。 ぼくたち同様にドライブ休憩に入ってきた車から出てくる女の子たちは、みんなギイの姿を目にして一瞬目を見開き、そして魅入られたように凝視して頬を染め、友達同士でこそこそと何やら話をしたり、恥ずかしそうに笑ったり。 (相変わらず目立つよなぁ) 昔からギイにはちょっとはっとするようなオーラがあって、すれ違う人がみんな一度は振り返る。 たぶん何気なく歩いていて、視界の端に何かキラキラするものがあって、何だろうって目をやるとそこにギイがいて、そしてそのまま釘づけになってしまうんだと思う。 だって、本当にこんなに綺麗な人がいるのだろうかと夢でも見ている気持ちになるからだ。 さすがにギイの存在が夢だなんて思わなくなっていて、おまけに毎日顔を見ていて、その麗しい造形には慣れているはずのぼくでも、時々見惚れてしまうことがあるくらいなのだから、世の女の子たちからすれば本当に王子様みたいに見えるんだろうなと思う。 当の本人はそんな視線などまったく意に介してないようで、ぼくからすれば感心してしまうくらいに完全スルーだ。 それはそれですごいなぁとも思う。強心臓がないと絶対無理だ。 「気持ちいいなぁ、天気もいいし、暖かいし」 「そうだね」 「託生もいるし」 「何それ、付け足しみたいに聞こえるんですけど」 思わず笑って、ギイの横腹を肘で押しやる。 「いやいや、やっぱりそれが一番の理由だって。ほんとに」 コロッケを食べ終えると、ギイが立ち上がり、 うーんと伸びをして大きく深呼吸した。ドライブってけっこう疲れるんだよね。座りっぱなしだからかな。 ぼくも食べ終えた包み紙をゴミ箱へと捨てて、同じように伸びをした。 「あと1時間くらいかな」 混んでなければそれくらいで第一の目的地であるレストランに到着できるだろう。 じゃあ行こうかと歩き出したぼくの手を、ギイはするりと繋ごうとする。 ぼくはその手をさりげなく解く。 人目なんて気にしないギイの気持ちが嬉しくもあり、だけど簡単には開き直れない自分の臆病さを寂しくも思う。 お前は周りの目を気にしすぎだと昔から言われているけど、やっぱり気になるんだからしょうがない。 たとえ知らない人ばかりだとしてもこればかりはどうしようもない。 だけどそれはギイと付き合っていることを恥じているとかそういうことではないのだ。 ただ単に、どんな理由であれ他人から注目されることに慣れないだけだ。 ギイはそんなぼくを責めるわけでもなく、しょうがないなというように笑うと先を歩き出した。 「ごめん」 小さく言うと、ギイは振り返って腕を伸ばしてぼくの髪をくしゃりと撫でた。 「そういう可愛いこと言うと、今ここでちゅーするぞ」 「・・・っ」 「あ、顔真っ赤」 「もうっ、からかうなよっ!」 「からかってないって、本気本気」 それがからかってるって言うんだよ。 いつまでたっても子供みたいなやりとりをしつつ、ぼくたちは車に戻り、再び高速を走り始めた。 しばらくすると海が見えてきて、今頃になってちょっとした小旅行をしている気分になってきた。 高速を降りてしばらく街中を走り、ギイが見つけてくれていたレストランに無事到着することができた。 本当にナビって素晴らしい。行ったことがない場所でもちゃんと導いてくれるのだから。 「お疲れさま」 駐車場に車を止めると、ギイはぽんとぼくの背中とひとつ叩いた。 運転自体はいいんだけど、やっぱり隣にギイが乗ってると思うと緊張したな。 ギイが見つけたというレストランは海が見えるちょっと高台にある店で、コテージ風の外観をしていて、女の子が好きそうな雰囲気の店だった。 こういう店に男二人でって大丈夫なのかなぁと思ったけれど、中には家族連れもいたりして、特に注目されることもなく席に案内された。 ちょっと離れた席に外国人のお父さんと日本人のお母さんという家族が座っていて、まだ幼稚園くらいのハーフであろう女の子がそれはそれは可愛くて、ぼくはいけないと思いつつも思わずまじまじと見つめてしまった。するとその視線に気づいた女の子もぼくをじーっと見つめ返した。 ぼくが笑って軽く手を振ると、女の子もにこっと笑って手を振ってくれた。 「可愛いな」 「んー?」 「ハーフの子ってやっぱり顔だちが日本人とは違うし、目立つよね。女の子はみんな可愛いし。ギイも小さい時ってあんな感じだったのかなぁ」 「そりゃもう天使みたいだって言われたさ」 「自分で言うなよ」 呆れて笑うと、ギイもまたいたずらっ子のような笑みを見せた。 だけど冗談ではなく、ギイも小さい頃はきっと女の子と間違われるくらいに可愛かったんだろうなと思う。 何しろ、祠堂に入学した頃だって美少女と見間違われたって話を聞いたことがあるし。 今、目の前で真剣な顔をしてメニューを眺めているギイは、可愛いなんて形容詞はぜんぜん似合わない。 端整な顔立ちはカッコいい部類に入るだろうし、歳を重ねた分大人っぽくなった雰囲気がクールで少し近寄りがたく見られるほどだ。 「どれも美味そうだなぁ」 メニューを広げて料理の写真を眺めていたギイが嬉しそうに言う。 今も昔も、食いしん坊なところは相変わらずだ。 「託生は何にする?」 店の外観からイタリアンとかフレンチの店かと思いきや、何ともお洒落な和食のメニューだった。 ぼくもギイも和食は大好きだ。 「どうしようかなぁ」 「オレ、このランチセットにする。メインはチキンで。託生はどうする?」 「んーと、じゃあ同じセットで、メインは魚にする」 にこやかな店員にオーダーを済ませ、ぼくたちは見るともなく窓の外を眺めた。 テラス席のテーブルには高校生くらいのカップルが仲よさそうに何やら話をしては笑っている。 付き合い初めなのかな。どちらかというと男の子の方が一生懸命話をしているのも見ていて微笑ましい。 「ああいうの見ると、祠堂を思い出す」 ギイの言葉にぼくは首を傾げた。 「オレたちも休みの日に街に降りて、あんな風にデートしたなぁって」 「ああ、そうだね。ギイ、あの頃からお店たくさん知ってたよね」 「託生のために頑張って情報仕入れてたんだぜ」 「そうなの?」 「託生に喜んでもらうためにあれこれ努力してたんだよ」 臆面もなく言うギイには笑うしかない。 その努力とやらを、ギイは今だって惜しむことはない。 今日のこの店だって、普段のギイの行動範囲からはまったく外れた場所だというのに、ちゃんと探してきてくれた。 あの頃、ギイのすることはすべてぼくの想像の上を行くものばかりで、ただ単純にすごいなぁと思うだけだった。 ギイは何でもできるから、それが普通だと思っていた。 だけど、今ギイが言った通り、本当はぼくの知らないところであれこれと努力をしてくれていたんだろう。 そういうの全然気づいていなくて、よくまぁギイに愛想を尽かされなかったものだと思う。 運ばれてきたランチは美味しくて、ぼくたちは新しい家のことや、今度章三たちと一緒に庭でするバーベキューのことなど、途切れることなく話をした。 気づくと、食後に運ばれてきたコーヒーを飲む頃には、店には数組の客しかいなくなっていた。 「思いがけず長居しちゃったね」 「別に次の予定があるわけでもないから問題ない」 店を出ると思っていたよりもずっと気温が上がっていて、汗ばむほどの陽気になっていた。 春も終わりを迎え、もうすぐ初夏がやってくる。 季節が巡るのって本当に早い。 特にギイと再会してからは、あっという間に時間がたつ。 近くに小さいけれどいくつか有名な絵を置いているという美術館があるというので行ってみることにした。 あまり聞かない名前の美術館だけど、けっこう人は入っていた。割とわかりやすい絵が多かったので、芸術には疎いぼくでも楽しめた。 「綺麗だったね。海外の風景画が多かった」 「そうだな」 「ギイ、行ったことあるとこばかりだった?」 「いや、まさか。お前、オレが世界中どこにでも行ってると思ってるんじゃないだろうな」 「だって、昔そんなこと言ってたし」 それこそロシア以外は行ったことあるなんて本気だか冗談だか分からないことを言っていたのを覚えてる。 それは大げさだとしても、けっこう事実なんじゃないかとも思う。 「たまには絵を見るのもいいな。気持ちが落ち着く」 「そうだね」 「今度はもうちょっと大きな美術館に行こうか。海外にもいいところいっぱいあるし」 「うわ、するっと言ったね。海外だなんて」 ぼくが驚くと、ギイの方こそ驚いたような表情を見せた。 「海外って託生が思っているほどハードルが高い場所じゃないだろ。昔、春休みにNYにだって一緒に行ったじゃないか」 「そうだけど」 「託生と一緒に行きたいところがたくさんある。見せてやりたい風景とか食べて欲しいものとか、オレが知ってるものを託生にも知ってほしいし、託生だけが知っているものも、オレに教えてほしい」 「うん」 うなづくと、ギイは約束な、と笑った。 「託生、ちょっと車動かして海見に行こうか」 「うん、いいよ」 それもこのドライブの目的の一つだ。 駐車場から車を出して海岸沿いにしばらく走り、目についたコインパーキングに再度車を止める。 目の前に広がる海に意味もなく楽しくなる。 潮風とか波の音とか。 日常から離れて景色というのは理由もなくドキドキさせてくれるものだ。 砂浜へと降りる階段を先に歩いていたギイが、ふと振り返ってぼくへと手を差し出した。 「なに?」 「託生、絶対転びそうだから」 「そこまでドン臭くないよ」 「という理由で手を繋ぎたいだけ」 だからほら、とギイがぼくを促す。 周りを見渡すと人気はほとんどない。 しょうがないなとぼくはギイの手を取った。 春の終わりの暖かい風が髪を乱して、シャツの裾がばさばさとはためいた。 遮るものが何もないから風をまともに受けることになる。 片手で風を遮りながら、ギイに手を引かれて砂浜へと降りた。 さくっと足が埋まる感触。 こういう感触は久しぶりだ。 スニーカー脱いだ方が歩きやすいのかなぁと思ったりもしたが、あとが大変なので諦めた。 「やっぱりまだ人が少ない」 「さすがに泳げないしな。このあたりはそれほど波もないからサーフィンするにも物足りないだろうし」 そういえば祠堂にいた頃も一緒に海見に行ったことあったなぁ。 思わず笑ったぼくに、ギイは不思議そうになに?と尋ねた。 「ううん。何だか何かつけて祠堂にいた頃のこと思い出すなぁって思って」 「ああ、それはまぁ仕方ないかもな。だってほら、オレたちが一緒に過ごした記憶って祠堂に直結してるから。二人で一緒に何かしたのって、全部祠堂でのことだろ」 「うん」 「再会してからの二人の思い出ってまだほとんどないけど、これから作っていくものだよな。オレはそっちの方が楽しみだよ。祠堂にいた頃も、リミットがあるって分かってたから何でも大事にしてたつもりだけど、8年間会えなくて、一緒にいられることがどれほど奇跡的なことか思い知らされたし、だからこれから過ごす時間も出来事も、全部大切にしたいって思うし、そのために今まで以上に努力したいって思ってる」 「うん・・・」 「あ、だからって託生が特別何かしなきゃとか、そういうの思わなくてもいいからな。託生は今のままでいいし、無理したりしなくていいから」 それはきっとギイの優しさであり愛情でもあるんだろう。 だけどギイ。 ぼくだってギイと一緒にいられる時間がどれほど奇跡的なことかは身を持って知っている。 何の努力もしないでは一緒にいられないんだってことも分かってる。 努力しないと続けられない恋愛なんて辛いだけだと言う人もいるだろうけど、でも何の苦労もしないで続けられる関係の方がきっと少ない。 だからギイが努力したいって思っているんなら、ぼくだって同じように努力しようって思う。 それは辛いことでも何でもない。 適当な場所に腰を下ろして、のんびりを波の音を聞きながら何てことのない話をしていると、どこからかビーチボールが飛んできた。 「ボール?」 ギイが手に取ると、すぐにそのボールを追いかけて女の子がやってきた。 その子はさっきのレストランにいたハーフの女の子だった。 視線を巡らせると、少し離れた場所に両親がぼくたちと同じように砂浜に腰を下ろしているのが見えた。 「はい」 ギイが女の子にボールを手渡すと、女の子はたどたどしい口調で何やら言った。 「英語?」 まさかこんな小さな子の口から英語が飛び出すとは思っていなかったので、ぼくはぎょっとして思わず身構えてしまった。 そしてすぐに、そういえばお父さんが外国人だから、英語で会話しているのかもしれないなと思い直した。 ギイがにっこり笑って何やら英語で返すと、女の子は笑顔を見せて手を差し出した。 「なに?」 「あー、一緒に遊ぼうってさ」 「うわ、ギイってばこんな小さい子にまでナンパされちゃうんだ」 「羨ましい?」 「いえいえ」 「行ってきていい?」 って、すでに女の子はギイの手をしっかりと握っている。 こんなに小さくても女の子だなぁ。カッコいい人をちゃっかりと見抜いてるんだから。 おチビちゃん将来は面食いになりそうだな。 ちょっとだけな、と断って、ギイはビーチボール片手に女の子の相手を始めた。 両親がすみません、とでもいうようにぼくへと頭を下げる。 まさかぼくとギイが恋人同士だなんて思ってるわけじゃないよな。 じゃあ普通の友達と思ってるのかな。男二人で海に来るなんて、やっぱりどういう関係だろうって思ってたりするのかな。 「まぁいいんだけど」 ぼくは立てた膝に顎を乗せて、ギイが女の子とボール遊びをする様子を眺めていた。 何とも平和な光景だ。 ギイは手加減しつつも女の子が夢中になれるように、あちらこちらへとボールを投げている。 楽しそうな嬌声をあげて女の子がボールを打ち返す。 (ギイって子供好きなのかな) 今まで子供と一緒に場面なんて見たことがなかったから、考えたこともなかった。 だけどあの様子を見ている限り、たぶん苦手ではないんだろう。 もしギイに子供ができたらとしたら、きっとすごく可愛がるんだろうなと思う。 ぼくといる限り、ギイは自分の子供とあんな風に遊ぶことはできない。 当然のことだけど、そういうことを今まであんまり考えたことがなかったことに気づいた。 (ギイの子供、ちょっと見てみたいかも) きっとすっごく可愛いに違いない。あのギイの遺伝子を受け継いだ子だったら、絶対頭もいい子になるだろう。 だけど、ぼくといる限りはギイの子供を見ることはできない。 いずれFグループを継ぐであろうギイの、その後継者となる子供はこの世には生まれない。 その事実にぼくは何だかひどい狼狽えてしまった。 だけど、すごく申し訳ないなと思うけれど、じゃあぼくの代わりに誰かがギイの子供を産むなんてことを考えるのは耐えられない。 どう考えてもそれは無理だ。 何だか自分はひどく自己中心的で欲張りな人間のような気がして、ぎゅっと胸の奥が痛くなった。 でもどうしようもない。 ぼくはギイのことを諦めないと、8年前に決めた。 ギイのことを好きでいようと、再会したらもう二度と離れないと決めた。 例えそれで誰かを傷つけても、悲しませても、ぼくはギイのことをあきらめることはできなかった。 それでも時々、それが正しいことなのかどうかわからなくなる。 迷わないと決めたのに。 ギイが遊び疲れた女の子を抱き上げる。嬉しそうに抱きつく女の子を両親の元へと連れていき、礼を言う両親たちに軽く会釈をして、ギイはぼくの方へと歩き始めた。 何の変哲もないジーンズと白いコットンのシャツ。 あっさりとした恰好でもギイだとすごくカッコよく見える。 乱れた髪を直して、ぼくへと優しい笑顔を向ける。 何気ない仕草とかちょっとした時の視線の向け方とか、どうしてこんなに目を引くのだろう。 別に面食いでもないし、ギイの魅力は外見だけじゃないって分かってるんだけど、いくつになってもカッコいいギイが好きだなぁとまた思う。 「託生?」 目の前に立つギイに声をかけられて顔を上げた。 逆光でギイの表情は見えなくて、目を細めた。 ギイはそのままその場にしゃがみこむと、すいっと手を伸ばしてぼくの頬に触れた。 「どうした、何泣いてんだ」 ギイが困ったように首を傾げる。 「あれ、ぼく泣いてる?」 ぱちぱちと瞬きすると、溜まっていた涙が零れ落ちるのを感じた。 驚いた。 自分でも泣いてるつもりなんてなかったのに。 「何だよ、独りぼっちにされて寂しかったか?」 「そんなわけないだろ」 「それともヤキモチ焼いてくれたとか」 わざと茶化したように言ってギイはぼくの隣に座ると、ごしごしと頬を拭うぼくの頭を抱きかかえるようにして腕の中へと引き込んだ。 そして素早くちゅっとこめかみにキスをした。 「ちょっと、ギイ!」 「あんなちびっこにヤキモチ焼くなよ」 「だから、そんなんじゃないってば」 「じゃあ何?」 ヤキモチでもぜんぜんいいんだけど、とギイは笑う。 「何だろ・・・」 「おいおい」 「ギイってカッコいいなーとか。あの女の子もすごく可愛かったし、もし・・・」 もし、ギイに子供がいたら、という言葉はかろうじて飲み込んだ。 そんなことを考えて泣いていたのかと思われたら、きっとギイは嫌な思いをする。 何を今更って怒られるかもしれない。 黙り込むぼくの頭をぽんと叩いて、ギイが立ち上がる。 「行こうか」 「・・・うん」 何も言わないギイにほっとして、ぼくはうなづいた。 手を引かれて立ち上がり、さっき降りた階段を上がって駐車場へと向かった。 「あー。すっかり砂まみれだな」 駐車場へ戻り、靴やパンツの砂を払った。 潮風のせいで何だか肌がべたべたする。 海って見ている分にはいいけど、こういうところが大変だ。 「なぁ託生」 「なに?」 「明日も休みだし、今日、どこかに泊まろうか」 「え?」 いきなりの提案にぼくは何て答えていいか分からず咄嗟に言葉が出なかった。 「たまにはゆっくりしよう。すぐにどこかの宿探すからさ」 ポケットからスマホを取り出して、素早く何か検索を始めた。 確かにぼくもギイも明日の予定は何もないから、今日どこかに泊まっても何の問題はない。 だけど急にどうしたんだろう。 しばらく何やらスマホを操作していたギイだが、 「よし、予約できたぞ」 と、得意気にぼくを見た。 「早い」 「最近はネットで何でも調べることができる、便利だな」 「ほんとに。だけどギイ、泊まる用意なんて何もしてきてないんだけど」 「下着くらいあればいいだろ、コンビニで何でも揃う」 なるほど。 確かに下着の替えさえあれば事足りる。女の子ならそういうわけにはいかないだろうけど、別に一日くらい同じ服を着てたってどうってこともないし。 コンビニって何でも売ってるしなぁ。 ほんと便利な世の中になったものだ。 ギイは車のキィをぼくから奪い取ると、さっさと運転席に座った。 「何だよ、ぼくが運転するのに。やっぱりちょっと不安に思ってた?」 「いや、単にオレも運転がしたいだけ」 ギイは笑って、さっさと運転席に座るとエンジンをかけた。男ならやっぱり助手席よりも運転席の方が楽しいよね。それほど車に興味がないぼくだって、運転するのは嫌いじゃないし。 たぶん、ここに来るまでもずっとギイは運転したかったに違いない。 それを我慢していたのかと思うと何だかおかしい。 だけど運転を変わってくれてよかったかもしれない。 あれこれ考えながら運転するのは危ないし。 ギイが予約した宿へと向かう途中のコンビニで下着の替えだけ購入した。 海辺から今度は山沿いへと車を走らせ、30分ほどするといくつか宿が見えてきた。 「この辺、キャンプ地みたいだからロッジもあるんだってさ。夏休みとか、きっと子供でいっぱいなんだろうな」 「へぇ、キャンプも楽しそうだな。ギイってキャンプしたことあるの?」 「あるさ。子供の頃には家族で行ったな」 「そっか。今度行きたいなぁ」 「いいよ。計画する」 ギイは嬉しそうに笑った。 ギイはぼくが何かをしたいとか、欲しいとか、そういうことを言うとすごく喜ぶ。 お前滅多にわがまま言わないからとギイは言うけれど、ぼくにしてみればぜんぜんそんなことはなくて、ギイが優しいことに甘えてあれこれと我儘を言ってるなと反省しているくらいだ。 むしろギイの方がそういう我儘って言わないなぁって思っている。 そうか、今度ギイの我儘っていうのも聞いてみよう。 ぼくにできることなら叶えてあげたいし。 「ほら、到着」 到着した宿はロッジではなくて、ごくごく普通の旅館だった。 いきなりなのによく予約が取れたなぁと思ったが、子供が休みとなる時期でなければ案外と空き室はあるらしい。 笑顔で迎えてくれた宿の人に部屋の鍵を渡されて、夕食の時間を告げられた。 まだたっぷりと時間がある。 大浴場はいつでも入れるということだったので、とりあえずべたついた体をさっぱりしたいな、と話しながら部屋へと向かった。 「広いね」 こざっぱりとした和室にほっとする。やっぱり日本人は畳だと落ち着くらしい。 お茶でも飲んで一息つこうかと、ギイが手早く準備をしてくれた。 ほんと昔っからマメで労を惜しまないというか。 「託生、疲れただろ。ずっと運転してたし」 「大丈夫だよ。たまにはドライブもいいよね。楽しかった」 ギイの言う通り少し疲れたように感じるのは、砂浜での光景がまだ頭の中にあるからだ。 思いもかけず涙を流してしまったり、自分で自分の気持ちが上手くコントロールできていないような気がして、ちょっと気持ちが落ち着かないのだ。 余計なことは考えてはいけないって分かっているのに、それが上手くできない。 (せっかく一泊旅行になったんだから、余計なこと考えないで楽しまなくちゃな) うん、とぼくはギイに見られないように小さくうなづいた。 一息ついたあとに、ぼくたちは二人そろって大浴場へ行った。旅館の大浴場だなんてギイと入るのは初めてで、それはそれでちょっとドキドキしたりもした。 今さら、と笑われそうだけど、何となく一緒にお風呂入るのっていうのは照れるのだ。 別に初めてでもないし、本当に今さらなんだけど。 それほど広くはないけれど綺麗で趣のあるお風呂を堪能して部屋に戻ると、すぐに食事の用意をしますと宿の人がやってきた。 何だかあれよあれよという感じだ。 朝、家を出た時にはまさか遠く離れた海辺の町の宿で一泊することになるなんて思ってもいなかった。 それが今、大浴場で汗を流してさっぱりとして、美味しい料理が目の前にある。 本当にギイといると先が読めなくていい意味で心臓に悪い。 「予想外に美味い」 用意された夕食を一口食べたギイは、ぱっと顔を輝かせた。 食いしん坊なギイが美味しいというだけあって、確かに食事はどれも美味しかった。 ぼくたちは新しく始まった生活のことをあれこれと話しながら、ぺこぺこだったお腹を満たした。 周りに何もないおかげで本当に静かな夜だった。 ぼくたち以外にはそれほどお客がいないんじゃないかと思うほどだ。 食事の後片付けをしてくれた宿の人は、そのまま二人分の布団を敷いてくれた。 「明日の朝食は7時からですので」 「わかりました」 「どうぞごゆっくり」 どうも、とギイがにっこりと笑うと、お母さん世代と思われる女性はやけに恥ずかしそうに部屋を出て行った。 「ギイの笑顔の威力ってすごい」 感心して言うと、ギイはちょっと嫌そうな顔をした。 ギイは嫌がるけど、笑顔一つで人を幸せにできるっていうのは特技だといっていいじゃないだろうか。 少なくとも嫌な気分にさせるよりはずっといい。 食事時に飲んだ日本酒でほろ酔い加減のぼくは、ふわふわの布団の上にぱたっと倒れこんだ。 「ギイのことを好きにならない人なんていないんだろうなぁ」 「そんなわけあるはずないだろ」 「ギイがその気になったら、きっとどんな人でも・・・」 どんな人でも選べるんだろうな。 ああ、だめだ。 一度負のスパイラルに入ると抜け出せない。 「託生」 ギイが布団に上であぐらをかいて、やけに真面目な顔をしてぼくを見た。 「ちょっとこっち来て」 「・・・」 ぼくはのろのろと起き上がると、向かい合うようにしてギイの前に座りなおした。 こういう表情のギイは何か考えているか、怒っているかだ。 ギイは頭の回転が早くて、考えていることをすぐにまとめて言葉にできる人だし、ずっとそうしていたと思うのだけれど、大人になってから、言葉にするのに一呼吸置くことが多くなったように思う。 たぶん一度発した言葉が後々に重要な意味を持つようになるということを、仕事をしていく中で身を持って知るようになったからだろう。 ギイは一つ息を吐きだすと、ぼくの手を取った。 「託生、何かろくでもないこと考えないか?」 何だよ、ろくでもないことって。 反論しようとして、だけど言い返せない。 本当にギイには隠し事なんてできないんだなぁと思い知らされる。 たぶん、海辺で涙してしまった理由を、ギイはずっと考えていたんだろう。 いや、もしかしたら理由はとっくに気づいていて、どんな風にぼくと話をしようかと考えていたのかもしれない。 そんな目に見えるほどに落ち込んでいたのだろうか。 託生は分かりやすいとギイは言うけれど、ぼくにしてみればあの時感じたことは、時々ちくりと痛む棘くらいのはずだったのに。 「何も考えてないよ」 「嘘つけ。ほら白状しろ。何が気になってる?オレに何か言いたいことある?」 「・・・・」 ごくごく普通の結婚だとか子供のいる生活だとか。 そういうものは望めないと分かっているし、だからといって今さら引け目を感じるつもりもない。 そういういろんなものと引き換えに、ぼくはギイといることを選んだ。 たぶんギイも同じだから、何も迷うことなどないはずなのに。 でも一度も聞いたことがないから、聞いておきたいと思った。 「ギイ」 「うん?」 「子供、欲しいと思う?」 ギイは一瞬目を見開いて、だけどやっぱりというような表情を見せた。 「そういう話、したことなかったよな」 「うん」 「海で、オレが子供と遊んでる姿見て、そんなこと思いついたのか?」 ぼくは少し考えてから自分の気持ちを確かめるように言葉を選んだ。 「最初はただ、ギイとあの小さな女の子が遊んでる姿がすごく綺麗で、ああ何だか映画のシーン見てるみたいだなぁとか、写真で残せたらいいなぁとか、ちょっと他人事っていうか、客観的に見てたんだ。でも、そんな作り物の世界じゃなくて、ギイにはそういう未来だって選ぶことはできるんだなぁって。ぼくじゃダメだけど、そういう選択肢だってあったんだなって」 ギイが深々とため息をついた。 「でも託生、オレがそういうの望んでないことくらわかってるだろ」 「うん・・・だけど、一度も聞いたことなかったから。不安になったわけでも何でもないけど、ギイの子供は可愛いんだろうなぁって思ったらちょっと怖くなった」 ぼくは数ある未来の可能性を間違いなく一つは選べなくしてしまった。 ただただギイが好きだからというだけで。 仕方がないとあっさりと割り切れるほどは強くなれなくて、だけどだからといってギイを諦めるほど物分かりがいいわけでもない。 そういう矛盾がぼくの中にはまだあって、何かの拍子に顔をのぞかせるのだ。 「子供かぁ、あんまり考えたことないな。まぁカリフラワーから生まれるっていうならいてもいいかなって思うけど。託生に似たら可愛いだろうし」 「はは、懐かしい」 無理やり押し付けられたカリフラワー。 二人の子供ができるだなんて冗談を言っていた。 ギイも笑って、ぼくの髪をくしゃりと撫でた。 「あれもこれも望むのは贅沢だよな。オレは託生といることを選んだ。後悔はしてないし、もし託生と一緒にいなかったらとか考えるのは無意味だと思う。だって、そんな未来は起こり得ないんだから」 「・・・うん」 「託生は子供が欲しかった?」 「え?どうかな。考えたことないよ。確かにカリフラワーから生まれるなら考えてもいいけど」 「だろ?」 くすくすと笑って、ギイはぼくの手を引いて抱き寄せた。 背中に回された手が、子供をあやすようにぽんぽんと背中を叩き、ぼくはぺたりとギイの肩に頬をくっつけた。 ギイと出会う前、祠堂でギイと出会ってから、離れていた8年間。 ぼくたちの前にはたくさんの選択肢があって、たぶん望めばどんな未来でも選ぶことができたのだ。 だけどその時その時で、自分が最善だと思う道を選んでここまできた。 今のぼくたちは、その結果としてここにいる。 だから何も後悔はしていない。 ぼくが物事の岐路に立った時、どちらの道を選ぶかの基準はギイだった。 それは「ギイならどうしたか」ということではなくて「ギイに言い訳しなくてはいけないような選択はしない」という基準だったように思う。 そばにいなくても、ギイは確かにぼくの中にいたのだ。 ギイはどうだったのかな。 何をするにも強い意志を持って決断できるギイだけど、少しはぼくのことを考えたりしたのだろうか。 ギイはぼくをぎゅっと抱きしめると、耳元にちゅっとキスをした。 「考えても仕方のないことは考えない」 「うん」 「オレは託生を選んだし、託生はオレを選んだ。いいこともあるし、悪いこともある。だけどそういうのって誰にとっても起こり得ることだし、何も悩む必要はない」 「わかってる。ちゃんとわかってる。だからってギイと別れた方がいいのかなとは思わないし。そんなことは思ってないよ。ただちょっと今まで考えたことなかったことだったから動揺しただけだよ。別れた方がいいのかなぁとか、そんなこと思ったわけじゃない」 よろしい、と笑ってギイはそのまま体重をかけてぼくを布団の上に横たえた。 「これからもさ、いろんな人があれこれとオレたちのことを言うかもしれないけど、そういうのも全部覚悟の上で、一緒に暮らすことを決めたし、この先も一緒にいようって決めた。オレたち二人がちゃんと納得してればそれでいい。誰が何を言おうと、オレたちだけはうつむかないで前を見ていよう」 それは口で言うほど容易いことではないだろう。 だけどギイの言葉はぼくの心の片隅に刺さっていた小さな棘を簡単に溶かした。 それほど特別なことを言われたわけでもないのに、どうしてギイの言葉だとするすると心に入ってくるのだろう。 「ごめん、おかしな心配かけたよね」 「いきなり新婚生活の危機かと思ったぜ」 「何だよ、それ」 思わず吹き出したぼくにギイが笑ってちゅっとキスをする。 ぼくがほっとしたように笑うと、もう一度ゆっくりと口づけられた。 その甘さにうっとりと目を閉じる。 そっと背中に腕を回して抱きしめると、同じ強さで抱き返してくれる。 そんな当たり前のことがすごく幸せで、またちょっと涙が出そうになる。 どうも今日は涙腺が緩くなってるなぁと自分でも呆れてしまった。 身につけていた宿の浴衣の帯を、ギイは慣れた手つきで解いた。 「ギイ、実はちょっと眠いんだけど」 「あー、ごめん。でも抱かせて?」 あまりにも切羽詰まった物言いがおかしくて、嫌とは言えなくなってしまった。 舐めてと差し出された長い指を口に含んだ。 ちゅっと音をさせて舌を絡ませていると、たったそれだけのことでも何だかおかしな気分になってしまう。 あらわになった胸元に何度も唇を這わされて、アルコールが入っていてちょっとふわふわしているのと、ギイが与えてくれる心地よさにすぐに身体が反応を示した。 何度も繰り返してきた行為だけど、何度してもいつも気持ちいいなと思う。 ギイに触れられると、ぼくはいつも安心してされるがままに身を任せてしまう。 ギイはいつもより時間をかけて身体のあちこちを掌で、唇で、舌先で辿った。 やがて唾液で濡れたギイの指先が狭く閉ざした場所を探り、奥へと入ってくる。 「痛くないか?」 掠れた声で問われて、ゆるゆると首を振った。 含まされる指を増やされるとその圧迫感に押されるようにして息を吐きだした。 明るい部屋でこんなことをするのは恥ずかしいと思うのに、感じやすい場所を探られると知らずと腰が浮いた。 焦らすようにギイが啄むような口づけを繰り返しては、耳元で好きだよと囁いてくれる。 高ぶっていく気持ちと身体に逆らえずに胸を喘がせていると、やがてギイが片肘をついて上体を起こした。 「もう大丈夫?」 熱い高ぶりを押し当てられて、何度もうなづいた。 身体の奥に先端が押し込まれ、たまらずぎゅっとギイの肩をつかんだ。 足裏を押し上げられて、緩く、けれど容赦のない力で埋め込まれ、思わず声が上がった。 「ふ・・・ぅ・・・」 「悪い、ちょっと我慢して」 大丈夫と言うと、ギイは困ったように笑って、ぐっと身を屈めて口づけてきた。 何度もきつく舌を吸い上げられて、息が苦しくなる。 じっと動かないでいられる方が辛くて、思わず腰を揺らすと、ようやくギイが前後に動き始めた。 「あ・・・っ、そこ・・・だめ・・」 抱えられた足が快楽に震えて反り返る。 どこをどうすれば気持ちよくなれるかお互いに分かっているのはいいのか悪いのか。 ギイは狙いすましたように奥のいいところを突いてくる。 「や・・・っ」 堪らなくなって両腕で顔を覆うと、ギイがそっとと手首をつかんで引きはがしてしまう。 「顔見せて」 「やだ・・・」 「気持よくなってる託生、めちゃくちゃ色っぽいし」 「悪趣味だよ」 「そうかな。なぁ託生、上になって?」 言うなりギイは反動をつけて繋がったまま起き上がると、ぼくの腰を自分の方へと引き寄せた。 ぴたりと胸が合わさって、目の前にギイの顔があった。 薄く頬を上気させたギイはぼくだけが知っているギイだ。 「動いて」 低い声で囁くように言われて、すがりつくようにして肩先に顔を埋めた。 身体の奥で燻っていた熱が再び温度を上げて、繋がった部分からとろとろと溶けていきそうな気がして怖かった。 膝に力を入れてゆっくりと腰を上下させると、濡れた音がして羞恥心を煽った。 知らず知らずにうちに薄く涙の膜を張った視界の中にギイがいて、その顔がひどく優しいものだったので、何だか幸せな気持ちで胸がいっぱいになった。 「ギイ」 「うん?」 「大好き」 この歳になって、そんな甘ったるいことを言う顔は見られたくなくて、ぼくはぎゅっとギイの首筋にすがりついて顔を隠した。 ギイが笑う気配を感じる。 そして、同じ言葉を耳元で返してくれた。 朝目覚めると、何だか布団が大変なことになっていた。ぼくは昨夜二人してやけに盛り上がってしまったことを鮮明に思い出してしまって一人で恥ずかしさから死にたくなった。 ギイはすぐ隣ですやすやと眠っていて、くしゃくしゃに乱れた髪が朝日に透けて金色に光っているのを見ると、 (祠堂にいた頃みたいだな) とちょっと懐かしくなった。 そっと手を伸ばしてふわふわの髪に触れてみると、ギイは小さく身じろいで、だけど目を覚ますことなく、ぼくのそばへところりと寝返りを打った。 小さな子供みたいで可愛いなぁとか、やっぱり肌の色が白いなぁとか。 たいした運動もしてないくせに、どうしてこんなに筋肉質なんだろうとか。 ギイを見ているといろいろと思うところが満載で、だからずっと見ていても飽きない。 ぼくがあまりにも凝視しているせいか、やがてギイはゆっくりと目を開けた。 「おはよう、ギイ」 「んー、おはよ」 長い腕がぼくの身体に巻き付いてきて、引き寄せようとしてくる。 ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、幸福感に押しつぶされそうになる。 「ねぇギイ」 「うん?」 「犬が飼いたいな」 「は?」 さすがのギイも突然のぼくのセリフに一気に眠気が覚めたようで、鳩が豆鉄砲を食ったような表情がおかしくて笑ってしまう。 今までそんなことを考えたことはなかったけれど、あの海辺で小さな女の子と遊んでいたギイの姿はやっぱりすごく印象的で、あんな風に無邪気に無心に遊んでいる姿をもう一度見たいなと思ったのだ。 ギイが本当に心から楽しんでいる姿を見ているとぼくも幸せになれる。 だけど、そういうのにはパートナーが必要だ。小さい子供や犬とか。 子供は無理なら犬かな。 そう思っていたけれど、布団の中でぐっすりと眠る姿や、子供みたいに甘えてくる姿を見ていると、ギイの方が大きな犬みたいだなとも思えてきた。 犬と遊ぶギイも、ギイみたいな犬も、ぼくはどっちもいいなぁと思ったのだ。 何となくぼんやりと思っていたことだけど、口にしてみるとそれは何だかすごくいいことのように思えてきた。 「大きな犬がいいな。せっかく戸建の家で庭もあるんだし、二人で一緒に犬を育てるのも楽しそうじゃない?」 ぼくの言葉を少し考えていたギイは、いいよとうなづいた。 「あ、ギイって犬は嫌いとかじゃない?」 「いや、動物は好きだよ。飼ったことはないけどな。犬かぁ、じゃあいい犬がいないか探してみるよ」 「ありがとう。楽しみだな」 突拍子もないぼくのお願いを叶えるために、ギイは寝起きの頭であれこれと考え始めているようだった、 ギイと再会して、また一緒にいるようになって、家を買って、これからずっと暮らすことになった。 たった1年ほどの間に目まぐるしく状況が変わって、何だかついていくのがやっとだけれど、ギイといると、ぼくはこれからの始まる生活も未来も何もかもが素晴らしいものになるような気がしてならない。 たくさんの選択肢の中から選んだ一つの未来が間違いではなかったのだと、ギイはぼくに教えてくれる。 そんな風に思える人を好きになってよかった。 そんな人から好きになってもらえてよかった。 これからも、ぼくたちが選んでいく未来がすべて幸せなものでありますように。 ぼくはギイの手を握ってそう願った。 |